ヴァレリィは、思わず息を呑んだ。
覆い被さってくるリュカの姿。
その必死の形相を目にした途端、世界から音という音が消え去った。
時の流れが遅くなって、雨粒の一滴一滴が粘つくように宙空に留まって見える。
彼の唇が『ヴァレリィ』と、そう動くのが見えた。
(ダメだ! やめろ! やめてくれ!)
胸の内で必死にそう叫ぼうとも声は出ず、意識だけが身体の外へと飛び出してしまったかのように指先一つ動いてくれない。
そんな彼女の目の前で父親の振り下ろした大剣が、彼の頭上へと迫っていく。
頭から真っ二つ、肉を切り裂き、骨を砕いて、刀身がゆっくりと彼の胸元まで食い込んでいく。
そんな未来の光景が、彼女の脳裏を過る
(いやぁぁあ――――――!)
彼女は絶叫した。
いや、絶叫したのだと思う。
だが、もはや自分が叫んでいるのかどうかすらわからない。
そんな彼女の上へと、彼の身体が覆い被さってくる。
圧し掛かってくる確かな重み、伝わってくる暖かな体温。
彼女は必死でその身体を抱き止めた。
だが次の瞬間、彼の肩越しに目にした光景に彼女は戦慄した。
色を失った彼女の唇の間から「あ、あぁ……」と吐息の洩れるがままに、声が零れ落ちる。
父親の大剣は彼が掲げた刃の上を滑って逸れ、鈍い音を立てて地面を穿つ。
剣先が激しく泥をはね上げ、びちゃりと音を立てて彼女の頬を打った。
父の驚愕の表情、次の瞬間、それが苦しげに歪んだ。
降りしきる雨粒に、赤い雫が混じって落ちる。
リュカの肩越し、その向こう側。
彼女がそこに見たのは首筋を切り裂かれ、激しく血を噴き出す父の姿。
見開かれた父親のその目は呆然と宙空を見つめ、驚愕の表情のままに唇が虚しく動いていた。
一呼吸の間を置いて、その手から滑り落ちた大剣がガランと重い音を立てて地を打った。
「父上ぇええぇぇえええぇぇ――――――!」
彼女自身の絶叫が耳を切り裂いて、世界に音が戻ってくる。
ヴァレリィは、我を忘れて必死に手を伸ばした。
(何だ!? 何だこれは?)
何が起こっているのかは、やはりわからない。
だが、彼女はもうわかっている。
父親の命が助からないことを。
「……すまない」
耳元に、リュカのそんな囁きが聞こえた。
途端に彼女の視界の中で、ぐらりと父親の身体が揺らぐ。
ヴァレリィは、リュカの身体を力任せに跳ねのけた。
「父上っ!」
だが、伸ばした手は届かない。
父親はそのまま真後ろに倒れこみ、どさりと鈍い音が雨音に混じる。
彼女は必死に泥を掻いて、父のそばへと這い寄った。
水たまりの中に広がっていく赤い色。
泥の中へと父親の命が拡散していく感触が、彼女の正気を蝕んでいく。
「あ、あぁあぁ……い、いやだ、や、やだ、ああああァ!」
彼女はもはや自分でも何をしているのかわからなくなっていた。
ただ、父の身体から流れ出る血を止めようと必死に両手で傷を押さえつけている。
掌は赤く染まり、指の間から赤い血が、父の命が零れ落ちていく。
「父上、父上ぇ…………」
声が潤み始めて、言葉尻が弱々しく消えていく。
だがその時、父親の震える手が彼女の頬を撫でた。
思わず目を見開いた彼女に、彼はどういう訳か弱々しいながらも満足そうな表情で一つ頷いた。
そして次の瞬間、力なく垂れ落ちた彼の手が地面を打って、命の燃え尽きる音がした。
「おお、あ、あ、あ、あぁおおおおおおァああ!」
断末魔の獣のような呻き声を上げて、彼女は父の身体を必死に揺する。
戦場で幾多の死を見て来たのだ。
彼女にこれがどんな状況なのかが理解できない訳はない。
もはや手の尽くしようのないことだってわかっている。
ただ、頭がそれを受け入れることを拒んでいた。
「ちちうえぇ、父上、目を、目を開けてくれ、お願いだ、お願いだからぁああああ!」
どれだけ呼んでも揺らしても、もはや彼が返事をすることはない。
◇ ◇ ◇
父親の冷たい身体に取りすがって、声を上げるヴァレリィ。
リュカはそんな彼女をぼんやりと見ていた。
取り乱す彼女の姿を感情の無い瞳で、ただ眺めていた。
彼女が取り乱すのは当然。
リュカはそう思う。
だが彼自身はというと、胸の奥に形のはっきりとしない嫌な感触が蟠っているだけ。
自分はきっと、どこか大切な部分が壊れてしまっている。
リュカはそう思った。
しばらくすると、ヴァレリィがゆらりと立ち上がり、泥の中に転がっていた父の大剣を拾い上げるのが見えた。
