リュカが眉根を寄せるのと同時に、ヴァレリィがオリガの上から跳ねるように身を起こした。

「ち、ち、父上!?」

 それは金鷹(きんよう)騎士団の先々代団長にして、ヴァレリィの父サヴィニャック公爵、その人であった。

 彼はリュカたちのすぐ傍までやってくると、馬を停めてその背から飛び降りる。

「ち、父上……。ど、どうしてこんなところに?」

 ヴァレリィが緊張の面持ちでそう問いかけるも、彼がそれに答えようという気配は無い。

 彼はリュカに目を向け、そして身を起こして座り込んでいるオリガを一瞥(いちべつ)して、誰に聞かせるでもなくこう呟いた。

「……テルノワールまで行く手間が省けたようだな」

 そして彼は、ギロリとヴァレリィを睨みつける。

「姫殿下を(しい)したそうだな、我が娘よ。忠誠無比と音に聞こえし、我がサヴィニャック家から大逆者を出そうとは……。九族に及ぶ罪をわずかにでも(そそ)ぎ、サヴィニャック家を永らえさせるには、もはやお前の首と私の命。この二つをもって国王陛下の慈悲に(すが)るより他にあるまい」

 とんでもない殺気を放ちながら重々しく告げる父親に、ヴァレリィは(たま)らず声を上げた。

「違う! 違うのだ、父上! 私は姫殿下を手に掛けてなどいない!」

「ならばその手枷はどういうことだ!」

「これは……誤解なのだ。そこにいるオリガが」

 と、ヴァレリィが背後を振り返った時には既にオリガの姿は無かった。

 耳を澄ませば雨音に混じって、木々の間を走り抜けていく甲冑の足音が聞こえてくる。

「あいつ……!」

 リュカは思わず歯噛みする。サヴィニャック公爵のあまりの存在感の濃さに、ついつい彼女から目を離してしまったのだ。

「公爵さま! 本当なんです! 姫殿下は死んでなんていないし、団長は何もしていません。これは……姫殿下が仕掛けた罠、そう、罠なんです!」

 リュカが言葉を選びながらそう告げると、公爵は彼の方へと向き直り、ギロリと剣呑な視線を向ける。

 公爵家本邸で面談した時とは似ても似つかない異常なまでの迫力。

 恐らくこれが武人としての彼の本来の姿なのだろう。

 怒鳴りつけられるかと思わず身構えるリュカに、彼は静かに一言、こう告げた。

「そうか……そこまで辿り着いておったか。ならば(たばか)る必要もあるまい」

「え……?」

「わかっておる。姫殿下が生きておられることも、今どこにおられるかも……な」

「それならどうして!」

「だからこそ! だからこそだ。私に姫殿下の過ちを暴きたてることなど出来ぬ。王家への忠誠を果たして、()つ我がサヴィニャック家を(ながら)えさせるためには、私と娘は死なねばならぬのだ!」

「何言ってるかさっぱりわからねぇぞ! このクソ親父!」

 もはや言葉遣いを気にしている場合ではない。

 思わず声を荒げるリュカ。

 だが公爵はそれを見据えて、押し殺したような声で告げた。

「貴様にはわからぬだろうな。姫殿下を弑逆(しいぎやく)した娘を父がその手で成敗したという形にして、他の者の助命を嘆願する。そうでもせねば、国王陛下も(ほこ)を収める訳にはいくまい。ましてや全ての罪を姫殿下に押し付けることなど出来るはずがない。あの方は何も悪くないのだからな。たとえ、貴様が受け入れられなくともあの方の苦しみを、あの方の哀しみを、この私が受け止めぬ訳にはいかんのだ」

