「なんやねんな、急に。ちょっとぐらい説明してーな!」
「せや、説明せえや!」
「うっせぇ、早く俺をここから出せ! わかったんだって! いや……まだ首以外がどこに消えたかはわからないが、少なくとも犯人がわかったんだって!」
「……なんや分かれへんけど、後でちゃんと説明してもらうで!」
ミリィたちに鍵を開けてもらって独房から廊下に歩み出ると、別に足を延ばせないほど狭いところに押し込められていた訳でもないのに、リュカはやたらと大きな伸びをした。
「あいつらが出て行ってからどれぐらい経った?」
「さぁ……? ヒラリィ、どれぐらいやろ」
「たぶんやけど、六刻ぐらいやないやろか?」
「六刻か……」
さすがに六刻分もの遅れを取り戻すのは、簡単なことではない。
だが、少しずつでも向こうを上回る速度で追っていけば、どこかで必ず後ろ髪をひっつかまえることが出来るはずだ。
「いそがなきゃ……な」
リュカが唇に歯を立てると、双子はちらりと互いに目を見合わせる。
「じゃ、ヒラリィ、ウチらは部屋戻ろかー」
「せやな。じゃーぼんぼん、頑張ってなー。応援してるでー」
二人が背を向けて歩みだそうとした途端、「ぎゃん!?」と頭をぶつけた犬みたいな声が響き渡った。
リュカがヒラリィの尻を蹴り上げたのだ。
「お、乙女のケツに蹴り入れるとか、何考えとんねん!」
「うるせぇ! お前らも一緒に来んだよ!」
「イヤやっちゅうねん! 他の女を助ける手伝いなんか真っ平ごめんやわ!」
「せや! せや! 考えてもみーや。うまいこと助け出したら助け出したで、目の前でイチャイチャされたりすんねんで冗談やないっちゅーねん!」
「するか、ボケェ!」
声を荒げるリュカに、双子はほぼ同時に左右から顔を突きつけてきた。
「いーや! する、ぜーったいするね!」
「するに決まっとるがな! っていうか、もう嫁でもないとか言うてたやん。そもそもぼんぼん助ける辺りまではまあ、こっちも奥さまにお世話になってる身やししゃーないと思うけど、ウチらも暗殺者や、無料で赤の他人助けるほど安ぅないで」
「わーった! わーったから! 金払う! だから手伝ってくれって、な!」
リュカがそう言って手を合わせると、途端に彼女たちは二人して、世にも珍しいものでも見たかのような顔をした。
「なんやねん? ぼんぼん、どうしてしもてん? まさか暗殺貴族ヴァンデール子爵家の長男ともあろう御方が、ビビってしもたとか言う訳やないやろな?」
「……そ、そういうことじゃねぇよ」
「じゃ、なんやねん」
怪訝そうに首を傾げる双子。リュカは彼女たちから視線を逸らして、苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「……俺、馬、乗れねぇ」
「「……は?」」
「馬だよ! 馬! 馬に乗れねぇって言ってんだろうが! あいつら! 俺の言うことはちぃぃぃっとも聞きやがらねぇ! 獣のくせにお高く留まりやがって畜生め!」
地団駄を踏みながら喚き散らすリュカに、二人は呆れたとばかりに顔を見合わせた。
「よう考えたら、確かにぼんぼんが馬乗ってるとこ見たことないな」
「ホンマや」
そして二人は声をそろえて、指をさす。
「「ぼんぼん、かっこ悪ぅ!」」
「うるせぇー!」
双子はなにやらヒソヒソと話あった末に、顔を見合わせてにんまりと口元を歪めた。
「なあ、ぼんぼん。手伝ってもええねんけどぉ、それなりに高く付けさせてもらうでぇ」
「わかった。金なら出してやる。妾にしろってのは却下だ! 早くしろ! いくぞ!」
「え! ちょ、ちょっと待ちぃや! まだ何にも言うてへんやんか!」
そんな傍から見ている分には冗談としか思えないようなやりとりの末に、先に駆け出したリュカの後を追って双子が階段を駆け上がる。
玄関ホールに走り出ると、そこには同僚の騎士たちが集まっていた。
彼らはリュカの姿を目にすると、少し驚いたような表情で互いに顔を見合わせた。
「おい、リュカ。なんだよ脱獄かよ。一応俺ら、お前の監視するように言われてんだぞ、見て見ぬフリもしにくいだろうが、ばーか」
そう口にしながら歩み寄ってきたのは、男爵家の放蕩息子ユーディンである。
彼はニヤニヤしながら、リュカの肩に肘を乗せた。
「聞いたぜぇ、団長からとうとう三下り半叩きつけられたって?」
「うっせぇ、俺は団長を追う。止めるってんなら容赦しねぇぞ」
「容赦しねぇと来たもんだ。それは万年味噌っかすのおめえのセリフじゃねぇな」
そう言って彼は、リュカの鼻先をピンッと弾いた。
「遅ぇんだよ、バカ野郎が! いつまで経ってもテメェが出てこねぇから、もう俺たちで団長、寝取っちまおうかってな話をしてたところだ」
「テメェらの手に負えるタマじゃねぇよ」
「ははっ、違いねぇ。表に馬車を用意してある。とっとと行きやがれ。俺らは何も見なかった、気が付いたら馬車が一台盗まれてたってだけの話だ、なあ、みんな」
ユーディンがそう言って振り向くと、同僚たちは声を上げて笑う。
リュカは礼を言うでもなく、振り返ることすらせずに外へと駆け出した。
門前の広場には馬車が一両。
とは言っても一頭立ての小さな荷馬車だ。
それが、すぐにでも駆け出せるように引き出されていた。
彼らは慌ただしくそれに飛び乗ると、御者台に乗ったミリィが「いくで!」と鞭を入れる。
途端に馬は大きく嘶いて駆け出し、馬車は開け放たれたままの城門を一気に飛び出した。
『私は流星になりたい。
長い夜を越えて、愛するあなたの下へと降りていきたい。
夜空に光の軌跡を描き、あなたの記憶に深く刻みこまれたい。
だから、
幾億の夜の果て、永久が最後の吐息を漏らすその日まで。
夜空の星が全て地に墜ちて、この身が塵に変わるその日まで。
あなたへ愛を囁き続けよう。
私は流星になりたい。次に生まれ変わる時には、
流星になって、愛とともにあなたへと降り注ぎたいのです』
馬車の振動を背中に感じながら、私はそっと口ずさみます。
読み手もわからぬ古い詩。
共に星を見上げた夜、あの方が吟じた古い詩です。
こんな歯の浮きそうな言葉も、あの頃の私には、バラ色の文字でしたためられているかのように感じられたものです。
長い長い夜を越え、遂にその日が、すぐそこにまで近づいているのです。
◇ ◇ ◇
リュカは馬車の荷台、その柵にもたれ掛かって、元来た道を振り返った。
夜は深く、雲に覆われた空には星一つ見当たらない。
振り向いても、城砦は既に通り過ぎて来た夜の向こう側。
もはや輪郭すら見えやしない。
ガタガタと車輪が小石をはねる振動が尻を跳ね上げる。
彼らが進んでいるのは、広大な原野を突っ切る一本道。
風景には長らく何の変化もなく、ただただ行く先には暗闇に向かって砂利道が伸びているだけだ。
リュカは胸の内で燻る焦燥から目を背けて、再び今回の不可解な出来事に思いを馳せる。
最初から仕組まれていた。そうとしか考えようがない。
なんにせよ、犯人は確定している。
もはや疑いようもない。動機も大体想像がつく。
あとは首だけを残して消えた死体の謎が残っているだけだ。
死体がどこに消えたかを解き明かさずとも、犯人を追い詰めることは出来る。
だが、それもヴァレリィを救い出せなければ意味がない。
つまりここから先、優先すべきは彼女を救い出すこと、それだけ。
今はどんなことをしてでも追いつくこと、それだけなのだ。