「どうして……お前は……!」
締め上げられたかのような擦れた声、髪の先から滴り落ちる雫の向こうに、俯いたまま立ちつくす彼女の姿が見えた。
どうして、そう問われてもリュカに言える言葉は一つしかない。
「……すまない」
「誰が助けてくれと言った! 誰が父上を殺してくれと頼んだ! 誰が……誰、がっ!」
ギリギリと歯を食いしばる彼女の頬を滴り落ちるのは雨か、涙か。
彼女は父親の大剣を拾い上げ、ゆらりと彼の方へと歩み寄ってくる。
そんな彼女の姿を見上げて、リュカは思った。
――やはり、こうなった、と。
後悔はしていない。
彼女を救うということは、すなわちこういうことなのだ。
これまで数多の殺しに手を染めて来た報い。
そうなのかもしれない。
彼女と想いを通じ合わせることが出来た。
そう思えた途端に、運命というヤツは即座に全てを奪い取りにきたのだ。
彼女は助けなど求めてはいなかった。父親の死など望んでいなかった。
だから、こうなることはわかっていた。
だが、リュカは決めた。
決めたのだ。
決してこの女を殺させはしない。
そう決めたのだ。
その時点で彼は自分の命を諦めた。
一度諦めてしまうと、むしろ数多の人間を手に掛けながら、ここまで生きながらえてきたことの方が不思議に思えた。
因果応報。殺す者は殺される。
あとは静かに目を閉じて、彼女が為すことを受け入れればいい。
そうすれば彼は死んで、彼女は生き残る。
それで良い。
それで良いのだ。
それでも良いと思えるほどに、彼は彼女に生きていて欲しいと、強くそう願ってしまったのだ。
これが世に言う『愛』というものなのかはわからない。
今までそんな思いを抱いたことはないのだ。違うかもしれない。
いや、違うだろう。
もっと自分勝手で一方的な……いうなれば只のわがままだ。
彼女が望んだことではないのだから。
(公爵さまよぉ……アンタの気持ちってのがわかっちまった)
リュカは苦笑して、先ほどヴァレリィがそうしたように頭を垂れて静かに首筋を晒した。
痛いのは苦手なのだ。出来れば痛みを感じる暇もないように、一撃で仕留めてくれればありがたい。
ヴァレリィの腕なら、きっとそれぐらいは訳も無いだろう。
頭上で剣を振りかぶる風斬り音が聞こえてきた。
人はいつか死ぬ。
殺しに手を染めてきた自分は碌な死に方をしないとは思っていたが、彼女の手にかかるのなら悪くない、と思う。
リュカは従容とその瞬間を待ち受ける。
静まり返る森の中に、しとしとと雨音が響いている。
だが、いつまでたっても剣が振り下ろされる気配がない。
リュカが静かに顔を上げると、剣を振り上げたまま、ヴァレリィは顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくっていた。
「……美人が台無しだ」
彼が口元を緩めた途端、彼女の手から滑り落ちた大剣が地面を叩いて、彼女はその場にぺたんと座り込んでしまった。
「う、ううっ、うぇええええええええ」
「……泣くなってば」
大声を上げて泣きじゃくる彼女にリュカが呆れ混じりにそう呟いた途端、彼女は彼に縋りつき、そのままその頭を胸元に抱き寄せた。
それは溢れる感情を持て余したかのような乱暴な挙動。
呼吸もままならないほどに、強く抱きしめられて身を捩る彼の耳元で、ヴァレリィは呻くようにこう囁いた。
「旦那さま、私はおかしくなってしまった。おかしくなってしまったのだ。父上を殺した男が……。旦那さまが。死なずに生きていることがうれしくて、かなしくて。そんなお前が憎くて……そんな自分が憎くて、旦那さま、私はおかしくなってしまった。おかしくなってしまった……」
夜の闇を怖がる子供のように身を震わせながら、彼女はリュカを抱きしめる。
彼は静かに顔を上げると彼女の目を見つめ、そして静かにこう囁いた。
「俺は……いや、俺と公爵さまは、ただお前に生きていて欲しかったんだ」
そして彼は、彼女の唇を自らの唇で塞ぐ。
激しく降りしきる雨の中。抱き合う二人の影が重なり合って、一つになった
覆い被さってくるリュカの姿。
その必死の形相を目にした途端、世界から音という音が消え去った。
時の流れが遅くなって、雨粒の一滴一滴が粘つくように宙空に留まって見える。
彼の唇が『ヴァレリィ』と、そう動くのが見えた。
(ダメだ! やめろ! やめてくれ!)