「アンタ、自分が何言ってるかわかってんのか? 姫殿下の(あやま)ちを隠す為に娘を殺すってのかよ!」

「無論だ! 忠誠こそが我がサヴィニャック家の誇りだ!」

「馬鹿げてる!」

 思わず鼻白むリュカ。そんな彼の前に、ヴァレリィが静かに歩み出た。

「お、おい……」

 彼女は戸惑う彼を振り返って静かに微笑みかけると、父親へと向き直る。

「父上……私は死なねばならぬのですか?」

「死なねばならぬ」

「旦那さまは、どうなのです?」

「お前と私が死ぬことで、サヴィニャック家を(ながら)えさせようとしておるのだ。守ろうとしているもの。そこには当然、婿殿も含まれておるとも」

 すると、ヴァレリィは小さく頷いて、再びリュカの方を振り返った。

「すまん、旦那さま。やはり私はサヴィニャック家の女なのだ。王家への忠誠、そのために身を投げ出せと言われれば従わぬ訳にはいかぬ」

「はぁあッ!? ちょ、ちょっと待てよ! そんなの間違ってる!」

「間違っている? ふむ、そう見えるかもしれん。いや、実際そうなのかもしれん。だが、それが我々サヴィニャックの家なのだ、旦那さま。国王陛下が望まれるならその命さえ捧げる。むしろ笑って自らの命を捧げられることにこそ、我々は名誉を見出すのだ」

 ヴァレリィは静かに微笑みを浮かべる。それは華やかな表情とは裏腹などこか無理のある、寂しげな別れ際の笑顔。

「旦那さま、最後にお前と想いを交わせて、私は幸せだった。私は愛されたのだと胸を張って死んで行けるのだからな。もう、お前は自由だ。私以外の誰かを愛したとしても決して恨みはせぬ。だが、忘れられてしまうのは寂しい。ほんの少しでいい。ほんの少しで……良いんだ。時々、私のことを思い出してもらえるなら、私は……それで満足だ」

ヴァレリィはそう言って父親の傍に歩み寄ると、その足元に(ひざまず)き、静かに(こうべ)を垂れる。

 手枷の()まったままの手で長い赤毛をまとめ、ゆっくりと白い首筋を晒した。

「うむ、お前のような娘を持てたことを誇りに思う。我が娘よ! お前の名は汚名に(まみ)れることになるが、許せ。お前の首を王宮に届けたら、すぐに私も後を追おう」

 父親は静かに目を閉じる。沈黙、ただしとしとと地面を打つ雨音だけが世界を包み込んだ。

(なんだこれ? なんだこれは? 名誉のために、家を護るために、父親が娘を殺す? バカな、そんなバカなことがまかり通るのか? ヴァレリィになんの罪がある? この女にどんな非がある? 俺はこの女を失うのか? なんで? どうしてこうなった?)

 リュカの頭の中を疑問符付きの言葉が埋め尽くしていく。

 雨は激しさを増し、しとどに濡れた髪の先を伝って目の前を滴り落ちていく。呆然と立ち尽くす彼を、彼女の父親が(さげす)むようなそんな目でちらりと見た。

 貴様はそのまま諦めるのかと。私との約束を守ってくれはしないのかと。

 その目は確かにそう言っていた。

(この(たぬき)親父……!)

 耳元で誰かがけたたましく(わら)っている。

 そんな気がした。

 背後で『運命』というヤツがいやらしく(わら)っている。

 そんな気がした。

 数多(あまた)の命を奪ってきたそのツケが、形を変えてリュカに清算を求めている。

 そんな気がした。

「さらばだ、ヴァレリィ。我が娘よ!」

 父親が大剣を振り上げ、その刀身を雨水が滴り落ちていく。

 そして、それが振り下ろされる瞬間、

「ヴァレリィィィィィイイイイイイイィィッ!」

 リュカは剣を引き抜くと、(ひざまず)くヴァレリィの上へと覆いかぶさるように身を投げ出した。

 リュカは胸の内で運命に剣を突きつける。

 良いだろう。

 ツケならいくらでも支払ってやる。

 俺を(もてあそ)べばいい。運命、気が済むまでお前の掌で踊ってやる。

 だが――

 俺は決して、この女を死なせやしない。