「くっ……!」
リュカが剣を構えて一歩足を踏み出したその瞬間、オリガは呻きながら腰の革袋に手を差し入れ、手の内になにかを握り締める。そして、大声を上げながら足を踏み鳴らした。
「貫け!」
途端に、リュカの背筋を何か冷たいものが走り抜ける。
ともかくその場に留まっていてはいけないと、何かが頭の中で激しく騒ぎ立てる。
「ちっ!」
舌打ちとともにリュカが慌てて飛びのこうとしたその瞬間、地面から鋭く尖ったものが突き出してくる。
それは人の背丈ほどもある氷柱。
これにはリュカも目を見開く。
顔を引き攣らせながら必死に身を捩ってそれを避けるも、氷柱は服の胸元を引き裂き、わずかに肉を抉って血が飛び散った。
「旦那さまっ!」
「大丈夫だ」
駆け寄ろうとするヴァレリィを手で制し、リュカはオリガを見据えて向き直る。
「そいつが氷河の結晶ってヤツかよ……」
オリガは答えない。ただ口の端をわずかに歪めただけ。
正直これはヤバい。予想外だった。
間合いに関係なく攻撃出来るというのなら、もはや迷っている暇はない。
一気に懐に飛び込んで勝負を決める。それしかない。
リュカはわずかに腰を落とし、一気にオリガの方へと駆け出した。
その速さにヴァレリィは目を丸くする。
それはそうだろう。人並み以下の身体能力しかない。そう思っていた男が、目で追うのも困難なほどの素早さを見せたのだ。
オリガは凄まじい勢いで迫りくる彼の姿を目で追いながら、再び足を踏み鳴らした。
「貫け!」
迫りくる尖端。
鋭い氷柱がリュカをめがけて突き出してくる。
彼は視界の中で大きくなっていく白い鋭角を凝視しながら、必死にサイドステップを踏んだ。
だが、彼がいくら素早くともやはり氷柱が頭を出してから飛んでいたのでは避けきれない。
「ぐっ!?」
切っ先が肩口を抉り、その冷たさと痛みに彼の身体がふらりとよろめいた。
無論、そんな隙を逃すオリガではない。
「これで終わりだ!」
オリガが足を踏み鳴らすのと同時に、リュカの顔面めがけて新たな氷柱が襲い掛かってくる。
軸足にズシリと自分の体重。態勢は崩れきっている。
(ちっ! しくじった!)
リュカが眼前へと迫ってくる鋭く尖った先端を見据えながら頬を歪めたその瞬間、彼の身体を力任せに突き飛ばす者があった。
「うぉおおおおおおおおぉぉぉ!」
獣のような甲高い叫び声が響いて、ガンッと鈍い音が響き渡る。
飛び散る氷片。砕け散る氷柱。
リュカの視界に飛び込んできたのはヴァレリィの背中。
彼女はリュカを突き飛ばすと、腕に嵌まったままの手枷を振りかぶって力まかせに氷柱を叩き折った。
だが、それで終わりではない。
彼女は犬歯をむき出しにして、勢いのままにオリガの方へと襲い掛かっていく。
「こ、このっ……!」
オリガはたじろぎながらも再び足を踏み鳴らそうとした。
だが、もはや手遅れ、ヴァレリィは彼女の胴へと飛びついて、勢い任せに彼女を地面へと押し倒した。
「くはっ!」
濁った吐息がオリガの口から零れ落ちる。
勢いよく地面へと叩きつけられた拍子に、オリガの手の中から白い宝玉が弾き飛ばされ、泥の上へと転がり落ちた。
「こ、この、アバズレがぁあああ!」
オリガが目を血走らせながら、どうにかヴァレリィを払いのけようとする。
だが既に眼前にはリュカの剣、その切っ先が突きつけられていた。
「終わりだ、首狩り!」
リュカがそう告げると、ヴァレリィが静かに顔を上げ、オリガを見据えた。
「オリガ……頼む、もう降参してくれ」
「くっ、こ、この……」
薄曇りの空から降り落ちる雨粒がオリガの頬を叩き、彼女は盛大にため息を吐くと、静かに目を閉じる。
「……私は負けていないからな。二人がかりは……卑怯だろうが」
オリガは不貞腐れるようにそう吐き捨てると、そのまま大の字に横たわった。
額に張り付いた赤い髪。
ヴァレリィは泥まみれの顔に、どこかホッとしたような表情を浮かべる。
だがリュカは剣を下ろしはしない。
横たわるオリガの面前に、剣を突きつけたまま。
彼女の表情を見る限り、恐らくもう暴れることはないだろうと、そう思ってはいる。
だからといって警戒するのをやめてしまえるほど、平穏な人生を送ってきた訳ではない。
御者台から飛び降りたヒラリィが、泥の中から白い宝玉を拾い上げてリュカへと頷いてみせる。
その白い宝玉が『氷河の結晶』で間違いないという事だろう。
