スターゲイザー 少女の残骸と流星の詩

『私は流星になりたい。
 長い夜を越えて、愛するあなたの下へと降りていきたい。
 夜空に光の軌跡を描き、あなたの記憶に深く刻みこまれたい。
 だから、
 幾億の夜の果て、永久(とわ)が最後の吐息を漏らすその日まで。
 夜空の星が全て地に墜ちて、この身が塵に変わるその日まで。
 あなたへ愛を囁き続けよう。
 私は流星になりたい。次に生まれ変わる時には、
 流星になって、愛とともにあなたへと降り注ぎたいのです』

 馬車の振動を背中に感じながら、私はそっと口ずさみます。

 読み手もわからぬ古い(うた)

 共に星を見上げた夜、あの方が吟じた古い(うた)です。

 こんな歯の浮きそうな言葉も、あの頃の私には、バラ色の文字でしたためられているかのように感じられたものです。

 長い長い夜を越え、遂にその日が、すぐそこにまで近づいているのです。


  ◇  ◇  ◇


 リュカは馬車の荷台、その柵にもたれ掛かって、元来た道を振り返った。

 夜は深く、雲に覆われた空には星一つ見当たらない。

 振り向いても、城砦は既に通り過ぎて来た夜の向こう側。

 もはや輪郭すら見えやしない。

 ガタガタと車輪が小石をはねる振動が尻を跳ね上げる。

 彼らが進んでいるのは、広大な原野を突っ切る一本道。

 風景には長らく何の変化もなく、ただただ行く先には暗闇に向かって砂利道が伸びているだけだ。

 リュカは胸の内で(くすぶ)焦燥(しようそう)から目を背けて、再び今回の不可解な出来事に思いを馳せる。

 最初から仕組まれていた。そうとしか考えようがない。

 なんにせよ、犯人は確定している。

 もはや疑いようもない。動機も大体想像がつく。

 あとは首だけを残して消えた死体の謎が残っているだけだ。

 死体がどこに消えたかを解き明かさずとも、犯人を追い詰めることは出来る。

 だが、それもヴァレリィを救い出せなければ意味がない。

 つまりここから先、優先すべきは彼女を救い出すこと、それだけ。

 今はどんなことをしてでも追いつくこと、それだけなのだ。

 だが、六刻分の遅れが彼に重く()し掛かる。

 オリガたちが乗る大型馬車(キヤリツジ)に比べれば、確かに彼らの乗る荷馬車(ワゴン)の方が脚は速い。

 だが、やはり馬も生き物。休みなくずっと走らせ続けられる訳ではない。

「母さんに連絡さえ取れれば、王都に入る前にどうにかしてもらうんだがなぁ……」

 思わず口をついて出たそんな呟きに、御者台のミリィが呆れ顔で振り返る。

「そりゃー無いもんねだりってもんやわ。伝書鳩も連れてきてないねんから、どうしようもあらへんやん」

「わかってる、言ってみただけだ」

「それにあっちはあっちで忙しいと思うで。ウチらが王都を出た時は、まだ例の首狩り(ヘツドハント)の件でバタバタしてたし」

首狩り(ヘツドハント)? そんなに手こずるなんて母さんらしくねぇな。そんなに例の宝玉が厄介ってことなのか?」

 すると双子が同時に首を振った。

「それ以前の問題や」

「少なくとも、ウチらが出発する時点では正体すら特定出来てへんかったし。途中の宿場町でも噂になってたから、ウチらが王都を出た後も何人かは殺されてるんちゃうかな」

首狩り(ヘツドハント)……か」

 思えば奇妙な符合である。

 首だけを持ち去る殺人鬼と、首だけが残された姫殿下。

 何かが引っかかった。

「なあ、お前らが王都を出た後の殺しって、本当にその『首狩り(ヘツドハント)』の仕業なのかな?」

「はぁ? 何やそれ? どういうこと?」

首狩り(ヘツドハント)(かた)る別のヤツじゃないかって言ってんだよ。その死体が凍ってたか、どうかってこと」

 ミリィとヒラリィは、顔を見合わせて首を傾げる。

「知らんけど、人の首ぶった切るような物騒なヤツ、そんな何人もおらへんやろ」

「でもさ、でもさ、ミリィ。言われてみたら、ウチらが出発する前でも、『首狩り(ヘツドハント)』の仕業(しわざ)っていう前提やったから、わざわざ誰も死因なんて確認してへんかったやん」

 最初に殺された何人かを除けば、いずれも王太子バスティアンから(もたら)された情報で、どこで何人殺されたかという結論だけ。

 首のない死体が発見されれば、それは首狩り(ヘツドハント)の仕業という公式が成り立っていたのだ。

「ちっ」

「あー! また、舌打ちしたー! 感じ悪ぅー!」

 ぷぅと頬を膨らませるヒラリィ。

 リュカは「うっせ」と舌先に載せた言葉を吐き出すと、向かい風に乱れた髪を(わずら)わしげに掻き上げた。

「つまり、『首狩り(ヘツドハント)』が、こっちに来てた可能性はあるっていうことだよな」

「で、姫殿下の首を刈ったって? んなアホな」

「そうじゃないけど……。でも、何かすっげぇ引っかかってることがあんだよ。ただ、問題はそれが何かが分かんねぇことなんだけどさ」

「おじいちゃんみたいやな」

「『ごはんはさっき食べたじゃない』ってヤツや」

「ボケ老人じゃねーよ」

 顔を(しか)めるリュカの姿に、双子が楽しげな笑い声を上げる。

「あー、もしかして、ぼんぼん。凍らせて砕けば死体を粉々に出来んじゃね、それで消えた死体の謎、解決じゃね……とか、思ってる?」

「アホか。思ってねぇってーの」

 実際そんなことをしたら、氷が溶けた後は見るも無残な肉片の山だ。

 というか、凍らせる凍らせない以前に、誰もあの部屋に入っていない。

 あの時点で首だけになってたならともかく、あの時点ではベッドに座っていた。

 身体はあったのだ。

 リュカは、確かにそれを目にしたのだ。

 そう考えた途端、頭の片隅で、また何か引っかかるような感触があった。

(なんだ? 俺は今何を考えた? 何に引っかかった?)

 途端に、これまでに起こった様々な出来事が、彼の脳裏で鮮明な映像のままに渦を巻き始める。

 首狩り(ヘツドハント)、残された首、消えた身体、薄暗い部屋、切断面から覗く白い骨、黒いヴェール。赤い血、血まみれのベッド、血まみれの夜着、滴り落ちる血、吊られた男たち……。