胸の内で必死にそう叫ぼうとも声は出ず、意識だけが身体の外へと飛び出してしまったかのように指先一つ動いてくれない。
そんな彼女の目の前で父親の振り下ろした大剣が、彼の頭上へと迫っていく。
頭から真っ二つ、肉を切り裂き、骨を砕いて、刀身がゆっくりと彼の胸元まで食い込んでいく。
そんな未来の光景が、彼女の脳裏を過る
(いやぁぁあ――――――!)
彼女は絶叫した。
いや、絶叫したのだと思う。
だが、もはや自分が叫んでいるのかどうかすらわからない。
そんな彼女の上へと、彼の身体が覆い被さってくる。
圧し掛かってくる確かな重み、伝わってくる暖かな体温。
彼女は必死でその身体を抱き止めた。
だが次の瞬間、彼の肩越しに目にした光景に彼女は戦慄した。
色を失った彼女の唇の間から「あ、あぁ……」と吐息の洩れるがままに、声が零れ落ちる。
父親の大剣は彼が掲げた刃の上を滑って逸れ、鈍い音を立てて地面を穿つ。
剣先が激しく泥をはね上げ、びちゃりと音を立てて彼女の頬を打った。
父の驚愕の表情、次の瞬間、それが苦しげに歪んだ。
降りしきる雨粒に、赤い雫が混じって落ちる。
リュカの肩越し、その向こう側。
彼女がそこに見たのは首筋を切り裂かれ、激しく血を噴き出す父の姿。
見開かれた父親のその目は呆然と宙空を見つめ、驚愕の表情のままに唇が虚しく動いていた。
一呼吸の間を置いて、その手から滑り落ちた大剣がガランと重い音を立てて地を打った。
「父上ぇええぇぇえええぇぇ――――――!」
彼女自身の絶叫が耳を切り裂いて、世界に音が戻ってくる。
ヴァレリィは、我を忘れて必死に手を伸ばした。
(何だ!? 何だこれは?)
何が起こっているのかは、やはりわからない。
だが、彼女はもうわかっている。
父親の命が助からないことを。
「……すまない」
耳元に、リュカのそんな囁きが聞こえた。
途端に彼女の視界の中で、ぐらりと父親の身体が揺らぐ。
ヴァレリィは、リュカの身体を力任せに跳ねのけた。
「父上っ!」
だが、伸ばした手は届かない。
父親はそのまま真後ろに倒れこみ、どさりと鈍い音が雨音に混じる。
彼女は必死に泥を掻いて、父のそばへと這い寄った。
水たまりの中に広がっていく赤い色。
泥の中へと父親の命が拡散していく感触が、彼女の正気を蝕んでいく。
「あ、あぁあぁ……い、いやだ、や、やだ、ああああァ!」
彼女はもはや自分でも何をしているのかわからなくなっていた。
ただ、父の身体から流れ出る血を止めようと必死に両手で傷を押さえつけている。
掌は赤く染まり、指の間から赤い血が、父の命が零れ落ちていく。
「父上、父上ぇ…………」
声が潤み始めて、言葉尻が弱々しく消えていく。
だがその時、父親の震える手が彼女の頬を撫でた。
思わず目を見開いた彼女に、彼はどういう訳か弱々しいながらも満足そうな表情で一つ頷いた。
そして次の瞬間、力なく垂れ落ちた彼の手が地面を打って、命の燃え尽きる音がした。
「おお、あ、あ、あ、あぁおおおおおおァああ!」
断末魔の獣のような呻き声を上げて、彼女は父の身体を必死に揺する。
戦場で幾多の死を見て来たのだ。
彼女にこれがどんな状況なのかが理解できない訳はない。
もはや手の尽くしようのないことだってわかっている。
ただ、頭がそれを受け入れることを拒んでいた。
「ちちうえぇ、父上、目を、目を開けてくれ、お願いだ、お願いだからぁああああ!」
どれだけ呼んでも揺らしても、もはや彼が返事をすることはない。
◇ ◇ ◇
父親の冷たい身体に取りすがって、声を上げるヴァレリィ。
リュカはそんな彼女をぼんやりと見ていた。
取り乱す彼女の姿を感情の無い瞳で、ただ眺めていた。
彼女が取り乱すのは当然。
リュカはそう思う。
だが彼自身はというと、胸の奥に形のはっきりとしない嫌な感触が蟠っているだけ。
自分はきっと、どこか大切な部分が壊れてしまっている。
リュカはそう思った。
しばらくすると、ヴァレリィがゆらりと立ち上がり、泥の中に転がっていた父の大剣を拾い上げるのが見えた。