それにしても危なかった。
ヴァレリィが飛び込んでこなければやられていたところだ。どうやら今の彼はツイているらしい。
リュカがふうと吐息を漏らした途端、
「旦那さまよ」
ヴァレリィが、彼を見上げて口を開いた。
「こんな時になんだが……」
「はい、なんです? 団長」
「それだ」
「はい?」
「お前はどうして自分の女だと言い放った者のことを団長などと呼ぶ。丁寧なのは結構だが、言葉遣いも余所余所しい。むしろオリガに対する物言いの方が自然ではないか! なぜ折角近づいた距離を遠ざけようとするのだ!」
「いや、だって、団長は団長で……」
「惚れた男に距離を取られる者の身にもなってみろ」
「へ? 惚れた……って」
「その、さっきのお前は……その、とても格好が良かった……と思う。いや、その前からその……だから、先ほどのように私のことはヴァレリィと……」
そのまま真っ赤になって顔を伏せる彼女の姿に、リュカが思わず頬を赤らめた途端、
「人の上でいちゃつくな」
オリガが憮然とした顔で唇を尖らせた。
降り注ぐ雨粒が小枝を揺らす森の中。
恥じらうような空気が流れ、リュカとヴァレリィはそれぞれに照れ笑いを浮かべながら明後日の方角へ目を向ける。
そんな二人の姿にオリガが、「ちっ!」と舌打ちした途端、馬が蹄を踏み鳴らして、大型馬車が唐突に動き出した。
大型の獣が身を捩るかのような鈍重な動き。
泥の中に埋もれていた車輪がギシギシと音を立てて回り始めた。
オリガの敗北を目にして、怖じ気づいた騎士が逃げ出し始めたのだ。
御者台まで会話が聞こえていたかどうかはわからないが、リュカの正体を知った可能性のある者を見逃す訳にはいかない。
「ミリィ! ヒラリィ! 追え!」
「しゃーなしやな」
「ほんま、人使いが荒いねんから」
双子は愚痴を零しながらも馬に鞭を入れ、大型馬車の後を追い始める。
逃げる方は必死なのだろう、目一杯に速度を上げて遠ざかっていく。
だが、そもそも荷馬車と大型馬車では車体重量が違い過ぎる。
決して逃げ切れるものではない。あっちは彼女たちに任せておいて大丈夫だろう。
ヴァレリィはオリガを組み敷いたまま、その横顔を眺めながら静かに囁きかけた。
「……教えてくれ、オリガ。姫殿下はどうしてこんなことをなさったのだ」
オリガは弱り切った表情でヴァレリィから再び目を逸らすと、ボソボソと消え入りそうな声音で答えた。
「詳しいことは知らん。姫殿下から直接伺った訳ではないが、娼婦以下にまでなり下がった高貴な女の、愛した男への復讐なのだと……私はそう思っている」
「男への復讐?」
おかしな言い回しである。
アンベール卿殺害の犯人をヴァレリィだと思い込んだ姫殿下の復讐だと、リュカはそう推測していたのだ。
「ヴァレリィ。姫殿下は貴様のことなどどうでも良いとそうおっしゃっておられた。ただの手段なのだと。あのお方は公爵家そのものをこの世から消し去りたいのだと、そうおっしゃっておられたのだ」
リュカはヴァレリィの方へと目を向ける。
彼女は少なからずショックを受けている様子ではあるが、同時に今一つピンと来ていないようにも見えた。
だが、今の話の通りなら全ての辻褄が合う。
すなわち、ヴァレリィが王族殺しの罪を犯すことで誅滅される公爵家の九族の中に、姫殿下の愛した男がいる。
つまりそういうことだ。
「姫殿下も男のせいでその身を誤られた。所詮、男など下劣な欲望に手足が生えただけの醜い生き物なのだ。男の愛など欲望の別名でしかない。愛だ恋だとのぼせ上がっているようだが、貴様もいずれその男のせいで酷い目に遭うぞ」
オリガのその物言いにヴァレリィが不愉快げに頬を歪めたところで、今度は遠くの方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
方角そのものはミリィたちが向かったのと同じ北の方角。
だが、車輪の音は全く聞こえてこない。
おそらく単騎の騎馬、その馬蹄の響き。
「旦那さま……」
「……ああ」
リュカが警戒心も露わに身構えながら蹄の音が響いてくる方角を凝視すると、白く煙る靄の中、銀糸のような雨だれの向こう側から、こちらへと駆けてくる黒毛の馬が見えた。
その背に跨がっているのは金色の甲冑を纏った大男。背中には自分の背丈ほどもある大剣を背負っている。