 最後に、姫殿下のニヤニヤといやらしく笑う顔が(まぶた)の裏に浮かんでくる。

 そしてリュカは静かに顔を上げると、苦々しげにこう呟いた。

「そうか……そういうことかよ」
 耳に痛いほどの静けさ。夜の静寂(しじま)(ぬる)い風がそっと頬を撫でた。

 わずかに視線を上げて遠く南の方角へと目を向ければ、明滅する星を呑み込みながら暗雲が広がる気配を見せている。

「しばらくは雨かもしれぬな」と愛馬の背を撫でながら、ヴァレリィの父――サヴィニャック公爵は独りそう呟いた。

 王都から南へ一日、サヴィニャック公爵家本邸の庭先。

 夜中だというのに彼はそこで独り、愛馬の背に荷物を結わえ、旅支度を進めていた。

 引退して以来長らく身に着けることも無かった甲冑を引っ張り出し、家伝の大剣『鬼殺し(オーガキラー)』を背負う。

 これで準備は整ったと、馬の手綱を曳いて門の方へと歩み始めようとする彼の傍に、夜着の上にローブを羽織った妻が静かに歩み寄ってきた。

「……あなた」

 公爵は足を止め、妻の方を振り返る。

「……私は務めを果たさねばならぬ。王家への忠義は果たされねばならぬ。だが同時に、姫殿下を再び裏切ることも出来はしない。ならば私が採るべき道は一つしかない」

 すると、彼女は弱々しく微笑んだ。

 鼻先と目元はわずかに赤い。それを指摘するのは野暮というものだろう。

「わかっております。止めに参った訳ではありません。何年あなたの妻をやっていると御思いですか? 私とてサヴィニャック家の女でございます」

「うまくいかなければ九族誅滅。サヴィニャック家の名は泥にまみれ、お前たちの命もない」

「ええ、わかっておりますとも」

 思えば彼女とは、幼少期より兄と妹のように育ってきた仲である。

 彼女を女として意識したのは、随分後のこと。

 道ならぬ恋に破れ、抜け殻のように生きていた頃のことである。

 思えば彼を支えてくれたのは、この妻であった。

 彼の罪、彼の失意、彼の決断、そのすべてを知りながら必死に支えてくれたのはこの女なのだ。

 自分には過ぎた女だと思う。

「……愛している。私はお前を誰かの代わりだと思ったことはない。私は本当に幸せであった」

「私も幸せでございました」

 公爵は自嘲気味に微笑む。

 互いに過去形で語り合わねばならぬとは、と。

 公爵自身にはもはや何も変えられない。

 王家への忠誠を至上のものとして生きてきたのだ。

 それを曲げることはできない。

 だから全てはあの婿殿に懸かっているのだ。

 あの頼りない男に全てを賭けねばならない。

 公爵は馬に結わえた荷物から一通の書簡を引っ張り出して妻に手渡すと、彼女の目を見つめながら言い含める。

「これを……この書簡を、人を使って王太子殿下へ届けさせてくれ。かの御方であれば、決して悪いようにはなさらんはずだ」

 そして、公爵は馬へと飛び乗った。

「では……な」

「ええ、あなた」

 彼は馬に鞭を入れると、振り返ることもなく門から外へと駆け出していく。

 妻は公爵の姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くし、そして独り、膝から地面に崩れ落ちる。

 暗い地面にぽたりぽたりと雫が落ちて、押し殺すような嗚咽(おえつ)静寂(しじま)の中に溶けていった。


  ◇  ◇  ◇


 リュカたちが城砦を出発した日から数えて、三日目の朝。

 サヴィニャック公爵家の長男――ヴァレリィの腹違いの弟が、旅人に身をやつして密かに王都へと辿り着こうとしていた。

 彼の(ふところ)には公爵が妻に託した書簡がある。

 彼は真っ直ぐに王太子のいる王宮を目指していた。

 同じ頃――。

「見えたで! あの馬車や! ぼんぼん、覚悟はええか!」

「今さら聞くんじゃねぇ、んなこと!」

 テルノワールとフロインヴェールの国境近く、朝靄の立ち込める鬱蒼とした森の中、黒曜の森と呼ばれるその森を貫く一本道。

 そこでリュカたちは視界に一両の馬車と、姫殿下直属の騎士たちの馬影を捉えていた。
「気分はどうだ」

 オリガのその問いかけに、ヴァレリィは無言で応じた。

 キャビンの中、どこかやつれたような顔つきの彼女は、まんじりともせずに誰も座っていない向かいの座席、その座面の縫い目を見つめている。

「ふっ、またあの男の事を考えているのか? まさか、助けに来てくれるとでも思っているのではあるまいな」

 ヴァレリィは静かに瞑目(めいもく)すると、自嘲するように吐息を漏らした。

「……来る理由が無いではないか。ただでさえ、あやつは私との婚姻を拒んでいたのだ。その上大人しくしてさえいれば、姫殿下殺しの罪に連座させられずに済むのだからな。誰が好き好んでこんな女を救いにくるというのだ」

「ハッ! くだらぬ男だな。しかし残念といえば残念だ。護送中の咎人(とがびと)を奪い返しにくるようであれば、堂々と叩き斬ることもできるのだがな」

「……約束したはずだぞ。あやつには手を出さぬと」

 おどけるように肩をすくめるオリガを、ヴァレリィがジロリと睨みつける。

「貴様が大人しく従っている間は……な」

「……わかっている」

 ヴァレリィが下唇を噛むと、オリガはニヤついた笑みを浮かべて、彼女に顔を突きつけてきた。

「本当にわかっておるのか? 救われるのはあの男一人だ。公爵家の滅亡は避けられぬのだぞ」

「……わかっていると、そう言っている」

 ヴァレリィの言葉尻に怒気が纏わりつくのを耳にして、オリガは彼女の顎を掴んだ。

「いや、わかっておらぬようだな、その態度は。正直に告白してしまえば、私は貴様のことを友だと思ったことなど一度も無い。一度もだ。ずっと貴様の下風に立たされてきたことが悔しくてならなかったのだ。今、私の心がどれだけ浮きたっているかわかるか? 貴様のこの惨めな姿にな!」

 その声は、次第に苛烈な響きを帯び、顎を掴む指に力がこもりはじめる。

「あの男を助けたいと望むのならば、無様に私に(すが)れ、惨めに私に(こび)びろ!」

「……わかっている」

「あん? なんだって? ちゃんとわかるように言え。教えたであろうが!」

 オリガが指先に力を籠め、ヴァレリィは喉の奥から絞り出すように声を漏らした。

「おねがい……します、オリガさま」

 項垂(うなだ)れるヴァレリィ。オリガは満足気に頷くと、彼女の顎から指を話した。

「くっ、ふはっ! ふ、ふふ、はははははは!」

 ヴァレリィは幼年学校時代から、オリガが自分ことをライバル視していることには気づいていた。だが、まさかここまで劣等感を(こじ)らせているとは思ってもみなかった。

「城砦を出る前に述べた通り、この黒曜の森を抜けたところで馬車を停める。先触れとして騎士の大半を王都へ向かわせ、残った者どもをブチ殺して……我々は姿を消す。世間は喰人鬼(しよくじんき)ヴァレリィが、騎士たちを殺して逃亡したと、そう思うはずだ。そのまま事実は闇の中。貴様を奴隷として他国の変態貴族に売り渡した後、私は命からがら喰人鬼(しよくじんき)から逃れたフリをして王都に戻る」

「……約束は守ってくれるのだろうな」

「ああ、騎士に二言はない。もはやあんなウジ虫のことなどどうでも良いのだからな。ちゃんと国王陛下への書簡は先触れの兵士に持たせるとも。それよりも己の不幸を見苦しく嘆き悲しんで欲しいものだがな。お前はこれから死ぬまで変態貴族の慰みものとして生きていかねばならぬのだからな」