だが、六刻分の遅れが彼に重く圧し掛かる。
オリガたちが乗る大型馬車に比べれば、確かに彼らの乗る荷馬車の方が脚は速い。
だが、やはり馬も生き物。休みなくずっと走らせ続けられる訳ではない。
「母さんに連絡さえ取れれば、王都に入る前にどうにかしてもらうんだがなぁ……」
思わず口をついて出たそんな呟きに、御者台のミリィが呆れ顔で振り返る。
「そりゃー無いもんねだりってもんやわ。伝書鳩も連れてきてないねんから、どうしようもあらへんやん」
「わかってる、言ってみただけだ」
「それにあっちはあっちで忙しいと思うで。ウチらが王都を出た時は、まだ例の首狩りの件でバタバタしてたし」
「首狩り? そんなに手こずるなんて母さんらしくねぇな。そんなに例の宝玉が厄介ってことなのか?」
すると双子が同時に首を振った。
「それ以前の問題や」
「少なくとも、ウチらが出発する時点では正体すら特定出来てへんかったし。途中の宿場町でも噂になってたから、ウチらが王都を出た後も何人かは殺されてるんちゃうかな」
「首狩り……か」
思えば奇妙な符合である。
首だけを持ち去る殺人鬼と、首だけが残された姫殿下。
何かが引っかかった。
「なあ、お前らが王都を出た後の殺しって、本当にその『首狩り』の仕業なのかな?」
「はぁ? 何やそれ? どういうこと?」
「首狩りを騙る別のヤツじゃないかって言ってんだよ。その死体が凍ってたか、どうかってこと」
ミリィとヒラリィは、顔を見合わせて首を傾げる。
「知らんけど、人の首ぶった切るような物騒なヤツ、そんな何人もおらへんやろ」
「でもさ、でもさ、ミリィ。言われてみたら、ウチらが出発する前でも、『首狩り』の仕業っていう前提やったから、わざわざ誰も死因なんて確認してへんかったやん」
最初に殺された何人かを除けば、いずれも王太子バスティアンから齎された情報で、どこで何人殺されたかという結論だけ。
首のない死体が発見されれば、それは首狩りの仕業という公式が成り立っていたのだ。
「ちっ」
「あー! また、舌打ちしたー! 感じ悪ぅー!」
ぷぅと頬を膨らませるヒラリィ。
リュカは「うっせ」と舌先に載せた言葉を吐き出すと、向かい風に乱れた髪を煩わしげに掻き上げた。
「つまり、『首狩り』が、こっちに来てた可能性はあるっていうことだよな」
「で、姫殿下の首を刈ったって? んなアホな」
「そうじゃないけど……。でも、何かすっげぇ引っかかってることがあんだよ。ただ、問題はそれが何かが分かんねぇことなんだけどさ」
「おじいちゃんみたいやな」
「『ごはんはさっき食べたじゃない』ってヤツや」
「ボケ老人じゃねーよ」
顔を顰めるリュカの姿に、双子が楽しげな笑い声を上げる。
「あー、もしかして、ぼんぼん。凍らせて砕けば死体を粉々に出来んじゃね、それで消えた死体の謎、解決じゃね……とか、思ってる?」
「アホか。思ってねぇってーの」
実際そんなことをしたら、氷が溶けた後は見るも無残な肉片の山だ。
というか、凍らせる凍らせない以前に、誰もあの部屋に入っていない。
あの時点で首だけになってたならともかく、あの時点ではベッドに座っていた。
身体はあったのだ。
リュカは、確かにそれを目にしたのだ。
そう考えた途端、頭の片隅で、また何か引っかかるような感触があった。
(なんだ? 俺は今何を考えた? 何に引っかかった?)
途端に、これまでに起こった様々な出来事が、彼の脳裏で鮮明な映像のままに渦を巻き始める。
首狩り、残された首、消えた身体、薄暗い部屋、切断面から覗く白い骨、黒いヴェール。赤い血、血まみれのベッド、血まみれの夜着、滴り落ちる血、吊られた男たち……。
最後に、姫殿下のニヤニヤといやらしく笑う顔が瞼の裏に浮かんでくる。
そしてリュカは静かに顔を上げると、苦々しげにこう呟いた。
「そうか……そういうことかよ」
耳に痛いほどの静けさ。夜の静寂。温い風がそっと頬を撫でた。
わずかに視線を上げて遠く南の方角へと目を向ければ、明滅する星を呑み込みながら暗雲が広がる気配を見せている。
「しばらくは雨かもしれぬな」と愛馬の背を撫でながら、ヴァレリィの父――サヴィニャック公爵は独りそう呟いた。
王都から南へ一日、サヴィニャック公爵家本邸の庭先。
夜中だというのに彼はそこで独り、愛馬の背に荷物を結わえ、旅支度を進めていた。
引退して以来長らく身に着けることも無かった甲冑を引っ張り出し、家伝の大剣『鬼殺し』を背負う。
これで準備は整ったと、馬の手綱を曳いて門の方へと歩み始めようとする彼の傍に、夜着の上にローブを羽織った妻が静かに歩み寄ってきた。
「……あなた」
公爵は足を止め、妻の方を振り返る。
「……私は務めを果たさねばならぬ。王家への忠義は果たされねばならぬ。だが同時に、姫殿下を再び裏切ることも出来はしない。ならば私が採るべき道は一つしかない」
すると、彼女は弱々しく微笑んだ。
鼻先と目元はわずかに赤い。それを指摘するのは野暮というものだろう。
「わかっております。止めに参った訳ではありません。何年あなたの妻をやっていると御思いですか? 私とてサヴィニャック家の女でございます」
「うまくいかなければ九族誅滅。サヴィニャック家の名は泥にまみれ、お前たちの命もない」
「ええ、わかっておりますとも」
思えば彼女とは、幼少期より兄と妹のように育ってきた仲である。
彼女を女として意識したのは、随分後のこと。
道ならぬ恋に破れ、抜け殻のように生きていた頃のことである。
思えば彼を支えてくれたのは、この妻であった。
彼の罪、彼の失意、彼の決断、そのすべてを知りながら必死に支えてくれたのはこの女なのだ。
自分には過ぎた女だと思う。
「……愛している。私はお前を誰かの代わりだと思ったことはない。私は本当に幸せであった」
「私も幸せでございました」
公爵は自嘲気味に微笑む。
互いに過去形で語り合わねばならぬとは、と。
公爵自身にはもはや何も変えられない。
王家への忠誠を至上のものとして生きてきたのだ。
それを曲げることはできない。
だから全てはあの婿殿に懸かっているのだ。
あの頼りない男に全てを賭けねばならない。
公爵は馬に結わえた荷物から一通の書簡を引っ張り出して妻に手渡すと、彼女の目を見つめながら言い含める。
「これを……この書簡を、人を使って王太子殿下へ届けさせてくれ。かの御方であれば、決して悪いようにはなさらんはずだ」
そして、公爵は馬へと飛び乗った。
「では……な」
「ええ、あなた」
彼は馬に鞭を入れると、振り返ることもなく門から外へと駆け出していく。
妻は公爵の姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くし、そして独り、膝から地面に崩れ落ちる。
暗い地面にぽたりぽたりと雫が落ちて、押し殺すような嗚咽が静寂の中に溶けていった。
◇ ◇ ◇
リュカたちが城砦を出発した日から数えて、三日目の朝。
サヴィニャック公爵家の長男――ヴァレリィの腹違いの弟が、旅人に身をやつして密かに王都へと辿り着こうとしていた。
彼の懐には公爵が妻に託した書簡がある。
彼は真っ直ぐに王太子のいる王宮を目指していた。
同じ頃――。
「見えたで! あの馬車や! ぼんぼん、覚悟はええか!」
「今さら聞くんじゃねぇ、んなこと!」
テルノワールとフロインヴェールの国境近く、朝靄の立ち込める鬱蒼とした森の中、黒曜の森と呼ばれるその森を貫く一本道。