「どうして……お前は……!」
締め上げられたかのような擦れた声、髪の先から滴り落ちる雫の向こうに、俯いたまま立ちつくす彼女の姿が見えた。
どうして、そう問われてもリュカに言える言葉は一つしかない。
「……すまない」
「誰が助けてくれと言った! 誰が父上を殺してくれと頼んだ! 誰が……誰、がっ!」
ギリギリと歯を食いしばる彼女の頬を滴り落ちるのは雨か、涙か。
彼女は父親の大剣を拾い上げ、ゆらりと彼の方へと歩み寄ってくる。
そんな彼女の姿を見上げて、リュカは思った。
――やはり、こうなった、と。
後悔はしていない。
彼女を救うということは、すなわちこういうことなのだ。
これまで数多の殺しに手を染めて来た報い。
そうなのかもしれない。
彼女と想いを通じ合わせることが出来た。
そう思えた途端に、運命というヤツは即座に全てを奪い取りにきたのだ。
彼女は助けなど求めてはいなかった。父親の死など望んでいなかった。
だから、こうなることはわかっていた。
だが、リュカは決めた。
決めたのだ。
決してこの女を殺させはしない。
そう決めたのだ。
その時点で彼は自分の命を諦めた。
一度諦めてしまうと、むしろ数多の人間を手に掛けながら、ここまで生きながらえてきたことの方が不思議に思えた。
因果応報。殺す者は殺される。
あとは静かに目を閉じて、彼女が為すことを受け入れればいい。
そうすれば彼は死んで、彼女は生き残る。
それで良い。
それで良いのだ。
それでも良いと思えるほどに、彼は彼女に生きていて欲しいと、強くそう願ってしまったのだ。
これが世に言う『愛』というものなのかはわからない。
今までそんな思いを抱いたことはないのだ。違うかもしれない。
いや、違うだろう。
もっと自分勝手で一方的な……いうなれば只のわがままだ。
彼女が望んだことではないのだから。
(公爵さまよぉ……アンタの気持ちってのがわかっちまった)
リュカは苦笑して、先ほどヴァレリィがそうしたように頭を垂れて静かに首筋を晒した。
痛いのは苦手なのだ。出来れば痛みを感じる暇もないように、一撃で仕留めてくれればありがたい。
ヴァレリィの腕なら、きっとそれぐらいは訳も無いだろう。
頭上で剣を振りかぶる風斬り音が聞こえてきた。
人はいつか死ぬ。
殺しに手を染めてきた自分は碌な死に方をしないとは思っていたが、彼女の手にかかるのなら悪くない、と思う。
リュカは従容とその瞬間を待ち受ける。
静まり返る森の中に、しとしとと雨音が響いている。
だが、いつまでたっても剣が振り下ろされる気配がない。
リュカが静かに顔を上げると、剣を振り上げたまま、ヴァレリィは顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくっていた。
「……美人が台無しだ」
彼が口元を緩めた途端、彼女の手から滑り落ちた大剣が地面を叩いて、彼女はその場にぺたんと座り込んでしまった。
「う、ううっ、うぇええええええええ」
「……泣くなってば」
大声を上げて泣きじゃくる彼女にリュカが呆れ混じりにそう呟いた途端、彼女は彼に縋りつき、そのままその頭を胸元に抱き寄せた。
それは溢れる感情を持て余したかのような乱暴な挙動。
呼吸もままならないほどに、強く抱きしめられて身を捩る彼の耳元で、ヴァレリィは呻くようにこう囁いた。
「旦那さま、私はおかしくなってしまった。おかしくなってしまったのだ。父上を殺した男が……。旦那さまが。死なずに生きていることがうれしくて、かなしくて。そんなお前が憎くて……そんな自分が憎くて、旦那さま、私はおかしくなってしまった。おかしくなってしまった……」
夜の闇を怖がる子供のように身を震わせながら、彼女はリュカを抱きしめる。
彼は静かに顔を上げると彼女の目を見つめ、そして静かにこう囁いた。
「俺は……いや、俺と公爵さまは、ただお前に生きていて欲しかったんだ」
そして彼は、彼女の唇を自らの唇で塞ぐ。
激しく降りしきる雨の中。抱き合う二人の影が重なり合って、一つになった