「……運命だ。それも受け入れよう」

 ヴァレリィがそう返事をした途端、オリガが不満げに口を尖らせる。

「つまらん。自分を犠牲にしてでも助けたいなどとは……随分と惚れたものだな。貴様を絶望させようと思えば、やはりあの男を殺すべきか」

「違う、そ、そうじゃない! やめてくれ! やめて……くださ、い」

 ヴァレリィの声が弱々しく消え入りそうになったところで、唐突に御者台とキャビンの間の小窓が開いて、御者を務める騎士が顔を覗かせた。

「オリガさま! 背後から馬車が一両、真っ直ぐにこちらに向かって参ります!」

 良いところを邪魔されたとばかりに、オリガは舌打ちして窓から馬車の後ろを覗き込む。

 そして再びヴァレリィに顔を突きつけると、いやらしく口元を歪めながら、こう告げた。

「ヴァレリィ……約束とはいえ、あの男が自ら殺されにきた場合は殺しても仕方があるまい」


 ◇ ◇ ◇


「ほな、手はず通りいくでぇ! ぼんぼん、手綱(たづな)は任せた! なんぼ馬に乗れん言うたかて、真っ直ぐ走らせることぐらいは出来るやろ!」

 ミリィは遥か前方を行く馬車と騎士たちの姿を見据えながらそう言い放つ。

 一方、荷台のリュカは緊張の面持ちで腕を伸ばし、御者台に座る双子の間から手綱(たづな)を握った。

「その真っ直ぐ走らせるってのが難しいんだろうが!」

 前を行く大型馬車(キヤリツジ)に速度を落とす気配は無い。

 だが、そのすぐ後ろを追走する騎士たちは、既にこちらに気付いているようだ。その証拠に、彼らは徐々に速度を落とし始めていた。

「来るで!」

 ヒラリィが声を上げるのとほぼ同時に、騎士たちは一斉に馬首を返し、リュカたちの方へと突っ込んでくる。

 視界で立ち昇る砂煙。馬蹄の響きが地鳴りのごとくに轟き、騎士たちの上げる雄叫びが次第に近づいてくる。

「お、おい!」

「やかましぃ! まだやッ!」

 顔を引き()らせるリュカを、ミリィが怒鳴りつける。

 距離三十ザール。二十ザール。遂に十ザールを越えて、先頭の騎士が剣を振り上げた、まさにその瞬間――。

「入った!」

 ミリィが大声を上げた。

 距離十ザール。

 それは即ち、この双子にとって必殺の距離。

 二人が両手をスカートの中に差し入れて引き抜くと、その十本の指の間には、鋭く太い鉄の針が挟み込まれていた。

「「食らいさらせッ! こんんのぉお、ボケぇええええ!」」

 品の欠片も無い声を上げて二人が腕を振るうと、鋭い風斬り音が空気を削る。

 彼女たちの手から放たれた合計十六本の鉄針が、一斉に馬上の騎士たちへと襲い掛かった。

 途端に響き渡る悲鳴。赤い血のアーチを描きながら、騎士たちが次々と馬上から投げ出されていく。

 双子の手から放たれた鉄針は、兜と甲冑のわずかな隙間、騎士たちの喉元を寸分違わず貫き、彼らの首の骨を砕いたのだ。

「「もういっちょ!」」

 双子が更に鉄針を放つと、後続の騎士たちを乗せた馬が突然足をもつれさせて、左右の木々の間へと突っ込みはじめる。

 今度は馬の脚を貫いたのだ。

 次々に振り落とされる騎士たち。馬は前のめりに倒れ、落馬した彼らをその巨体で容赦なく圧し潰す。一瞬にして阿鼻叫喚の地獄が、そこに出現した。

「うひぃ……ひでぇもんだ」

 もつれ合って転がる騎士と馬、その間を走り抜けながらリュカは首をすくめる。

 ミリィは背後で遠ざかっていく馬と騎士の死体の山を振り返って、追ってくる者がいないことを確認すると、リュカの手から手綱(たづな)をひったくった。
「こっから先はアンタの出番やで! ぼんぼん!」

「ああ、わかってる!」

 先を行くのは城砦まで侍女たちを乗せてきた大型馬車(キヤリツジ)

 なにせ重量が違う。

 彼らの荷馬車(ワゴン)に比べれば、その速度もお上品なものだ。

 数分と立たずに追いついて、二台の馬車は森を貫く一本道を並走し始めた。

「ミリィ! もっと寄せろ!」

「あいよ!」

 宙空に枝を伸ばす木々。

 葉の隙間から差し込む陽光は(まば)ら。

 枝の影が網目模様を描く一本道で、二台の馬車が車体を擦りあわせ、そのけたたましい音を森の中に響かせる。

 リュカは荷台の上で手を伸ばすと、大型馬車(キヤリツジ)の車窓、その奥に向かって声を限りに叫び声をあげた。

「だんちょおおおおおおおおおお!」

 伸ばした彼の腕の先、車窓の奥。そこには驚きに目を丸くするヴァレリィの姿があった。

「何をしに来たのだ、馬鹿者! お前と私はもう関係ないはずだ。頼む! 頼むから! 大人しく引き返してくれ!」

 大型馬車(キヤリツジ)の車窓から彼女が声を上げれば、荷馬車(ワゴン)の荷台で腕を伸ばしたリュカが、ムスッと腹立たしげに口元を歪める。

「ふざけんな、高飛車女! 妻として尽くすとか勝手に覚悟決めといて、今度は勝手に別れてくれだと! バカにするのもいい加減にしろ!」

「そうではない! そうではないのだ!」

「じゃあ何だってんだ! このメスゴリラ! 今さら好みのタイプじゃなかったとか言っても返品なんてきかねーぞ! おいコラ、お高く止まりやがって! この筋肉ダルマ! 貰い手がねぇから適当な相手で手を打とうと思ったけど、やっぱり我慢できなかったってか!」

「な!? なんだと!」

 売り言葉に買い言葉とはまさにこのこと。

 いきなり罵詈雑言を投げつけられて、先ほどまで悄然(しようぜん)としていたはずの彼女の顔が、怒気を孕んで次第に紅潮していく。

「何だお前は! 乙女に向かってメスゴリラだの筋肉ダルマだのと! 一体どういう了見だ! 私の気も知らずに好き放題言いおって! ああそうだ! 嫌いだ! お前なんか大嫌いだ! お前の顔なんか二度と見たくないわ!」

 御者台の上では、ミリィが「マジかこいつら」と目を覆って呆れかえり、ヒラリィがイルの方を、とんでもないバカを見たとでもいうような顔で振り返っていた。

 一方、キャビンの奥ではオリガが、『見たことか、所詮、男などこんなものだ』と、口元に(あざけ)るような笑みを貼り付ける。

 だが、睨みあうリュカとヴァレリィは、もはや他の者のことなど眼中に無い。

「知るか! お前の気なんぞ知ってたまるか! このクソ(アマ)ァ! そうか、わかった! お前は俺のことが嫌いなんだな! 顔も見たくねぇってんだな!」

「っ……、そ、そうだ! 嫌いだ! 大っ嫌いだぁああああ!」

 ヴァレリィの絶叫が木々の間に響き渡る。その途端、リュカは犬歯をむき出しにしてにんまりと笑った。

「じゃあ、俺はお前のことが大好きだ!」

 途端にその場にいた全員が全員、一斉にリュカの方を二度見した。

「は……はい?」

 呆気にとられるヴァレリィに、リュカが指を突きつける。

天邪鬼(あまのじやく)なんだよ、俺は! 嫌いだと言われれば好きになるし、追われれば逃げるし、逃げようとするなら追いかける。お前が俺を嫌いだってんなら、死ぬまで付きまとってやるからな!」

「ど、ど、どんな理屈だ、それは!」

 慌てふためくヴァレリィをじっと見据えて、リュカは決然と声を上げた。

「うるせぇ! 理屈なんか知るか! お前は俺の女だ!」

「ふぁっ!?」

 途端に、ヴァレリィの顔が真っ赤に染まる。

 頭から湯気でも噴き出しそうなほどに真っ赤。

 御者台のミリィがため息混じりに、「面倒くさ……」と苦笑すれば、ヒラリィが「史上最低の告白を見た」と天を仰ぐ。

 車窓の向こうではオリガが嫌悪感も(あら)わにリュカを睨みつけると、ヴァレリィの肩を掴んで声を荒げた。

「嫌がる女の尻を追い回すなど度し難いクズだ。とっとと失せろ! 失せねばブチ殺すぞ!」

 だが、もはやオリガのことなどお構いなし。リュカはヴァレリィだけを見据えて更に大声を上げる。

「女に全部押し付けてのうのうと生き延びろ? バカ言うんじゃねぇ! そんな後ろめたさ背負って生きるなんて真っ平御免なんだよ、クソ女。助けて欲しけりゃそう言え! 言えよ! お前が望むならどんなヤツでもブッ倒してやる! 俺がなんとかしてやる! 一度しか言わねぇぞ! 二度と言わないからな! 俺はお前のことが好きになっちまったんだ! わかったか!」

(ののし)んのか口説くんか、どっちかにせぇや……ほんま」

「どんだけねじくれとんねん……ほんま」

 ミリィが呆れかえると、ヒラリィが器用に肩をすくめる。

 そんな二人のことなどお構いなしに、彼は再び馬車の方へと手を伸ばして絶叫した。

「来い! ヴァレリィ!」

 次の瞬間――

「ヴァレリィ! 貴様、何を! バ、バカな!」

 オリガの慌てる声が響いて、馬車の扉が弾けるように開け放たれた。

 彼女の手を振り払ってヴァレリィが扉に体当たりをし、そのまま外へと飛び出したのだ。

 ヴァレリィの涙が宙空にアーチを描き、木洩れ日を反射してキラキラと光った。

「ヴァレリィイイイイッ!」

 リュカは必死に手を伸ばし、彼女の身体を受け止める。

 だが、走行中の馬車からのダイブである。

 さすがにおとぎ話の王子さまや英雄譚の英雄のように颯爽と抱きとめることなど出来やしない。

 そのまま二人はもつれるように荷台の上へと倒れこみ、リュカは彼女の下敷きになって、「ぐぇっ……!」と潰れたカエルのような声を漏らした。

「す、すまない! だ、大丈夫か! 旦那さま!」

 ヴァレリィが慌てて身を起こそうとすると、リュカの両腕が彼女の身体をぎゅっと抱きしめる。

「……やっと取り戻したんだ。俺から離れんじゃねぇ」

 彼女は口元に微笑みを浮かべ、静かに目を(つぶ)って彼の胸へと頬を寄せた。

「旦那さま……ダメだとわかっているのに。巻き込んでしまうとわかっているのに、貴様があんな嬉しいことを言うから、つい……我を忘れてしまったではないか……」

 すると、リュカは彼女の髪に指を這わせて、こう(ささや)いた。

「心配しなくていい。お前が死ぬ必要なんて無いんだ。姫殿下は死んでなんかいないんだから」
 澄んだ水を(たた)える美しい湖。その湖畔をひと際大きな馬車が一両、ゆっくりと走っていた。