「あれは……」
リュカが剣を構えて一歩足を踏み出したその瞬間、オリガは呻きながら腰の革袋に手を差し入れ、手の内になにかを握り締める。そして、大声を上げながら足を踏み鳴らした。
「貫け!」
途端に、リュカの背筋を何か冷たいものが走り抜ける。
ともかくその場に留まっていてはいけないと、何かが頭の中で激しく騒ぎ立てる。
「ちっ!」
舌打ちとともにリュカが慌てて飛びのこうとしたその瞬間、地面から鋭く尖ったものが突き出してくる。
それは人の背丈ほどもある氷柱。
これにはリュカも目を見開く。
顔を引き攣らせながら必死に身を捩ってそれを避けるも、氷柱は服の胸元を引き裂き、わずかに肉を抉って血が飛び散った。
「旦那さまっ!」
「大丈夫だ」
駆け寄ろうとするヴァレリィを手で制し、リュカはオリガを見据えて向き直る。
「そいつが氷河の結晶ってヤツかよ……」
オリガは答えない。ただ口の端をわずかに歪めただけ。
正直これはヤバい。予想外だった。
間合いに関係なく攻撃出来るというのなら、もはや迷っている暇はない。
一気に懐に飛び込んで勝負を決める。それしかない。
リュカはわずかに腰を落とし、一気にオリガの方へと駆け出した。
その速さにヴァレリィは目を丸くする。
それはそうだろう。人並み以下の身体能力しかない。そう思っていた男が、目で追うのも困難なほどの素早さを見せたのだ。
オリガは凄まじい勢いで迫りくる彼の姿を目で追いながら、再び足を踏み鳴らした。
「貫け!」
迫りくる尖端。
鋭い氷柱がリュカをめがけて突き出してくる。
彼は視界の中で大きくなっていく白い鋭角を凝視しながら、必死にサイドステップを踏んだ。
だが、彼がいくら素早くともやはり氷柱が頭を出してから飛んでいたのでは避けきれない。
「ぐっ!?」
切っ先が肩口を抉り、その冷たさと痛みに彼の身体がふらりとよろめいた。
無論、そんな隙を逃すオリガではない。
「これで終わりだ!」
オリガが足を踏み鳴らすのと同時に、リュカの顔面めがけて新たな氷柱が襲い掛かってくる。
軸足にズシリと自分の体重。態勢は崩れきっている。
(ちっ! しくじった!)
リュカが眼前へと迫ってくる鋭く尖った先端を見据えながら頬を歪めたその瞬間、彼の身体を力任せに突き飛ばす者があった。
「うぉおおおおおおおおぉぉぉ!」
獣のような甲高い叫び声が響いて、ガンッと鈍い音が響き渡る。
飛び散る氷片。砕け散る氷柱。
リュカの視界に飛び込んできたのはヴァレリィの背中。
彼女はリュカを突き飛ばすと、腕に嵌まったままの手枷を振りかぶって力まかせに氷柱を叩き折った。
だが、それで終わりではない。
彼女は犬歯をむき出しにして、勢いのままにオリガの方へと襲い掛かっていく。
「こ、このっ……!」
オリガはたじろぎながらも再び足を踏み鳴らそうとした。
だが、もはや手遅れ、ヴァレリィは彼女の胴へと飛びついて、勢い任せに彼女を地面へと押し倒した。
「くはっ!」
濁った吐息がオリガの口から零れ落ちる。
勢いよく地面へと叩きつけられた拍子に、オリガの手の中から白い宝玉が弾き飛ばされ、泥の上へと転がり落ちた。
「こ、この、アバズレがぁあああ!」
オリガが目を血走らせながら、どうにかヴァレリィを払いのけようとする。
だが既に眼前にはリュカの剣、その切っ先が突きつけられていた。
「終わりだ、首狩り!」
リュカがそう告げると、ヴァレリィが静かに顔を上げ、オリガを見据えた。
「オリガ……頼む、もう降参してくれ」
「くっ、こ、この……」
薄曇りの空から降り落ちる雨粒がオリガの頬を叩き、彼女は盛大にため息を吐くと、静かに目を閉じる。
「……私は負けていないからな。二人がかりは……卑怯だろうが」
オリガは不貞腐れるようにそう吐き捨てると、そのまま大の字に横たわった。
額に張り付いた赤い髪。
ヴァレリィは泥まみれの顔に、どこかホッとしたような表情を浮かべる。
だがリュカは剣を下ろしはしない。
横たわるオリガの面前に、剣を突きつけたまま。
彼女の表情を見る限り、恐らくもう暴れることはないだろうと、そう思ってはいる。
だからといって警戒するのをやめてしまえるほど、平穏な人生を送ってきた訳ではない。
御者台から飛び降りたヒラリィが、泥の中から白い宝玉を拾い上げてリュカへと頷いてみせる。
その白い宝玉が『氷河の結晶』で間違いないという事だろう。