そこでリュカたちは視界に一両の馬車と、姫殿下直属の騎士たちの馬影を捉えていた。
「気分はどうだ」
オリガのその問いかけに、ヴァレリィは無言で応じた。
キャビンの中、どこかやつれたような顔つきの彼女は、まんじりともせずに誰も座っていない向かいの座席、その座面の縫い目を見つめている。
「ふっ、またあの男の事を考えているのか? まさか、助けに来てくれるとでも思っているのではあるまいな」
ヴァレリィは静かに瞑目すると、自嘲するように吐息を漏らした。
「……来る理由が無いではないか。ただでさえ、あやつは私との婚姻を拒んでいたのだ。その上大人しくしてさえいれば、姫殿下殺しの罪に連座させられずに済むのだからな。誰が好き好んでこんな女を救いにくるというのだ」
「ハッ! くだらぬ男だな。しかし残念といえば残念だ。護送中の咎人を奪い返しにくるようであれば、堂々と叩き斬ることもできるのだがな」
「……約束したはずだぞ。あやつには手を出さぬと」
おどけるように肩をすくめるオリガを、ヴァレリィがジロリと睨みつける。
「貴様が大人しく従っている間は……な」
「……わかっている」
ヴァレリィが下唇を噛むと、オリガはニヤついた笑みを浮かべて、彼女に顔を突きつけてきた。
「本当にわかっておるのか? 救われるのはあの男一人だ。公爵家の滅亡は避けられぬのだぞ」
「……わかっていると、そう言っている」
ヴァレリィの言葉尻に怒気が纏わりつくのを耳にして、オリガは彼女の顎を掴んだ。
「いや、わかっておらぬようだな、その態度は。正直に告白してしまえば、私は貴様のことを友だと思ったことなど一度も無い。一度もだ。ずっと貴様の下風に立たされてきたことが悔しくてならなかったのだ。今、私の心がどれだけ浮きたっているかわかるか? 貴様のこの惨めな姿にな!」
その声は、次第に苛烈な響きを帯び、顎を掴む指に力がこもりはじめる。
「あの男を助けたいと望むのならば、無様に私に縋れ、惨めに私に媚びろ!」
「……わかっている」
「あん? なんだって? ちゃんとわかるように言え。教えたであろうが!」
オリガが指先に力を籠め、ヴァレリィは喉の奥から絞り出すように声を漏らした。
「おねがい……します、オリガさま」
項垂れるヴァレリィ。オリガは満足気に頷くと、彼女の顎から指を話した。
「くっ、ふはっ! ふ、ふふ、はははははは!」
ヴァレリィは幼年学校時代から、オリガが自分ことをライバル視していることには気づいていた。だが、まさかここまで劣等感を拗らせているとは思ってもみなかった。
「城砦を出る前に述べた通り、この黒曜の森を抜けたところで馬車を停める。先触れとして騎士の大半を王都へ向かわせ、残った者どもをブチ殺して……我々は姿を消す。世間は喰人鬼ヴァレリィが、騎士たちを殺して逃亡したと、そう思うはずだ。そのまま事実は闇の中。貴様を奴隷として他国の変態貴族に売り渡した後、私は命からがら喰人鬼から逃れたフリをして王都に戻る」
「……約束は守ってくれるのだろうな」
「ああ、騎士に二言はない。もはやあんなウジ虫のことなどどうでも良いのだからな。ちゃんと国王陛下への書簡は先触れの兵士に持たせるとも。それよりも己の不幸を見苦しく嘆き悲しんで欲しいものだがな。お前はこれから死ぬまで変態貴族の慰みものとして生きていかねばならぬのだからな」
「……運命だ。それも受け入れよう」
ヴァレリィがそう返事をした途端、オリガが不満げに口を尖らせる。
「つまらん。自分を犠牲にしてでも助けたいなどとは……随分と惚れたものだな。貴様を絶望させようと思えば、やはりあの男を殺すべきか」
「違う、そ、そうじゃない! やめてくれ! やめて……くださ、い」
ヴァレリィの声が弱々しく消え入りそうになったところで、唐突に御者台とキャビンの間の小窓が開いて、御者を務める騎士が顔を覗かせた。
「オリガさま! 背後から馬車が一両、真っ直ぐにこちらに向かって参ります!」
良いところを邪魔されたとばかりに、オリガは舌打ちして窓から馬車の後ろを覗き込む。
そして再びヴァレリィに顔を突きつけると、いやらしく口元を歪めながら、こう告げた。
「ヴァレリィ……約束とはいえ、あの男が自ら殺されにきた場合は殺しても仕方があるまい」
◇ ◇ ◇
「ほな、手はず通りいくでぇ! ぼんぼん、手綱は任せた! なんぼ馬に乗れん言うたかて、真っ直ぐ走らせることぐらいは出来るやろ!」
ミリィは遥か前方を行く馬車と騎士たちの姿を見据えながらそう言い放つ。
一方、荷台のリュカは緊張の面持ちで腕を伸ばし、御者台に座る双子の間から手綱を握った。
「その真っ直ぐ走らせるってのが難しいんだろうが!」
前を行く大型馬車に速度を落とす気配は無い。
だが、そのすぐ後ろを追走する騎士たちは、既にこちらに気付いているようだ。その証拠に、彼らは徐々に速度を落とし始めていた。
「来るで!」
ヒラリィが声を上げるのとほぼ同時に、騎士たちは一斉に馬首を返し、リュカたちの方へと突っ込んでくる。
視界で立ち昇る砂煙。馬蹄の響きが地鳴りのごとくに轟き、騎士たちの上げる雄叫びが次第に近づいてくる。
「お、おい!」
「やかましぃ! まだやッ!」
顔を引き攣らせるリュカを、ミリィが怒鳴りつける。
距離三十ザール。二十ザール。遂に十ザールを越えて、先頭の騎士が剣を振り上げた、まさにその瞬間――。
「入った!」
ミリィが大声を上げた。
距離十ザール。
それは即ち、この双子にとって必殺の距離。
二人が両手をスカートの中に差し入れて引き抜くと、その十本の指の間には、鋭く太い鉄の針が挟み込まれていた。
「「食らいさらせッ! こんんのぉお、ボケぇええええ!」」
品の欠片も無い声を上げて二人が腕を振るうと、鋭い風斬り音が空気を削る。
彼女たちの手から放たれた合計十六本の鉄針が、一斉に馬上の騎士たちへと襲い掛かった。
途端に響き渡る悲鳴。赤い血のアーチを描きながら、騎士たちが次々と馬上から投げ出されていく。
双子の手から放たれた鉄針は、兜と甲冑のわずかな隙間、騎士たちの喉元を寸分違わず貫き、彼らの首の骨を砕いたのだ。
「「もういっちょ!」」
双子が更に鉄針を放つと、後続の騎士たちを乗せた馬が突然足をもつれさせて、左右の木々の間へと突っ込みはじめる。
今度は馬の脚を貫いたのだ。
次々に振り落とされる騎士たち。馬は前のめりに倒れ、落馬した彼らをその巨体で容赦なく圧し潰す。一瞬にして阿鼻叫喚の地獄が、そこに出現した。
「うひぃ……ひでぇもんだ」
もつれ合って転がる騎士と馬、その間を走り抜けながらリュカは首をすくめる。
ミリィは背後で遠ざかっていく馬と騎士の死体の山を振り返って、追ってくる者がいないことを確認すると、リュカの手から手綱をひったくった。
「こっから先はアンタの出番やで! ぼんぼん!」
「ああ、わかってる!」
先を行くのは城砦まで侍女たちを乗せてきた大型馬車。
なにせ重量が違う。
彼らの荷馬車に比べれば、その速度もお上品なものだ。
数分と立たずに追いついて、二台の馬車は森を貫く一本道を並走し始めた。
「ミリィ! もっと寄せろ!」
「あいよ!」
宙空に枝を伸ばす木々。
葉の隙間から差し込む陽光は疎ら。
枝の影が網目模様を描く一本道で、二台の馬車が車体を擦りあわせ、そのけたたましい音を森の中に響かせる。