 フロインヴェールの西の国境近く、メルヴィル湖という名の湖である。

 風光明媚なその湖畔には、王家が避暑に利用する白亜の離宮が(たたず)んでいる。

 夏も終わりに近づき秋の気配。もはや、そこには誰の姿も見当たらない。

 そんな離宮のエントランスで馬車を停めて、御者台から銀髪のメイドが飛び降りる。

 彼女はキャビンに歩み寄ると、そっと扉を開けて中へと声を掛けた。

「……ついた」

「うむ……ご苦労じゃったの」

 メイドが差し出した手を取って降りてきたのは、白い夜着を纏ったヴェルヌイユ姫である。

 足に包帯は巻かれておらず、彼女は自分の足で静かに地に降りた。

「私は流星になりたい、か……」

 彼女は周囲を見回し、愛した男がこの地で(よう)じた想い出の(うた)の一節をそっと舌先にのせた。


 ◇ ◇ ◇


「それは、一体……ど、どういうことだ? 姫殿下が生きておられるだと!?」

 手枷が邪魔でうまく起き上がることができないのだろう。

 ヴァレリィはリュカの胸に頬を寄せたまま身を(よじ)って彼の顔を覗き込む。

 彼が何を言っているのか理解できなかったのだ。

 だが、彼女が顔を上げるのとほぼ同時に御者台でミリィが切羽詰まった声を上げた。

「いちゃいちゃすんのは後にしてくれへんか!」

 見れば、オリガの乗る大型馬車(キヤリツジ)荷馬車(ワゴン)の前へ出て、左右に蛇行しながら道を塞いでいる。

 森の一本道、曲がってやり過ごせるような脇道もない。

 ヴァレリィを取り戻せばもはやオリガに用は無い。

 当初の予定では彼女を救い出したら、ぶっちぎってそのまま逃げてしまうつもりだったのだが、計算が狂った。

 本来であれば、荷馬車(ワゴン)の方が脚は速いのだが、ヴァレリィを受け止めるために速度を落とした一瞬のタイミングで、大型馬車(キヤリツジ)に前へ出られてしまったのだ。

「停めてくれ、ミリィ」

「ええんか?」

「ああ、ここでケリをつけるさ」

 リュカはヴァレリィの肩を抱いて身を起こし、ミリィが手綱を引いて荷馬車(ワゴン)を停車させる。 少し先の方でオリガを乗せた大型馬車(キヤリツジ)も速度を落とし、やがて停まった。

 車輪の音が消え去ってしまうと、朝靄(あさもや)の立ち込める森の中に、静寂が舞い降りた。ぶるると馬の(いなな)きが聞こえて、その直後にタッと短い着地音が響く。

 リュカの目に大型馬車(キヤリツジ)から飛び降りるオリガの姿が映った。

 彼女のその手には抜きはらわれた剣が握られている。

 その切っ先をリュカたちの方へと向けて、彼女は怒声を張り上げた。

「貴様ァ! 自分が何をしているのかわかっているのか! その女に関われば貴様も同罪! 姫殿下殺しの罪に連座して死にたいのか!」

 リュカは荷台から飛び降りると、挑むようにオリガを見据えた。

「いつ姫殿下が死んだ? 大した演技だったよ、オリガ。もしこれが団長だったら二秒でバレてるところだ」

「わ、私を引き合いに出すな!」

「褒めてるんですってば。人を騙して平然としてるような腹黒女は、俺の好みじゃないし」

「そ、そうか……私はお前の好みか、そうか……」

 デレデレと嬉しそうに身を(よじ)るヴァレリィの姿に、御者台のへりに肘をついたミリィが、ヒラリィへと呆れ声を漏らした。

「隙あらばイチャイチャしようとしよんなぁ……腹立つわぁ」

「ほんまやで」

 二人の呟きが聞こえた訳ではないだろうが、ヴァレリィは思い出したかのように目を見開いた。

「し、しかし、旦那さまよ。我々は実際に姫殿下の死体を見たではないか!」

「本当に姫殿下の首でしたか?」

「な、なにを言っているのかわからん。あれを姫殿下以外の誰かだと言い張るのは、さすがに無理がありすぎるだろう。扉を閉じる際、姫殿下がベットに腰かけておられるのを見た。お前も確かに見たはずだ。直前までお話されていた声も聞いている。確かに姫殿下はあの部屋の中におられた。そこから私はずっと部屋の前に居たのだ。誓って部屋に出入りした者はいない! 他の誰かに入れ替わることなど、どう考えても出来はしないではないか!」

「ま、そう思いますよね。俺も少し前まではそう思ってましたよ、まんまとね」

「……ち、違うのか?」

 戸惑いの表情を浮かべるヴァレリィに、リュカはニッと笑いかける。

 オリガはじっと彼を睨んだまま。

 ここで小馬鹿にしてこない時点でオリガは認めてしまったも同然だ。と、彼は胸の内で苦笑した。

「団長、死体を見つけた時に、部屋の中に転がってたものを思い出してみてください」

「転がっていたもの? ベッドの上に姫殿下の御首(みしるし)、あとは……そうだな。お召しになっていた夜着が大量の血にまみれていたぐらいだと……」

「足の添え木はどこに行きました?」

 ヴァレリィは「はっ!?」と息を呑む。

「扉が閉じる時、姫殿下はベッドに座っておられましたけど、その足に添え木は付いていませんでした。足を折った人間が寝るときにいちいち添え木を外すと思います? 外しませんよね。寝てる間に骨がズレたらくっつくものもくっつきませんから。部屋から出て来た時にメイドやオリガ、誰も添え木なんて持ってませんでしたし。じゃあ添え木はどこへ行ったと思います?」

「な……わ、わからん、どういうことだ?」

「決まってます。姫殿下の足についたままですよ。つまりあれは姫殿下じゃないってことです」

「バカな! どこで入れ替わったというのだ。隠し部屋への道すがら、私は姫殿下といくらか言葉を交わしたぞ。お前も話をしていたではないか! あれは断じて他の誰でも無い、確かに姫殿下だった!」

「そりゃそうです。あれは本物の姫殿下ですから」

 その一言に、ヴァレリィの頭上に大きな疑問符が浮かぶ。

 彼女はぐぬぬぬと呻いたかと思うと、(わめ)くように声を上げた。

「わからん! 全然わからん! 旦那さまよ。意地悪しないでわかるように言ってくれ!」

「じゃあ聞きますけど、隠し部屋に移ったあの時、姫殿下の車椅子を押してたのは誰でしたか?」

「誰って……関係あるのか、そんなことが?」

「もちろん」

「……覚えてはいないが、あの銀髪のメイドではないのか?」

「違います。押していたのはオリガですよ。おかしいと思いませんか? エルネストたちが殺られて、姫殿下は喰人鬼(しよくじんき)に襲われるー! なーんて怯えてたのに、率先して周囲を警戒しなきゃいけないはずのオリガが車椅子を押してたんです。そうしなきゃならない理由があったんだよな。な! オリガ!」

 リュカはオリガの方へ向き直り、挑発するような笑みを浮かべる。

 彼女は身じろぎ一つせず、じっとリュカを睨みつけていた。

「思い出してみてくださいよ、団長。姫殿下がエロい下着を持ち出した時、あのメイドは衣装箱が重くて持てないって言ってたじゃありませんか。あのメイドは非力なんです。つまりあの時、メイドの力じゃ押せないぐらい車椅子が重かったってこと。そりゃそうですよね。姫殿下の体重に加えて、もう一人分の重さが加わってるんだから」

「なっ!?」

「それが、あの車椅子がバカみたいにデカい理由です。中は空洞であの時、そこには姫殿下の身代わりが入ってたって訳です。まったく馬鹿にされたもんですね。言い換えれば、あの車椅子は最初から姫殿下が自分の死を演出するための大道具だったって訳ですよ」