それにしても危なかった。
ヴァレリィが飛び込んでこなければやられていたところだ。どうやら今の彼はツイているらしい。
リュカがふうと吐息を漏らした途端、
「旦那さまよ」
ヴァレリィが、彼を見上げて口を開いた。
「こんな時になんだが……」
「はい、なんです? 団長」
「それだ」
「はい?」
「お前はどうして自分の女だと言い放った者のことを団長などと呼ぶ。丁寧なのは結構だが、言葉遣いも余所余所しい。むしろオリガに対する物言いの方が自然ではないか! なぜ折角近づいた距離を遠ざけようとするのだ!」
「いや、だって、団長は団長で……」
「惚れた男に距離を取られる者の身にもなってみろ」
「へ? 惚れた……って」
「その、さっきのお前は……その、とても格好が良かった……と思う。いや、その前からその……だから、先ほどのように私のことはヴァレリィと……」
そのまま真っ赤になって顔を伏せる彼女の姿に、リュカが思わず頬を赤らめた途端、
「人の上でいちゃつくな」
オリガが憮然とした顔で唇を尖らせた。
降り注ぐ雨粒が小枝を揺らす森の中。
恥じらうような空気が流れ、リュカとヴァレリィはそれぞれに照れ笑いを浮かべながら明後日の方角へ目を向ける。
そんな二人の姿にオリガが、「ちっ!」と舌打ちした途端、馬が蹄を踏み鳴らして、大型馬車が唐突に動き出した。
大型の獣が身を捩るかのような鈍重な動き。
泥の中に埋もれていた車輪がギシギシと音を立てて回り始めた。
オリガの敗北を目にして、怖じ気づいた騎士が逃げ出し始めたのだ。
御者台まで会話が聞こえていたかどうかはわからないが、リュカの正体を知った可能性のある者を見逃す訳にはいかない。
「ミリィ! ヒラリィ! 追え!」
「しゃーなしやな」
「ほんま、人使いが荒いねんから」
双子は愚痴を零しながらも馬に鞭を入れ、大型馬車の後を追い始める。
逃げる方は必死なのだろう、目一杯に速度を上げて遠ざかっていく。
だが、そもそも荷馬車と大型馬車では車体重量が違い過ぎる。
決して逃げ切れるものではない。あっちは彼女たちに任せておいて大丈夫だろう。
ヴァレリィはオリガを組み敷いたまま、その横顔を眺めながら静かに囁きかけた。
「……教えてくれ、オリガ。姫殿下はどうしてこんなことをなさったのだ」
オリガは弱り切った表情でヴァレリィから再び目を逸らすと、ボソボソと消え入りそうな声音で答えた。
「詳しいことは知らん。姫殿下から直接伺った訳ではないが、娼婦以下にまでなり下がった高貴な女の、愛した男への復讐なのだと……私はそう思っている」
「男への復讐?」
おかしな言い回しである。
アンベール卿殺害の犯人をヴァレリィだと思い込んだ姫殿下の復讐だと、リュカはそう推測していたのだ。
「ヴァレリィ。姫殿下は貴様のことなどどうでも良いとそうおっしゃっておられた。ただの手段なのだと。あのお方は公爵家そのものをこの世から消し去りたいのだと、そうおっしゃっておられたのだ」
リュカはヴァレリィの方へと目を向ける。
彼女は少なからずショックを受けている様子ではあるが、同時に今一つピンと来ていないようにも見えた。
だが、今の話の通りなら全ての辻褄が合う。
すなわち、ヴァレリィが王族殺しの罪を犯すことで誅滅される公爵家の九族の中に、姫殿下の愛した男がいる。
つまりそういうことだ。
「姫殿下も男のせいでその身を誤られた。所詮、男など下劣な欲望に手足が生えただけの醜い生き物なのだ。男の愛など欲望の別名でしかない。愛だ恋だとのぼせ上がっているようだが、貴様もいずれその男のせいで酷い目に遭うぞ」
オリガのその物言いにヴァレリィが不愉快げに頬を歪めたところで、今度は遠くの方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
方角そのものはミリィたちが向かったのと同じ北の方角。
だが、車輪の音は全く聞こえてこない。
おそらく単騎の騎馬、その馬蹄の響き。
「旦那さま……」
「……ああ」
リュカが警戒心も露わに身構えながら蹄の音が響いてくる方角を凝視すると、白く煙る靄の中、銀糸のような雨だれの向こう側から、こちらへと駆けてくる黒毛の馬が見えた。
その背に跨がっているのは金色の甲冑を纏った大男。背中には自分の背丈ほどもある大剣を背負っている。
「あれは……」