リュカは荷台の上で手を伸ばすと、大型馬車の車窓、その奥に向かって声を限りに叫び声をあげた。
「だんちょおおおおおおおおおお!」
伸ばした彼の腕の先、車窓の奥。そこには驚きに目を丸くするヴァレリィの姿があった。
「何をしに来たのだ、馬鹿者! お前と私はもう関係ないはずだ。頼む! 頼むから! 大人しく引き返してくれ!」
大型馬車の車窓から彼女が声を上げれば、荷馬車の荷台で腕を伸ばしたリュカが、ムスッと腹立たしげに口元を歪める。
「ふざけんな、高飛車女! 妻として尽くすとか勝手に覚悟決めといて、今度は勝手に別れてくれだと! バカにするのもいい加減にしろ!」
「そうではない! そうではないのだ!」
「じゃあ何だってんだ! このメスゴリラ! 今さら好みのタイプじゃなかったとか言っても返品なんてきかねーぞ! おいコラ、お高く止まりやがって! この筋肉ダルマ! 貰い手がねぇから適当な相手で手を打とうと思ったけど、やっぱり我慢できなかったってか!」
「な!? なんだと!」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのこと。
いきなり罵詈雑言を投げつけられて、先ほどまで悄然としていたはずの彼女の顔が、怒気を孕んで次第に紅潮していく。
「何だお前は! 乙女に向かってメスゴリラだの筋肉ダルマだのと! 一体どういう了見だ! 私の気も知らずに好き放題言いおって! ああそうだ! 嫌いだ! お前なんか大嫌いだ! お前の顔なんか二度と見たくないわ!」
御者台の上では、ミリィが「マジかこいつら」と目を覆って呆れかえり、ヒラリィがイルの方を、とんでもないバカを見たとでもいうような顔で振り返っていた。
一方、キャビンの奥ではオリガが、『見たことか、所詮、男などこんなものだ』と、口元に嘲るような笑みを貼り付ける。
だが、睨みあうリュカとヴァレリィは、もはや他の者のことなど眼中に無い。
「知るか! お前の気なんぞ知ってたまるか! このクソ女ァ! そうか、わかった! お前は俺のことが嫌いなんだな! 顔も見たくねぇってんだな!」
「っ……、そ、そうだ! 嫌いだ! 大っ嫌いだぁああああ!」
ヴァレリィの絶叫が木々の間に響き渡る。その途端、リュカは犬歯をむき出しにしてにんまりと笑った。
「じゃあ、俺はお前のことが大好きだ!」
途端にその場にいた全員が全員、一斉にリュカの方を二度見した。
「は……はい?」
呆気にとられるヴァレリィに、リュカが指を突きつける。
「天邪鬼なんだよ、俺は! 嫌いだと言われれば好きになるし、追われれば逃げるし、逃げようとするなら追いかける。お前が俺を嫌いだってんなら、死ぬまで付きまとってやるからな!」
「ど、ど、どんな理屈だ、それは!」
慌てふためくヴァレリィをじっと見据えて、リュカは決然と声を上げた。
「うるせぇ! 理屈なんか知るか! お前は俺の女だ!」
「ふぁっ!?」
途端に、ヴァレリィの顔が真っ赤に染まる。
頭から湯気でも噴き出しそうなほどに真っ赤。
御者台のミリィがため息混じりに、「面倒くさ……」と苦笑すれば、ヒラリィが「史上最低の告白を見た」と天を仰ぐ。
車窓の向こうではオリガが嫌悪感も露わにリュカを睨みつけると、ヴァレリィの肩を掴んで声を荒げた。
「嫌がる女の尻を追い回すなど度し難いクズだ。とっとと失せろ! 失せねばブチ殺すぞ!」
だが、もはやオリガのことなどお構いなし。リュカはヴァレリィだけを見据えて更に大声を上げる。
「女に全部押し付けてのうのうと生き延びろ? バカ言うんじゃねぇ! そんな後ろめたさ背負って生きるなんて真っ平御免なんだよ、クソ女。助けて欲しけりゃそう言え! 言えよ! お前が望むならどんなヤツでもブッ倒してやる! 俺がなんとかしてやる! 一度しか言わねぇぞ! 二度と言わないからな! 俺はお前のことが好きになっちまったんだ! わかったか!」
「罵んのか口説くんか、どっちかにせぇや……ほんま」
「どんだけねじくれとんねん……ほんま」
ミリィが呆れかえると、ヒラリィが器用に肩をすくめる。
そんな二人のことなどお構いなしに、彼は再び馬車の方へと手を伸ばして絶叫した。
「来い! ヴァレリィ!」
次の瞬間――
「ヴァレリィ! 貴様、何を! バ、バカな!」
オリガの慌てる声が響いて、馬車の扉が弾けるように開け放たれた。
彼女の手を振り払ってヴァレリィが扉に体当たりをし、そのまま外へと飛び出したのだ。
ヴァレリィの涙が宙空にアーチを描き、木洩れ日を反射してキラキラと光った。
「ヴァレリィイイイイッ!」
リュカは必死に手を伸ばし、彼女の身体を受け止める。
だが、走行中の馬車からのダイブである。
さすがにおとぎ話の王子さまや英雄譚の英雄のように颯爽と抱きとめることなど出来やしない。
そのまま二人はもつれるように荷台の上へと倒れこみ、リュカは彼女の下敷きになって、「ぐぇっ……!」と潰れたカエルのような声を漏らした。
「す、すまない! だ、大丈夫か! 旦那さま!」
ヴァレリィが慌てて身を起こそうとすると、リュカの両腕が彼女の身体をぎゅっと抱きしめる。
「……やっと取り戻したんだ。俺から離れんじゃねぇ」
彼女は口元に微笑みを浮かべ、静かに目を瞑って彼の胸へと頬を寄せた。
「旦那さま……ダメだとわかっているのに。巻き込んでしまうとわかっているのに、貴様があんな嬉しいことを言うから、つい……我を忘れてしまったではないか……」
すると、リュカは彼女の髪に指を這わせて、こう囁いた。
「心配しなくていい。お前が死ぬ必要なんて無いんだ。姫殿下は死んでなんかいないんだから」
澄んだ水を湛える美しい湖。その湖畔をひと際大きな馬車が一両、ゆっくりと走っていた。
フロインヴェールの西の国境近く、メルヴィル湖という名の湖である。
風光明媚なその湖畔には、王家が避暑に利用する白亜の離宮が佇んでいる。
夏も終わりに近づき秋の気配。もはや、そこには誰の姿も見当たらない。
そんな離宮のエントランスで馬車を停めて、御者台から銀髪のメイドが飛び降りる。
彼女はキャビンに歩み寄ると、そっと扉を開けて中へと声を掛けた。
「……ついた」
「うむ……ご苦労じゃったの」
メイドが差し出した手を取って降りてきたのは、白い夜着を纏ったヴェルヌイユ姫である。
足に包帯は巻かれておらず、彼女は自分の足で静かに地に降りた。
「私は流星になりたい、か……」
彼女は周囲を見回し、愛した男がこの地で謡じた想い出の詩の一節をそっと舌先にのせた。
◇ ◇ ◇
「それは、一体……ど、どういうことだ? 姫殿下が生きておられるだと!?」
手枷が邪魔でうまく起き上がることができないのだろう。
ヴァレリィはリュカの胸に頬を寄せたまま身を捩って彼の顔を覗き込む。
彼が何を言っているのか理解できなかったのだ。
だが、彼女が顔を上げるのとほぼ同時に御者台でミリィが切羽詰まった声を上げた。
「いちゃいちゃすんのは後にしてくれへんか!」
見れば、オリガの乗る大型馬車が荷馬車の前へ出て、左右に蛇行しながら道を塞いでいる。
森の一本道、曲がってやり過ごせるような脇道もない。
ヴァレリィを取り戻せばもはやオリガに用は無い。
当初の予定では彼女を救い出したら、ぶっちぎってそのまま逃げてしまうつもりだったのだが、計算が狂った。
本来であれば、荷馬車の方が脚は速いのだが、ヴァレリィを受け止めるために速度を落とした一瞬のタイミングで、大型馬車に前へ出られてしまったのだ。