「最初から……? つまりそれは、ひ、姫殿下が私を(おとしい)れたと……そういうことか?」

「残念ながら、そういうことです」

 ヴァレリィは目を見開いたまま固まっている。

 頭が理解するのを拒んでいる、リュカの目にはそう見えた。

 無理もない。自分を陥れようとしたのが敬愛する王家の人間――姫殿下だというのだから。

「着替えと称して俺らを隠し部屋の外に出した後、車椅子の中から身代わりを引っ張り出してベッドに座らせ、姫殿下自身は車椅子の中に隠れる。自分が部屋の中にいると思い込ませるために、必要以上に声高に喋って、最後には僕らに身代わりの姿を目撃させた。僕らはまんまと部屋の中に姫殿下がいると思い込んだまま、本物の姫殿下はメイドが押す車椅子に隠れて脱出した、そうだよな? オリガ」

「ふっ、バカバカしい……。では聞くが、その身代わりというのは一体、誰だ?」

「さあな。全くそっくりの人間ってのはさすがに無理がある。だが、ヴェールで顔を隠しちまえば、よく似た輪郭の人間もいるだろうよ。どうせ最後は首だけになっちまうんだ」

「いや、だが……それでは」

 ヴァレリィが唇を震わせたその瞬間、オリガのけたたましい笑い声が響き渡った。

「はははははははは! まったく何を言い出すかと聞いていれば、バカバカしい。貴様が想像力豊かなのはよくわかった。騎士ではなく劇作家にでもなった方が大成したかもしれんぞ? では、なぜ首だけを残して身体が消えた? それこそ、その女が喰人鬼(しよくじんき)である証拠ではないか!」

 途端に、リュカは悔しげに唇を噛み締めて項垂(うまだ)れる。

「そこなんだよな……そこがわからなかったんだ」

「それみたことか! 貴様の浅知恵などそんなものだ。こじつけで姫殿下を(おとし)めた罪は決して許されるものではないぞ!」

 勝ち誇ったように胸を張るオリガ。だが、リュカは静かに顔を上げると、

「確かにわからなかったよ。城砦を出るあたりまでは、な」

 と、犬歯をむき出しにして、獲物を見つけた肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。

「なんだと!?」

 思わず目を見開くオリガ。そんな彼女をほったらかして、リュカはヴァレリィの肩を抱く。

「団長、『首狩り(ヘツドハント)』ってのを覚えてますか?」

「無論だ。そ、それがどうした? なにか関係があるのか?」

「鈍いなぁ……まあそこもかわいいとは思いますけど」

「か、かわいい……そ、そうか、かわいいの……か、え、えへへ」

 ヴァレリィが恥じらうように身を(よじ)ると、背後で双子がジトっとした目をする。

「絶対わざと惚気(のろけ)てるで、あれ」

「言うたったら可哀そうやろ。女出来て、舞上がっとんねんて」

 そんな双子の呟きなど聞こえないフリをして、リュカはヴァレリィへと問いかけた。

「首を刈る殺人鬼と、首だけになった姫殿下と言えば、わかりますよね?」

「まさか、あの姫さまの御首(みしるし)首狩り(ヘツドハント)が刈り取った女の首だと……?」

「正確には逆ですけどね。姫殿下の身代わりにするために首を刈ってたのが首狩り(ヘツドハント)ってことですから。姫殿下そっくりの輪郭の持ち主を探し出すのに、一体何人殺したことやら」

 リュカはあらためてオリガの方へと向き直る。

「もう全部ネタはあがってるんだ、観念したらどうだ?」

 そして、彼女の方へと指を突きつけて、こう言い放った。

「オリガ! いや、首狩り(ヘツドハント)!」
 重苦しい静寂がただでさえ静かな森に舞い降りた。

 同時に一雫(ひとしずく)の水滴が空から落ちてきて、リュカの顎をなぞって滑り落ちる。

 どうにも雲行きが良くない。

 薄曇りの空が暗さを増している。

 このまま雨になりそうな気配である。

 (うつむ)いたままだったオリガが静かに顔を上げた。

 そこに浮かんでいたのは呆れ混じりの(さげす)みの表情。

 彼女は一つため息をつくと、肩をすくめてこう言った。

「……頭の病気かなにかを患ってるんじゃないのか? 妄想もそこまでいけば立派なものだ」

「本当に肝が据わってるよな。演技派だよ、アンタ」

「仮に、私がその首狩り(ヘツドハント)とやらだったとして、どうだというのだ!」

「ん? どうもしないな。誰が首狩り(ヘツドハント)かなんてのは実際どうでも良いんだ」

「「どうでも良いのか!?」」

 オリガとヴァレリィが思わずユニゾンで声を上げる。

 さすがはかつての友というべきか。息ピッタリの見事なツッコミである。

 リュカは、思わず吹き出しそうになりながら頷いた。

「ああ、どうでもいい。そういうヤツがこの場にいたっていう前提で話ができればそれでいいんだ。で、本題に話を戻すけど」

「……もはや、どこが本題なのかわからないぞ、旦那さま」

「姫殿下、いや、姫殿下もどきの身体がどこに消えたかって話ですけど……ね。結論から言えば、どこにも消えちゃいないんです」

「はい?」

 思わず首を傾げるヴァレリィ、その鼻先をリュカがピンと指で弾いた。

「あたっ!」

「団長が言ったんじゃありませんか。誓って誰も入っていないし、出てもいないって。つまり、あの部屋から無くなったものは何も無い。そうでしょう?」

「それは、理屈ではそうだが……」

「いいですか? あの部屋にあったものと言えば、姫殿下もどきの首と血まみれの夜着、それと大量の血。ってことはです、逆に考えていけば首は首、夜着は夜着。だとすれば無くなった身体ってのは、その大量の血って考えるのが自然じゃありませんか」

「いや、どう考えても不自然だろ……」

 これにはオリガも真顔で突っ込む。

 話があまりにも飛躍している。

 敵味方の関係を忘れて、ヴァレリィもコクコクと頷いた。

「そ、そうだぞ! 旦那さま。肉は、骨は、どこへ行ったのだ」

「だ! か! ら! さっきから言ってるじゃありませんか、無くなったものは何も無いって。最初から無かったんですってば肉も骨も。団長は御存じないでしょうけれど、首狩り(ヘツドハント)はある特殊なモノを持っています。王家の宝物庫から消えた宝玉の一つ『氷河の結晶』ってヤツなんですけどね。そいつは、どんなものでも凍りつかせる宝玉です。そんなモノを持ったヤツがいて、そこにあったものが首と血だけだとしたら、答えはあっさり見えてくるでしょ? 凍らせた血の上に首が乗ってたってだけの話ですよ」

「な、なるほ…………いや、いや、いや! おかしいだろ!」

 ヴァレリィは一瞬納得しそうになった後、ブンブンと首を振った。

「それはさすがにありえない! 最後に私が見た姫殿下はちゃんと人の形をしていたぞ。ほとんどシルエットではあったが、指先までちゃんと人の形をしていた。凍らせた血を削って人の形にしたとでもいうのか? それこそ無理な話ではないか! オリガは幼年学校時代でも手入れのために剣から(つか)をはずしたら、自分で元に戻せぬほどの不器用者なのだぞ! 夜営訓練では食材を問わず謎の黒い塊を作り出した空前絶後の粗忽者(そこつもの)なのだぞ!」

「そういうことをバラすなっ!」

 オリガが予想外の流れ弾で被弾し、思わず素に戻って顔を覆う。

 リュカは、あわあわと指で宙を掻くヴァレリィを見据えて肩をすくめた。

「別に器用じゃなくても何の問題もないでしょ? (かた)に流し込めば済む話ですから」

(かた)?」

「そうですよ。あるじゃありませんか、完璧な(かた)が。首から下、手の指先から足のつま先まで完全密閉。ピッタリとフィットして完全に覆いつくす優れモノで、水も漏らさぬ密閉度。そんな姫殿下の身体の形そのものの型が」

「っ!? 拘束着か!」

「そうです。あの黒革の拘束着を(かた)にして、中に流し込んだ血を凍らせ、姫殿下の身体を形作る。そこに夜着を着せ首を乗せて、はい、姫殿下もどきの出来上がりって訳です。おそらく首は凍らせて持ち込んだんでしょうね。断面の白い骨がはっきりわかるぐらいですから殺されたのは随分前だと思いますけど」

 呆然とするヴァレリィに、リュカは口元を歪めて見せる。

「で、あの部屋にぶちまけられていたのは、エルネストたちから抜き取った血。あいつらが姫殿下の部屋の隣に吊られてたのも、単純にそこが作業しやすかったからでしょう。自前の騎士たちの護衛区域ですからね。作業中にウチの連中が近寄ってくる心配もありません。今にして思えば、姫殿下がわざわざあの拘束着を見せびらかしたのは、変態的な用途を印象づけるためだったのかも。万一見つかることがあっても、他の用途を想像させないようにね」