「停めてくれ、ミリィ」
「ええんか?」
「ああ、ここでケリをつけるさ」
リュカはヴァレリィの肩を抱いて身を起こし、ミリィが手綱を引いて荷馬車を停車させる。 少し先の方でオリガを乗せた大型馬車も速度を落とし、やがて停まった。
車輪の音が消え去ってしまうと、朝靄の立ち込める森の中に、静寂が舞い降りた。ぶるると馬の嘶きが聞こえて、その直後にタッと短い着地音が響く。
リュカの目に大型馬車から飛び降りるオリガの姿が映った。
彼女のその手には抜きはらわれた剣が握られている。
その切っ先をリュカたちの方へと向けて、彼女は怒声を張り上げた。
「貴様ァ! 自分が何をしているのかわかっているのか! その女に関われば貴様も同罪! 姫殿下殺しの罪に連座して死にたいのか!」
リュカは荷台から飛び降りると、挑むようにオリガを見据えた。
「いつ姫殿下が死んだ? 大した演技だったよ、オリガ。もしこれが団長だったら二秒でバレてるところだ」
「わ、私を引き合いに出すな!」
「褒めてるんですってば。人を騙して平然としてるような腹黒女は、俺の好みじゃないし」
「そ、そうか……私はお前の好みか、そうか……」
デレデレと嬉しそうに身を捩るヴァレリィの姿に、御者台のへりに肘をついたミリィが、ヒラリィへと呆れ声を漏らした。
「隙あらばイチャイチャしようとしよんなぁ……腹立つわぁ」
「ほんまやで」
二人の呟きが聞こえた訳ではないだろうが、ヴァレリィは思い出したかのように目を見開いた。
「し、しかし、旦那さまよ。我々は実際に姫殿下の死体を見たではないか!」
「本当に姫殿下の首でしたか?」
「な、なにを言っているのかわからん。あれを姫殿下以外の誰かだと言い張るのは、さすがに無理がありすぎるだろう。扉を閉じる際、姫殿下がベットに腰かけておられるのを見た。お前も確かに見たはずだ。直前までお話されていた声も聞いている。確かに姫殿下はあの部屋の中におられた。そこから私はずっと部屋の前に居たのだ。誓って部屋に出入りした者はいない! 他の誰かに入れ替わることなど、どう考えても出来はしないではないか!」
「ま、そう思いますよね。俺も少し前まではそう思ってましたよ、まんまとね」
「……ち、違うのか?」
戸惑いの表情を浮かべるヴァレリィに、リュカはニッと笑いかける。
オリガはじっと彼を睨んだまま。
ここで小馬鹿にしてこない時点でオリガは認めてしまったも同然だ。と、彼は胸の内で苦笑した。
「団長、死体を見つけた時に、部屋の中に転がってたものを思い出してみてください」
「転がっていたもの? ベッドの上に姫殿下の御首、あとは……そうだな。お召しになっていた夜着が大量の血にまみれていたぐらいだと……」
「足の添え木はどこに行きました?」
ヴァレリィは「はっ!?」と息を呑む。
「扉が閉じる時、姫殿下はベッドに座っておられましたけど、その足に添え木は付いていませんでした。足を折った人間が寝るときにいちいち添え木を外すと思います? 外しませんよね。寝てる間に骨がズレたらくっつくものもくっつきませんから。部屋から出て来た時にメイドやオリガ、誰も添え木なんて持ってませんでしたし。じゃあ添え木はどこへ行ったと思います?」
「な……わ、わからん、どういうことだ?」
「決まってます。姫殿下の足についたままですよ。つまりあれは姫殿下じゃないってことです」
「バカな! どこで入れ替わったというのだ。隠し部屋への道すがら、私は姫殿下といくらか言葉を交わしたぞ。お前も話をしていたではないか! あれは断じて他の誰でも無い、確かに姫殿下だった!」
「そりゃそうです。あれは本物の姫殿下ですから」
その一言に、ヴァレリィの頭上に大きな疑問符が浮かぶ。
彼女はぐぬぬぬと呻いたかと思うと、喚くように声を上げた。
「わからん! 全然わからん! 旦那さまよ。意地悪しないでわかるように言ってくれ!」
「じゃあ聞きますけど、隠し部屋に移ったあの時、姫殿下の車椅子を押してたのは誰でしたか?」
「誰って……関係あるのか、そんなことが?」
「もちろん」
「……覚えてはいないが、あの銀髪のメイドではないのか?」
「違います。押していたのはオリガですよ。おかしいと思いませんか? エルネストたちが殺られて、姫殿下は喰人鬼に襲われるー! なーんて怯えてたのに、率先して周囲を警戒しなきゃいけないはずのオリガが車椅子を押してたんです。そうしなきゃならない理由があったんだよな。な! オリガ!」
リュカはオリガの方へ向き直り、挑発するような笑みを浮かべる。
彼女は身じろぎ一つせず、じっとリュカを睨みつけていた。
「思い出してみてくださいよ、団長。姫殿下がエロい下着を持ち出した時、あのメイドは衣装箱が重くて持てないって言ってたじゃありませんか。あのメイドは非力なんです。つまりあの時、メイドの力じゃ押せないぐらい車椅子が重かったってこと。そりゃそうですよね。姫殿下の体重に加えて、もう一人分の重さが加わってるんだから」
「なっ!?」
「それが、あの車椅子がバカみたいにデカい理由です。中は空洞であの時、そこには姫殿下の身代わりが入ってたって訳です。まったく馬鹿にされたもんですね。言い換えれば、あの車椅子は最初から姫殿下が自分の死を演出するための大道具だったって訳ですよ」
「最初から……? つまりそれは、ひ、姫殿下が私を陥れたと……そういうことか?」
「残念ながら、そういうことです」
ヴァレリィは目を見開いたまま固まっている。
頭が理解するのを拒んでいる、リュカの目にはそう見えた。
無理もない。自分を陥れようとしたのが敬愛する王家の人間――姫殿下だというのだから。
「着替えと称して俺らを隠し部屋の外に出した後、車椅子の中から身代わりを引っ張り出してベッドに座らせ、姫殿下自身は車椅子の中に隠れる。自分が部屋の中にいると思い込ませるために、必要以上に声高に喋って、最後には僕らに身代わりの姿を目撃させた。僕らはまんまと部屋の中に姫殿下がいると思い込んだまま、本物の姫殿下はメイドが押す車椅子に隠れて脱出した、そうだよな? オリガ」
「ふっ、バカバカしい……。では聞くが、その身代わりというのは一体、誰だ?」
「さあな。全くそっくりの人間ってのはさすがに無理がある。だが、ヴェールで顔を隠しちまえば、よく似た輪郭の人間もいるだろうよ。どうせ最後は首だけになっちまうんだ」
「いや、だが……それでは」
ヴァレリィが唇を震わせたその瞬間、オリガのけたたましい笑い声が響き渡った。
「はははははははは! まったく何を言い出すかと聞いていれば、バカバカしい。貴様が想像力豊かなのはよくわかった。騎士ではなく劇作家にでもなった方が大成したかもしれんぞ? では、なぜ首だけを残して身体が消えた? それこそ、その女が喰人鬼である証拠ではないか!」
途端に、リュカは悔しげに唇を噛み締めて項垂れる。
「そこなんだよな……そこがわからなかったんだ」
「それみたことか! 貴様の浅知恵などそんなものだ。こじつけで姫殿下を貶めた罪は決して許されるものではないぞ!」
勝ち誇ったように胸を張るオリガ。だが、リュカは静かに顔を上げると、
「確かにわからなかったよ。城砦を出るあたりまでは、な」
と、犬歯をむき出しにして、獲物を見つけた肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「なんだと!?」