 リュカは芝居がかった調子で両手を広げ空を仰いだ。

 徐々に雨脚は強まりつつある。

「部屋の鍵を掛けたのはオリガ。当然かけたフリをしただけでしょう。時間が経てば血は溶けます。いや、溶け残ったものが無かったところをみると、凍結状態を解除できるのかもしれません。そして、ベッドの上に落ちた首が音を立てて血の匂いが漂えば、団長は当然確認しようとするはずです。団長が足を滑らせて気を失ったのは、まあ……計算外だったんだと思います。慌てて扉の外へ出てくる想定だったんでしょうが。外の扉の前にオリガ、そしてそこに俺を引き留めたのは、団長の他に姫殿下を殺せる人間がいなかったことを俺に証言させるためでしょうよ」

 オリガは俯いたままその場に佇んでいた。

 雨脚は刻一刻と強くなって、彼女の甲冑から水の雫が滴り落ち、地面には水たまりができ始めている。

「オリガ、俺がアンタに聞きたかったのは、姫殿下はなんでこんなことをしたのかってことさ。随分な手間暇をかけて。どうしてそこまでして団長を(おとしい)れようとした! アンベールの仇のつもりなのかもしれないが、腹だち混じりに九族まるごとやっちまえって話なら、八つ当たりだとしても度が過ぎるだろ!」

 オリガはゆっくりと顔を上げると、静かに口を開いた。

「正直予想外だったぞ。貴様がこれほど頭が切れるとは思ってもみなかった」

「俺が普段、どれだけ頭を使ってサボってると思ってやがる!」

 雨が降っていた。静寂の中に全てを押し込めるような、しとしとと重苦しい降り方をしていた。

 呆気にとられたような沈黙の中で、

「なんで、自慢げやねん……」

 ヒラリィが思わずツッコみを入れた。
 ヒラリィが溜め息を漏らした次の瞬間、突然オリガの全身から冷気が噴き上がった。

 降り注ぐ雨粒が凍り付き、音を立てて地面へと転げ落ちる。

 事ここに至っては自分が『首狩り(ヘツドハント)』だということを隠そうという気も失ったらしい。

 彼女は刀身に冷気を纏わせてリュカを睨みつけると、静かに足を踏み出した。

 斜めにカットされた特徴的な前髪。

 その下で、黒い目が爛々と光っていた。

 彼女は獰猛な獣のような目つきでリュカを見据えて、一歩、また一歩と近づいてくる。

「下がっててください、団長」

「い、いや、しかし、お前の腕では……」

 リュカは戸惑うヴァレリィを背後に(かば)うと、オリガを見据えたまま剣を引き抜いた。

「貴様ごときが、私に敵うとでも思っているのか?」

「当たり前だ。オリガ。お前はまだ俺の質問に答えちゃいない、簡単に死んでくれるなよ」

「ハッ! 挑発しているつもりか? 滑稽としか言いようがないな。何を企んでいるのかは知らんが、貴様ごとき三下に何が出来るというのだ」

 彼女は小馬鹿にするように頬を緩めると、わずかに腰を落とす。

 それはゆっくりとした挙動。

 落としたものを拾おうとするような、ごく自然な動き。

 リュカが無意識に彼女のことを目で追ったその瞬間――オリガは唐突にその身体を宙に躍らせた。

 しなる全身のバネ。

 襲い掛かる肉食獣のごとき素早さ。

 蹴りつけた地面で泥が跳ねあがり、凍り付いた飛沫(しぶき)が宙に弧を描く。

 目線を下へと誘導されたせいで、上段からの攻撃に対して一拍の遅れが生じた。

 充分にあったはずの間合いが、一瞬にして危険極まりない距離へと変わり、リュカは頬を引き()らせる。

(くっ! 速ぇ!)

「旦那さまっ!」

「死ねぇぇえええええッ!」

 ヴァレリィの悲鳴じみた声が背後で響き、オリガが雄叫びとともに力任せに剣を振り上げた。

 甲高い風斬り音を立てながら冷たい(やいば)が迫ってくる。

 いかにも騎士らしい真っ直ぐな剣筋。

 刀身に纏わりついた冷気が空気を凍てつかせて、青白い弧を描いた。

 リュカは手にした剣を掲げて、それを迎え撃つ。

 その姿を目にして、オリガの顔には獰猛な笑みが浮かんだ。

 彼女の脳裏には、剣ごと真っ二つになるリュカの姿が描きだされているに違いなかった。

 だが、そうはならなかった。

「なっ、なにぃ!?」

 剣と剣がぶつかり合ったその瞬間、あまりの手ごたえの無さにオリガが驚愕の声を上げた。

 風に流れる落ち葉のごとくに、リュカが斜めに掲げた剣、その刀身をオリガの斬撃がただ滑り落ちていく。

 衝撃は完全に殺され、まるで導かれるかのように剣先がなすすべもなく地面を穿(うが)った。

 凍り付く泥水。

 砕けた氷の粒が、宙空へと跳ね上がる。

 その白い飛沫(しぶき)の向こう側でオリガの頬が引き()って歪むのを見た。

 だがそれで終わりではない。

 今度はリュカの剣がオリガの剣、その(やいば)をなぞるように彼女の方へと迫っていく。

 これが、これこそがリュカが父親から盗み取った秘剣――『()(ほたる)

 いかな剛剣であろうと自在に受け流し、そのまま反撃へと繋げる攻防一体の剣技。

 暗闇ならば、刃と刃がこすれ合って火花が散り、まるで蛍が落ちるかのような軌跡を描くことからその名が付いた。

 だが、

「くっ! このっ! ()めるなぁああ!」

 驚きはしたものの、オリガとて凡百の騎士ではない。

 彼女は獣のように声を上げると、躊躇(ちゆうちよ)なく剣を投げ捨てリュカの喉元めがけて手を伸ばす。

 剣がダメなら組手。

 首の骨をへし折ってそれで終わり。

 そのはずだった。

 だが、リュカは彼女の手首を掴むと、いとも簡単にそれを()じり上げ、彼女は抵抗する(いとま)もなくあっさりと地面に引き倒された。

 慌てて手を振り払い、飛びのくオリガ。

 彼女は自らの手を不思議そうに眺めた後、リュカに向かって声を荒げた。

「なんだ、貴様は! 一体何者なのだ!」

 その問いかけに、乱れた襟元を整えながら、リュカはスッと目を細める。

()()()()

 その一言にヴァレリィは息を呑み、オリガは片眉を吊り上げた。

 もちろん二人ともその名を知らぬ訳ではない。

 だが実在するなどとは考えたことも無かった。

 いわば、おとぎ話の登場人物が目の前に現れたようなものだ。

 王家に仇なす者を断罪する恐ろしい暗殺者。

 狙われたら最後、逃げ延びられる可能性は万に一つも無いと聞く。

 貴族の子女なら一度は親に『良い子にしないと暗殺貴族がやってくるぞ』などと脅かされた経験があるはずだ。

「バカな! ハッタリもそこまでいけば滑稽としか言いようがないわ! 貴様のようなナヨナヨした男が暗殺貴族だと! バカも休み休みに言え!」

「滑稽なのはアンタの方だと思うがね。今ので格の違いもわからないようじゃ、話にもならねぇな」

「うるさい、黙れ!」

 猛々しい物言いとは裏腹に、彼女の瞳は戸惑いを宿して不安げに揺らいでいた。

「さぁて……洗いざらい喋ってもらうぞ、首狩り(ヘツドハント)!」
「くっ……!」

 リュカが剣を構えて一歩足を踏み出したその瞬間、オリガは(うめ)きながら腰の革袋に手を差し入れ、手の内になにかを握り締める。そして、大声を上げながら足を踏み鳴らした。

「貫け!」

 途端に、リュカの背筋を何か冷たいものが走り抜ける。

 ともかくその場に留まっていてはいけないと、何かが頭の中で激しく騒ぎ立てる。

「ちっ!」

 舌打ちとともにリュカが慌てて飛びのこうとしたその瞬間、地面から鋭く尖ったものが突き出してくる。

 それは人の背丈ほどもある氷柱(つらら)

 これにはリュカも目を見開く。

 顔を引き攣らせながら必死に身を(よじ)ってそれを避けるも、氷柱(つらら)は服の胸元を引き裂き、わずかに肉を(えぐ)って血が飛び散った。

「旦那さまっ!」

「大丈夫だ」

 駆け寄ろうとするヴァレリィを手で制し、リュカはオリガを見据えて向き直る。

「そいつが氷河の結晶ってヤツかよ……」

 オリガは答えない。ただ口の端をわずかに歪めただけ。

 正直これはヤバい。予想外だった。

 間合いに関係なく攻撃出来るというのなら、もはや迷っている暇はない。

 一気に(ふところ)に飛び込んで勝負を決める。それしかない。

 リュカはわずかに腰を落とし、一気にオリガの方へと駆け出した。

 その速さにヴァレリィは目を丸くする。

 それはそうだろう。人並み以下の身体能力しかない。そう思っていた男が、目で追うのも困難なほどの素早さを見せたのだ。

 オリガは凄まじい勢いで迫りくる彼の姿を目で追いながら、再び足を踏み鳴らした。

「貫け!」

 迫りくる尖端。

 鋭い氷柱(つらら)がリュカをめがけて突き出してくる。

 彼は視界の中で大きくなっていく白い鋭角を凝視しながら、必死にサイドステップを踏んだ。

 だが、彼がいくら素早くともやはり氷柱が頭を出してから飛んでいたのでは避けきれない。

「ぐっ!?」

 切っ先が肩口を(えぐ)り、その冷たさと痛みに彼の身体がふらりとよろめいた。

 無論、そんな隙を逃すオリガではない。

「これで終わりだ!」

 オリガが足を踏み鳴らすのと同時に、リュカの顔面めがけて新たな氷柱(つらら)が襲い掛かってくる。

 軸足にズシリと自分の体重。態勢は崩れきっている。

(ちっ! しくじった!)

 リュカが眼前へと迫ってくる鋭く尖った先端を見据えながら頬を歪めたその瞬間、彼の身体を力任せに突き飛ばす者があった。

「うぉおおおおおおおおぉぉぉ!」 

 獣のような甲高い叫び声が響いて、ガンッと鈍い音が響き渡る。

 飛び散る氷片。砕け散る氷柱(つらら)

 リュカの視界に飛び込んできたのはヴァレリィの背中。

 彼女はリュカを突き飛ばすと、腕に()まったままの手枷を振りかぶって力まかせに氷柱を叩き折った。

 だが、それで終わりではない。

 彼女は犬歯をむき出しにして、勢いのままにオリガの方へと襲い掛かっていく。

「こ、このっ……!」

 オリガはたじろぎながらも再び足を踏み鳴らそうとした。

 だが、もはや手遅れ、ヴァレリィは彼女の胴へと飛びついて、勢い任せに彼女を地面へと押し倒した。

「くはっ!」

 濁った吐息がオリガの口から零れ落ちる。

 勢いよく地面へと叩きつけられた拍子に、オリガの手の中から白い宝玉が弾き飛ばされ、泥の上へと転がり落ちた。

「こ、この、アバズレがぁあああ!」

 オリガが目を血走らせながら、どうにかヴァレリィを払いのけようとする。

 だが既に眼前にはリュカの剣、その切っ先が突きつけられていた。

「終わりだ、首狩り(ヘツドハント)!」

 リュカがそう告げると、ヴァレリィが静かに顔を上げ、オリガを見据えた。

「オリガ……頼む、もう降参してくれ」

「くっ、こ、この……」

 薄曇りの空から降り落ちる雨粒がオリガの頬を叩き、彼女は盛大にため息を吐くと、静かに目を閉じる。

「……私は負けていないからな。二人がかりは……卑怯だろうが」

 オリガは不貞腐(ふてくさ)れるようにそう吐き捨てると、そのまま大の字に横たわった。

 額に張り付いた赤い髪。

 ヴァレリィは泥まみれの顔に、どこかホッとしたような表情を浮かべる。

 だがリュカは剣を下ろしはしない。

 横たわるオリガの面前に、剣を突きつけたまま。

 彼女の表情を見る限り、恐らくもう暴れることはないだろうと、そう思ってはいる。

 だからといって警戒するのをやめてしまえるほど、平穏な人生を送ってきた訳ではない。

 御者台から飛び降りたヒラリィが、泥の中から白い宝玉を拾い上げてリュカへと頷いてみせる。

 その白い宝玉が『氷河の結晶』で間違いないという事だろう。

 それにしても危なかった。

 ヴァレリィが飛び込んでこなければやられていたところだ。どうやら今の彼は()()ているらしい。

 リュカがふうと吐息を漏らした途端、

「旦那さまよ」

 ヴァレリィが、彼を見上げて口を開いた。

「こんな時になんだが……」

「はい、なんです? 団長」

「それだ」

「はい?」

「お前はどうして自分の女だと言い放った者のことを団長などと呼ぶ。丁寧なのは結構だが、言葉遣いも余所余所しい。むしろオリガに対する物言いの方が自然ではないか! なぜ折角近づいた距離を遠ざけようとするのだ!」

「いや、だって、団長は団長で……」

「惚れた男に距離を取られる者の身にもなってみろ」

「へ? 惚れた……って」

「その、さっきのお前は……その、とても格好が良かった……と思う。いや、その前からその……だから、先ほどのように私のことはヴァレリィと……」

 そのまま真っ赤になって顔を伏せる彼女の姿に、リュカが思わず頬を赤らめた途端、

「人の上でいちゃつくな」

 オリガが憮然とした顔で唇を尖らせた。

 降り注ぐ雨粒が小枝を揺らす森の中。

 恥じらうような空気が流れ、リュカとヴァレリィはそれぞれに照れ笑いを浮かべながら明後日の方角へ目を向ける。

 そんな二人の姿にオリガが、「ちっ!」と舌打ちした途端、馬が(ひづめ)を踏み鳴らして、大型馬車(キヤリツジ)が唐突に動き出した。

 大型の獣が身を(よじ)るかのような鈍重な動き。

 泥の中に埋もれていた車輪がギシギシと音を立てて回り始めた。

 オリガの敗北を目にして、怖じ気づいた騎士が逃げ出し始めたのだ。

 御者台まで会話が聞こえていたかどうかはわからないが、リュカの正体を知った可能性のある者を見逃す訳にはいかない。

「ミリィ! ヒラリィ! 追え!」

「しゃーなしやな」

「ほんま、人使いが荒いねんから」

 双子は愚痴を零しながらも馬に鞭を入れ、大型馬車(キヤリツジ)の後を追い始める。

 逃げる方は必死なのだろう、目一杯に速度を上げて遠ざかっていく。

 だが、そもそも荷馬車(ワゴン)大型馬車(キヤリツジ)では車体重量が違い過ぎる。

 決して逃げ切れるものではない。あっちは彼女たちに任せておいて大丈夫だろう。

 ヴァレリィはオリガを組み敷いたまま、その横顔を眺めながら静かに囁きかけた。

「……教えてくれ、オリガ。姫殿下はどうしてこんなことをなさったのだ」

 オリガは弱り切った表情でヴァレリィから再び目を逸らすと、ボソボソと消え入りそうな声音で答えた。

「詳しいことは知らん。姫殿下から直接伺った訳ではないが、娼婦以下にまでなり下がった高貴な女の、愛した男への復讐なのだと……私はそう思っている」

「男への復讐?」

 おかしな言い回しである。

 アンベール卿殺害の犯人をヴァレリィだと思い込んだ姫殿下の復讐だと、リュカはそう推測していたのだ。

「ヴァレリィ。姫殿下は貴様のことなどどうでも良いとそうおっしゃっておられた。ただの手段なのだと。あのお方は公爵家そのものをこの世から消し去りたいのだと、そうおっしゃっておられたのだ」

 リュカはヴァレリィの方へと目を向ける。

 彼女は少なからずショックを受けている様子ではあるが、同時に今一つピンと来ていないようにも見えた。

 だが、今の話の通りなら全ての辻褄が合う。

 すなわち、ヴァレリィが王族殺しの罪を犯すことで誅滅される公爵家の九族の中に、姫殿下の愛した男がいる。

 つまりそういうことだ。

「姫殿下も男のせいでその身を誤られた。所詮、男など下劣な欲望に手足が生えただけの醜い生き物なのだ。男の愛など欲望の別名でしかない。愛だ恋だとのぼせ上がっているようだが、貴様もいずれその男のせいで酷い目に遭うぞ」