思わず目を見開くオリガ。そんな彼女をほったらかして、リュカはヴァレリィの肩を抱く。
「団長、『首狩り』ってのを覚えてますか?」
「無論だ。そ、それがどうした? なにか関係があるのか?」
「鈍いなぁ……まあそこもかわいいとは思いますけど」
「か、かわいい……そ、そうか、かわいいの……か、え、えへへ」
ヴァレリィが恥じらうように身を捩ると、背後で双子がジトっとした目をする。
「絶対わざと惚気てるで、あれ」
「言うたったら可哀そうやろ。女出来て、舞上がっとんねんて」
そんな双子の呟きなど聞こえないフリをして、リュカはヴァレリィへと問いかけた。
「首を刈る殺人鬼と、首だけになった姫殿下と言えば、わかりますよね?」
「まさか、あの姫さまの御首が首狩りが刈り取った女の首だと……?」
「正確には逆ですけどね。姫殿下の身代わりにするために首を刈ってたのが首狩りってことですから。姫殿下そっくりの輪郭の持ち主を探し出すのに、一体何人殺したことやら」
リュカはあらためてオリガの方へと向き直る。
「もう全部ネタはあがってるんだ、観念したらどうだ?」
そして、彼女の方へと指を突きつけて、こう言い放った。
「オリガ! いや、首狩り!」
重苦しい静寂がただでさえ静かな森に舞い降りた。
同時に一雫の水滴が空から落ちてきて、リュカの顎をなぞって滑り落ちる。
どうにも雲行きが良くない。
薄曇りの空が暗さを増している。
このまま雨になりそうな気配である。
俯いたままだったオリガが静かに顔を上げた。
そこに浮かんでいたのは呆れ混じりの蔑みの表情。
彼女は一つため息をつくと、肩をすくめてこう言った。
「……頭の病気かなにかを患ってるんじゃないのか? 妄想もそこまでいけば立派なものだ」
「本当に肝が据わってるよな。演技派だよ、アンタ」
「仮に、私がその首狩りとやらだったとして、どうだというのだ!」
「ん? どうもしないな。誰が首狩りかなんてのは実際どうでも良いんだ」
「「どうでも良いのか!?」」
オリガとヴァレリィが思わずユニゾンで声を上げる。
さすがはかつての友というべきか。息ピッタリの見事なツッコミである。
リュカは、思わず吹き出しそうになりながら頷いた。
「ああ、どうでもいい。そういうヤツがこの場にいたっていう前提で話ができればそれでいいんだ。で、本題に話を戻すけど」
「……もはや、どこが本題なのかわからないぞ、旦那さま」
「姫殿下、いや、姫殿下もどきの身体がどこに消えたかって話ですけど……ね。結論から言えば、どこにも消えちゃいないんです」
「はい?」
思わず首を傾げるヴァレリィ、その鼻先をリュカがピンと指で弾いた。
「あたっ!」
「団長が言ったんじゃありませんか。誓って誰も入っていないし、出てもいないって。つまり、あの部屋から無くなったものは何も無い。そうでしょう?」
「それは、理屈ではそうだが……」
「いいですか? あの部屋にあったものと言えば、姫殿下もどきの首と血まみれの夜着、それと大量の血。ってことはです、逆に考えていけば首は首、夜着は夜着。だとすれば無くなった身体ってのは、その大量の血って考えるのが自然じゃありませんか」
「いや、どう考えても不自然だろ……」
これにはオリガも真顔で突っ込む。
話があまりにも飛躍している。
敵味方の関係を忘れて、ヴァレリィもコクコクと頷いた。
「そ、そうだぞ! 旦那さま。肉は、骨は、どこへ行ったのだ」
「だ! か! ら! さっきから言ってるじゃありませんか、無くなったものは何も無いって。最初から無かったんですってば肉も骨も。団長は御存じないでしょうけれど、首狩りはある特殊なモノを持っています。王家の宝物庫から消えた宝玉の一つ『氷河の結晶』ってヤツなんですけどね。そいつは、どんなものでも凍りつかせる宝玉です。そんなモノを持ったヤツがいて、そこにあったものが首と血だけだとしたら、答えはあっさり見えてくるでしょ? 凍らせた血の上に首が乗ってたってだけの話ですよ」
「な、なるほ…………いや、いや、いや! おかしいだろ!」
ヴァレリィは一瞬納得しそうになった後、ブンブンと首を振った。
「それはさすがにありえない! 最後に私が見た姫殿下はちゃんと人の形をしていたぞ。ほとんどシルエットではあったが、指先までちゃんと人の形をしていた。凍らせた血を削って人の形にしたとでもいうのか? それこそ無理な話ではないか! オリガは幼年学校時代でも手入れのために剣から柄をはずしたら、自分で元に戻せぬほどの不器用者なのだぞ! 夜営訓練では食材を問わず謎の黒い塊を作り出した空前絶後の粗忽者なのだぞ!」
「そういうことをバラすなっ!」
オリガが予想外の流れ弾で被弾し、思わず素に戻って顔を覆う。
リュカは、あわあわと指で宙を掻くヴァレリィを見据えて肩をすくめた。
「別に器用じゃなくても何の問題もないでしょ? 型に流し込めば済む話ですから」
「型?」
「そうですよ。あるじゃありませんか、完璧な型が。首から下、手の指先から足のつま先まで完全密閉。ピッタリとフィットして完全に覆いつくす優れモノで、水も漏らさぬ密閉度。そんな姫殿下の身体の形そのものの型が」
「っ!? 拘束着か!」
「そうです。あの黒革の拘束着を型にして、中に流し込んだ血を凍らせ、姫殿下の身体を形作る。そこに夜着を着せ首を乗せて、はい、姫殿下もどきの出来上がりって訳です。おそらく首は凍らせて持ち込んだんでしょうね。断面の白い骨がはっきりわかるぐらいですから殺されたのは随分前だと思いますけど」
呆然とするヴァレリィに、リュカは口元を歪めて見せる。
「で、あの部屋にぶちまけられていたのは、エルネストたちから抜き取った血。あいつらが姫殿下の部屋の隣に吊られてたのも、単純にそこが作業しやすかったからでしょう。自前の騎士たちの護衛区域ですからね。作業中にウチの連中が近寄ってくる心配もありません。今にして思えば、姫殿下がわざわざあの拘束着を見せびらかしたのは、変態的な用途を印象づけるためだったのかも。万一見つかることがあっても、他の用途を想像させないようにね」
リュカは芝居がかった調子で両手を広げ空を仰いだ。
徐々に雨脚は強まりつつある。
「部屋の鍵を掛けたのはオリガ。当然かけたフリをしただけでしょう。時間が経てば血は溶けます。いや、溶け残ったものが無かったところをみると、凍結状態を解除できるのかもしれません。そして、ベッドの上に落ちた首が音を立てて血の匂いが漂えば、団長は当然確認しようとするはずです。団長が足を滑らせて気を失ったのは、まあ……計算外だったんだと思います。慌てて扉の外へ出てくる想定だったんでしょうが。外の扉の前にオリガ、そしてそこに俺を引き留めたのは、団長の他に姫殿下を殺せる人間がいなかったことを俺に証言させるためでしょうよ」
オリガは俯いたままその場に佇んでいた。
雨脚は刻一刻と強くなって、彼女の甲冑から水の雫が滴り落ち、地面には水たまりができ始めている。
「オリガ、俺がアンタに聞きたかったのは、姫殿下はなんでこんなことをしたのかってことさ。随分な手間暇をかけて。どうしてそこまでして団長を陥れようとした! アンベールの仇のつもりなのかもしれないが、腹だち混じりに九族まるごとやっちまえって話なら、八つ当たりだとしても度が過ぎるだろ!」
オリガはゆっくりと顔を上げると、静かに口を開いた。
「正直予想外だったぞ。貴様がこれほど頭が切れるとは思ってもみなかった」
「俺が普段、どれだけ頭を使ってサボってると思ってやがる!」
雨が降っていた。静寂の中に全てを押し込めるような、しとしとと重苦しい降り方をしていた。
呆気にとられたような沈黙の中で、
「なんで、自慢げやねん……」
ヒラリィが思わずツッコみを入れた。
ヒラリィが溜め息を漏らした次の瞬間、突然オリガの全身から冷気が噴き上がった。
降り注ぐ雨粒が凍り付き、音を立てて地面へと転げ落ちる。
事ここに至っては自分が『首狩り』だということを隠そうという気も失ったらしい。
彼女は刀身に冷気を纏わせてリュカを睨みつけると、静かに足を踏み出した。
斜めにカットされた特徴的な前髪。
その下で、黒い目が爛々と光っていた。
彼女は獰猛な獣のような目つきでリュカを見据えて、一歩、また一歩と近づいてくる。
「下がっててください、団長」
「い、いや、しかし、お前の腕では……」
リュカは戸惑うヴァレリィを背後に庇うと、オリガを見据えたまま剣を引き抜いた。
「貴様ごときが、私に敵うとでも思っているのか?」
「当たり前だ。オリガ。お前はまだ俺の質問に答えちゃいない、簡単に死んでくれるなよ」
「ハッ! 挑発しているつもりか? 滑稽としか言いようがないな。何を企んでいるのかは知らんが、貴様ごとき三下に何が出来るというのだ」
彼女は小馬鹿にするように頬を緩めると、わずかに腰を落とす。
それはゆっくりとした挙動。
落としたものを拾おうとするような、ごく自然な動き。
リュカが無意識に彼女のことを目で追ったその瞬間――オリガは唐突にその身体を宙に躍らせた。
しなる全身のバネ。
襲い掛かる肉食獣のごとき素早さ。
蹴りつけた地面で泥が跳ねあがり、凍り付いた飛沫が宙に弧を描く。
目線を下へと誘導されたせいで、上段からの攻撃に対して一拍の遅れが生じた。
充分にあったはずの間合いが、一瞬にして危険極まりない距離へと変わり、リュカは頬を引き攣らせる。
(くっ! 速ぇ!)
「旦那さまっ!」
「死ねぇぇえええええッ!」
ヴァレリィの悲鳴じみた声が背後で響き、オリガが雄叫びとともに力任せに剣を振り上げた。
甲高い風斬り音を立てながら冷たい刃が迫ってくる。
いかにも騎士らしい真っ直ぐな剣筋。
刀身に纏わりついた冷気が空気を凍てつかせて、青白い弧を描いた。
リュカは手にした剣を掲げて、それを迎え撃つ。
その姿を目にして、オリガの顔には獰猛な笑みが浮かんだ。
彼女の脳裏には、剣ごと真っ二つになるリュカの姿が描きだされているに違いなかった。
だが、そうはならなかった。
「なっ、なにぃ!?」
剣と剣がぶつかり合ったその瞬間、あまりの手ごたえの無さにオリガが驚愕の声を上げた。
風に流れる落ち葉のごとくに、リュカが斜めに掲げた剣、その刀身をオリガの斬撃がただ滑り落ちていく。
衝撃は完全に殺され、まるで導かれるかのように剣先がなすすべもなく地面を穿った。
凍り付く泥水。
砕けた氷の粒が、宙空へと跳ね上がる。
その白い飛沫の向こう側でオリガの頬が引き攣って歪むのを見た。
だがそれで終わりではない。
今度はリュカの剣がオリガの剣、その刃をなぞるように彼女の方へと迫っていく。
これが、これこそがリュカが父親から盗み取った秘剣――『堕ち蛍』
いかな剛剣であろうと自在に受け流し、そのまま反撃へと繋げる攻防一体の剣技。
暗闇ならば、刃と刃がこすれ合って火花が散り、まるで蛍が落ちるかのような軌跡を描くことからその名が付いた。
だが、
「くっ! このっ! 嘗めるなぁああ!」
驚きはしたものの、オリガとて凡百の騎士ではない。
彼女は獣のように声を上げると、躊躇なく剣を投げ捨てリュカの喉元めがけて手を伸ばす。
剣がダメなら組手。
首の骨をへし折ってそれで終わり。
そのはずだった。
だが、リュカは彼女の手首を掴むと、いとも簡単にそれを捩じり上げ、彼女は抵抗する暇もなくあっさりと地面に引き倒された。
慌てて手を振り払い、飛びのくオリガ。
彼女は自らの手を不思議そうに眺めた後、リュカに向かって声を荒げた。
「なんだ、貴様は! 一体何者なのだ!」
その問いかけに、乱れた襟元を整えながら、リュカはスッと目を細める。
「暗殺貴族」
その一言にヴァレリィは息を呑み、オリガは片眉を吊り上げた。
もちろん二人ともその名を知らぬ訳ではない。
だが実在するなどとは考えたことも無かった。
いわば、おとぎ話の登場人物が目の前に現れたようなものだ。
王家に仇なす者を断罪する恐ろしい暗殺者。
狙われたら最後、逃げ延びられる可能性は万に一つも無いと聞く。
貴族の子女なら一度は親に『良い子にしないと暗殺貴族がやってくるぞ』などと脅かされた経験があるはずだ。
「バカな! ハッタリもそこまでいけば滑稽としか言いようがないわ! 貴様のようなナヨナヨした男が暗殺貴族だと! バカも休み休みに言え!」
「滑稽なのはアンタの方だと思うがね。今ので格の違いもわからないようじゃ、話にもならねぇな」
「うるさい、黙れ!」
猛々しい物言いとは裏腹に、彼女の瞳は戸惑いを宿して不安げに揺らいでいた。
「さぁて……洗いざらい喋ってもらうぞ、首狩り!」
「くっ……!」
リュカが剣を構えて一歩足を踏み出したその瞬間、オリガは呻きながら腰の革袋に手を差し入れ、手の内になにかを握り締める。そして、大声を上げながら足を踏み鳴らした。
「貫け!」
途端に、リュカの背筋を何か冷たいものが走り抜ける。
ともかくその場に留まっていてはいけないと、何かが頭の中で激しく騒ぎ立てる。
「ちっ!」
舌打ちとともにリュカが慌てて飛びのこうとしたその瞬間、地面から鋭く尖ったものが突き出してくる。
それは人の背丈ほどもある氷柱。
これにはリュカも目を見開く。
顔を引き攣らせながら必死に身を捩ってそれを避けるも、氷柱は服の胸元を引き裂き、わずかに肉を抉って血が飛び散った。
「旦那さまっ!」
「大丈夫だ」
駆け寄ろうとするヴァレリィを手で制し、リュカはオリガを見据えて向き直る。
「そいつが氷河の結晶ってヤツかよ……」
オリガは答えない。ただ口の端をわずかに歪めただけ。
正直これはヤバい。予想外だった。
間合いに関係なく攻撃出来るというのなら、もはや迷っている暇はない。
一気に懐に飛び込んで勝負を決める。それしかない。
リュカはわずかに腰を落とし、一気にオリガの方へと駆け出した。
その速さにヴァレリィは目を丸くする。
それはそうだろう。人並み以下の身体能力しかない。そう思っていた男が、目で追うのも困難なほどの素早さを見せたのだ。
オリガは凄まじい勢いで迫りくる彼の姿を目で追いながら、再び足を踏み鳴らした。
「貫け!」
迫りくる尖端。
鋭い氷柱がリュカをめがけて突き出してくる。
彼は視界の中で大きくなっていく白い鋭角を凝視しながら、必死にサイドステップを踏んだ。
だが、彼がいくら素早くともやはり氷柱が頭を出してから飛んでいたのでは避けきれない。
「ぐっ!?」
切っ先が肩口を抉り、その冷たさと痛みに彼の身体がふらりとよろめいた。
無論、そんな隙を逃すオリガではない。
「これで終わりだ!」
オリガが足を踏み鳴らすのと同時に、リュカの顔面めがけて新たな氷柱が襲い掛かってくる。
軸足にズシリと自分の体重。態勢は崩れきっている。
(ちっ! しくじった!)