 オリガのその物言いにヴァレリィが不愉快げに頬を歪めたところで、今度は遠くの方から馬の(ひづめ)の音が聞こえてきた。

 方角そのものはミリィたちが向かったのと同じ北の方角。

 だが、車輪の音は全く聞こえてこない。

 おそらく単騎の騎馬、その馬蹄の響き。

「旦那さま……」

「……ああ」

 リュカが警戒心も(あら)わに身構えながら(ひづめ)の音が響いてくる方角を凝視すると、白く煙る(もや)の中、銀糸のような雨だれの向こう側から、こちらへと駆けてくる黒毛の馬が見えた。

 その背に(また)がっているのは金色の甲冑を纏った大男。背中には自分の背丈ほどもある大剣を背負っている。

「あれは……」
 リュカが眉根を寄せるのと同時に、ヴァレリィがオリガの上から跳ねるように身を起こした。

「ち、ち、父上!?」

 それは金鷹(きんよう)騎士団の先々代団長にして、ヴァレリィの父サヴィニャック公爵、その人であった。

 彼はリュカたちのすぐ傍までやってくると、馬を停めてその背から飛び降りる。

「ち、父上……。ど、どうしてこんなところに?」

 ヴァレリィが緊張の面持ちでそう問いかけるも、彼がそれに答えようという気配は無い。

 彼はリュカに目を向け、そして身を起こして座り込んでいるオリガを一瞥(いちべつ)して、誰に聞かせるでもなくこう呟いた。

「……テルノワールまで行く手間が省けたようだな」

 そして彼は、ギロリとヴァレリィを睨みつける。

「姫殿下を(しい)したそうだな、我が娘よ。忠誠無比と音に聞こえし、我がサヴィニャック家から大逆者を出そうとは……。九族に及ぶ罪をわずかにでも(そそ)ぎ、サヴィニャック家を永らえさせるには、もはやお前の首と私の命。この二つをもって国王陛下の慈悲に(すが)るより他にあるまい」

 とんでもない殺気を放ちながら重々しく告げる父親に、ヴァレリィは(たま)らず声を上げた。

「違う! 違うのだ、父上! 私は姫殿下を手に掛けてなどいない!」

「ならばその手枷はどういうことだ!」

「これは……誤解なのだ。そこにいるオリガが」

 と、ヴァレリィが背後を振り返った時には既にオリガの姿は無かった。

 耳を澄ませば雨音に混じって、木々の間を走り抜けていく甲冑の足音が聞こえてくる。

「あいつ……!」

 リュカは思わず歯噛みする。サヴィニャック公爵のあまりの存在感の濃さに、ついつい彼女から目を離してしまったのだ。

「公爵さま! 本当なんです! 姫殿下は死んでなんていないし、団長は何もしていません。これは……姫殿下が仕掛けた罠、そう、罠なんです!」

 リュカが言葉を選びながらそう告げると、公爵は彼の方へと向き直り、ギロリと剣呑な視線を向ける。

 公爵家本邸で面談した時とは似ても似つかない異常なまでの迫力。

 恐らくこれが武人としての彼の本来の姿なのだろう。

 怒鳴りつけられるかと思わず身構えるリュカに、彼は静かに一言、こう告げた。

「そうか……そこまで辿り着いておったか。ならば(たばか)る必要もあるまい」

「え……?」

「わかっておる。姫殿下が生きておられることも、今どこにおられるかも……な」

「それならどうして!」

「だからこそ! だからこそだ。私に姫殿下の過ちを暴きたてることなど出来ぬ。王家への忠誠を果たして、()つ我がサヴィニャック家を(ながら)えさせるためには、私と娘は死なねばならぬのだ!」

「何言ってるかさっぱりわからねぇぞ! このクソ親父!」

 もはや言葉遣いを気にしている場合ではない。

 思わず声を荒げるリュカ。

 だが公爵はそれを見据えて、押し殺したような声で告げた。

「貴様にはわからぬだろうな。姫殿下を弑逆(しいぎやく)した娘を父がその手で成敗したという形にして、他の者の助命を嘆願する。そうでもせねば、国王陛下も(ほこ)を収める訳にはいくまい。ましてや全ての罪を姫殿下に押し付けることなど出来るはずがない。あの方は何も悪くないのだからな。たとえ、貴様が受け入れられなくともあの方の苦しみを、あの方の哀しみを、この私が受け止めぬ訳にはいかんのだ」

「アンタ、自分が何言ってるかわかってんのか? 姫殿下の(あやま)ちを隠す為に娘を殺すってのかよ!」

「無論だ! 忠誠こそが我がサヴィニャック家の誇りだ!」

「馬鹿げてる!」

 思わず鼻白むリュカ。そんな彼の前に、ヴァレリィが静かに歩み出た。

「お、おい……」

 彼女は戸惑う彼を振り返って静かに微笑みかけると、父親へと向き直る。

「父上……私は死なねばならぬのですか?」

「死なねばならぬ」

「旦那さまは、どうなのです?」

「お前と私が死ぬことで、サヴィニャック家を(ながら)えさせようとしておるのだ。守ろうとしているもの。そこには当然、婿殿も含まれておるとも」

 すると、ヴァレリィは小さく頷いて、再びリュカの方を振り返った。

「すまん、旦那さま。やはり私はサヴィニャック家の女なのだ。王家への忠誠、そのために身を投げ出せと言われれば従わぬ訳にはいかぬ」

「はぁあッ!? ちょ、ちょっと待てよ! そんなの間違ってる!」

「間違っている? ふむ、そう見えるかもしれん。いや、実際そうなのかもしれん。だが、それが我々サヴィニャックの家なのだ、旦那さま。国王陛下が望まれるならその命さえ捧げる。むしろ笑って自らの命を捧げられることにこそ、我々は名誉を見出すのだ」

 ヴァレリィは静かに微笑みを浮かべる。それは華やかな表情とは裏腹などこか無理のある、寂しげな別れ際の笑顔。

「旦那さま、最後にお前と想いを交わせて、私は幸せだった。私は愛されたのだと胸を張って死んで行けるのだからな。もう、お前は自由だ。私以外の誰かを愛したとしても決して恨みはせぬ。だが、忘れられてしまうのは寂しい。ほんの少しでいい。ほんの少しで……良いんだ。時々、私のことを思い出してもらえるなら、私は……それで満足だ」

ヴァレリィはそう言って父親の傍に歩み寄ると、その足元に(ひざまず)き、静かに(こうべ)を垂れる。

 手枷の()まったままの手で長い赤毛をまとめ、ゆっくりと白い首筋を晒した。

「うむ、お前のような娘を持てたことを誇りに思う。我が娘よ! お前の名は汚名に(まみ)れることになるが、許せ。お前の首を王宮に届けたら、すぐに私も後を追おう」

 父親は静かに目を閉じる。沈黙、ただしとしとと地面を打つ雨音だけが世界を包み込んだ。

(なんだこれ? なんだこれは? 名誉のために、家を護るために、父親が娘を殺す? バカな、そんなバカなことがまかり通るのか? ヴァレリィになんの罪がある? この女にどんな非がある? 俺はこの女を失うのか? なんで? どうしてこうなった?)

 リュカの頭の中を疑問符付きの言葉が埋め尽くしていく。

 雨は激しさを増し、しとどに濡れた髪の先を伝って目の前を滴り落ちていく。呆然と立ち尽くす彼を、彼女の父親が(さげす)むようなそんな目でちらりと見た。

 貴様はそのまま諦めるのかと。私との約束を守ってくれはしないのかと。

 その目は確かにそう言っていた。

(この(たぬき)親父……!)

 耳元で誰かがけたたましく(わら)っている。

 そんな気がした。

 背後で『運命』というヤツがいやらしく(わら)っている。

 そんな気がした。

 数多(あまた)の命を奪ってきたそのツケが、形を変えてリュカに清算を求めている。

 そんな気がした。

「さらばだ、ヴァレリィ。我が娘よ!」

 父親が大剣を振り上げ、その刀身を雨水が滴り落ちていく。

 そして、それが振り下ろされる瞬間、

「ヴァレリィィィィィイイイイイイイィィッ!」

 リュカは剣を引き抜くと、(ひざまず)くヴァレリィの上へと覆いかぶさるように身を投げ出した。

 リュカは胸の内で運命に剣を突きつける。

 良いだろう。

 ツケならいくらでも支払ってやる。

 俺を(もてあそ)べばいい。運命、気が済むまでお前の掌で踊ってやる。

 だが――

 俺は決して、この女を死なせやしない。