リュカが眼前へと迫ってくる鋭く尖った先端を見据えながら頬を歪めたその瞬間、彼の身体を力任せに突き飛ばす者があった。
「うぉおおおおおおおおぉぉぉ!」
獣のような甲高い叫び声が響いて、ガンッと鈍い音が響き渡る。
飛び散る氷片。砕け散る氷柱。
リュカの視界に飛び込んできたのはヴァレリィの背中。
彼女はリュカを突き飛ばすと、腕に嵌まったままの手枷を振りかぶって力まかせに氷柱を叩き折った。
だが、それで終わりではない。
彼女は犬歯をむき出しにして、勢いのままにオリガの方へと襲い掛かっていく。
「こ、このっ……!」
オリガはたじろぎながらも再び足を踏み鳴らそうとした。
だが、もはや手遅れ、ヴァレリィは彼女の胴へと飛びついて、勢い任せに彼女を地面へと押し倒した。
「くはっ!」
濁った吐息がオリガの口から零れ落ちる。
勢いよく地面へと叩きつけられた拍子に、オリガの手の中から白い宝玉が弾き飛ばされ、泥の上へと転がり落ちた。
「こ、この、アバズレがぁあああ!」
オリガが目を血走らせながら、どうにかヴァレリィを払いのけようとする。
だが既に眼前にはリュカの剣、その切っ先が突きつけられていた。
「終わりだ、首狩り!」
リュカがそう告げると、ヴァレリィが静かに顔を上げ、オリガを見据えた。
「オリガ……頼む、もう降参してくれ」
「くっ、こ、この……」
薄曇りの空から降り落ちる雨粒がオリガの頬を叩き、彼女は盛大にため息を吐くと、静かに目を閉じる。
「……私は負けていないからな。二人がかりは……卑怯だろうが」
オリガは不貞腐れるようにそう吐き捨てると、そのまま大の字に横たわった。
額に張り付いた赤い髪。
ヴァレリィは泥まみれの顔に、どこかホッとしたような表情を浮かべる。
だがリュカは剣を下ろしはしない。
横たわるオリガの面前に、剣を突きつけたまま。
彼女の表情を見る限り、恐らくもう暴れることはないだろうと、そう思ってはいる。
だからといって警戒するのをやめてしまえるほど、平穏な人生を送ってきた訳ではない。
御者台から飛び降りたヒラリィが、泥の中から白い宝玉を拾い上げてリュカへと頷いてみせる。
その白い宝玉が『氷河の結晶』で間違いないという事だろう。
それにしても危なかった。
ヴァレリィが飛び込んでこなければやられていたところだ。どうやら今の彼はツイているらしい。
リュカがふうと吐息を漏らした途端、
「旦那さまよ」
ヴァレリィが、彼を見上げて口を開いた。
「こんな時になんだが……」
「はい、なんです? 団長」
「それだ」
「はい?」
「お前はどうして自分の女だと言い放った者のことを団長などと呼ぶ。丁寧なのは結構だが、言葉遣いも余所余所しい。むしろオリガに対する物言いの方が自然ではないか! なぜ折角近づいた距離を遠ざけようとするのだ!」
「いや、だって、団長は団長で……」
「惚れた男に距離を取られる者の身にもなってみろ」
「へ? 惚れた……って」
「その、さっきのお前は……その、とても格好が良かった……と思う。いや、その前からその……だから、先ほどのように私のことはヴァレリィと……」
そのまま真っ赤になって顔を伏せる彼女の姿に、リュカが思わず頬を赤らめた途端、
「人の上でいちゃつくな」
オリガが憮然とした顔で唇を尖らせた。
降り注ぐ雨粒が小枝を揺らす森の中。
恥じらうような空気が流れ、リュカとヴァレリィはそれぞれに照れ笑いを浮かべながら明後日の方角へ目を向ける。
そんな二人の姿にオリガが、「ちっ!」と舌打ちした途端、馬が蹄を踏み鳴らして、大型馬車が唐突に動き出した。
大型の獣が身を捩るかのような鈍重な動き。
泥の中に埋もれていた車輪がギシギシと音を立てて回り始めた。
オリガの敗北を目にして、怖じ気づいた騎士が逃げ出し始めたのだ。
御者台まで会話が聞こえていたかどうかはわからないが、リュカの正体を知った可能性のある者を見逃す訳にはいかない。
「ミリィ! ヒラリィ! 追え!」
「しゃーなしやな」
「ほんま、人使いが荒いねんから」
双子は愚痴を零しながらも馬に鞭を入れ、大型馬車の後を追い始める。
逃げる方は必死なのだろう、目一杯に速度を上げて遠ざかっていく。
だが、そもそも荷馬車と大型馬車では車体重量が違い過ぎる。
決して逃げ切れるものではない。あっちは彼女たちに任せておいて大丈夫だろう。
ヴァレリィはオリガを組み敷いたまま、その横顔を眺めながら静かに囁きかけた。
「……教えてくれ、オリガ。姫殿下はどうしてこんなことをなさったのだ」
オリガは弱り切った表情でヴァレリィから再び目を逸らすと、ボソボソと消え入りそうな声音で答えた。
「詳しいことは知らん。姫殿下から直接伺った訳ではないが、娼婦以下にまでなり下がった高貴な女の、愛した男への復讐なのだと……私はそう思っている」
「男への復讐?」
おかしな言い回しである。
アンベール卿殺害の犯人をヴァレリィだと思い込んだ姫殿下の復讐だと、リュカはそう推測していたのだ。
「ヴァレリィ。姫殿下は貴様のことなどどうでも良いとそうおっしゃっておられた。ただの手段なのだと。あのお方は公爵家そのものをこの世から消し去りたいのだと、そうおっしゃっておられたのだ」
リュカはヴァレリィの方へと目を向ける。
彼女は少なからずショックを受けている様子ではあるが、同時に今一つピンと来ていないようにも見えた。
だが、今の話の通りなら全ての辻褄が合う。
すなわち、ヴァレリィが王族殺しの罪を犯すことで誅滅される公爵家の九族の中に、姫殿下の愛した男がいる。
つまりそういうことだ。
「姫殿下も男のせいでその身を誤られた。所詮、男など下劣な欲望に手足が生えただけの醜い生き物なのだ。男の愛など欲望の別名でしかない。愛だ恋だとのぼせ上がっているようだが、貴様もいずれその男のせいで酷い目に遭うぞ」
オリガのその物言いにヴァレリィが不愉快げに頬を歪めたところで、今度は遠くの方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
方角そのものはミリィたちが向かったのと同じ北の方角。
だが、車輪の音は全く聞こえてこない。
おそらく単騎の騎馬、その馬蹄の響き。
「旦那さま……」
「……ああ」
リュカが警戒心も露わに身構えながら蹄の音が響いてくる方角を凝視すると、白く煙る靄の中、銀糸のような雨だれの向こう側から、こちらへと駆けてくる黒毛の馬が見えた。
その背に跨がっているのは金色の甲冑を纏った大男。背中には自分の背丈ほどもある大剣を背負っている。
「あれは……」