「気分はどうだ」

 オリガのその問いかけに、ヴァレリィは無言で応じた。

 キャビンの中、どこかやつれたような顔つきの彼女は、まんじりともせずに誰も座っていない向かいの座席、その座面の縫い目を見つめている。

「ふっ、またあの男の事を考えているのか? まさか、助けに来てくれるとでも思っているのではあるまいな」

 ヴァレリィは静かに瞑目(めいもく)すると、自嘲するように吐息を漏らした。

「……来る理由が無いではないか。ただでさえ、あやつは私との婚姻を拒んでいたのだ。その上大人しくしてさえいれば、姫殿下殺しの罪に連座させられずに済むのだからな。誰が好き好んでこんな女を救いにくるというのだ」

「ハッ! くだらぬ男だな。しかし残念といえば残念だ。護送中の咎人(とがびと)を奪い返しにくるようであれば、堂々と叩き斬ることもできるのだがな」

「……約束したはずだぞ。あやつには手を出さぬと」

 おどけるように肩をすくめるオリガを、ヴァレリィがジロリと睨みつける。

「貴様が大人しく従っている間は……な」

「……わかっている」

 ヴァレリィが下唇を噛むと、オリガはニヤついた笑みを浮かべて、彼女に顔を突きつけてきた。

「本当にわかっておるのか? 救われるのはあの男一人だ。公爵家の滅亡は避けられぬのだぞ」

「……わかっていると、そう言っている」

 ヴァレリィの言葉尻に怒気が纏わりつくのを耳にして、オリガは彼女の顎を掴んだ。

「いや、わかっておらぬようだな、その態度は。正直に告白してしまえば、私は貴様のことを友だと思ったことなど一度も無い。一度もだ。ずっと貴様の下風に立たされてきたことが悔しくてならなかったのだ。今、私の心がどれだけ浮きたっているかわかるか? 貴様のこの惨めな姿にな!」

 その声は、次第に苛烈な響きを帯び、顎を掴む指に力がこもりはじめる。

「あの男を助けたいと望むのならば、無様に私に(すが)れ、惨めに私に(こび)びろ!」

「……わかっている」

「あん? なんだって? ちゃんとわかるように言え。教えたであろうが!」

 オリガが指先に力を籠め、ヴァレリィは喉の奥から絞り出すように声を漏らした。

「おねがい……します、オリガさま」

 項垂(うなだ)れるヴァレリィ。オリガは満足気に頷くと、彼女の顎から指を話した。

「くっ、ふはっ! ふ、ふふ、はははははは!」

 ヴァレリィは幼年学校時代から、オリガが自分ことをライバル視していることには気づいていた。だが、まさかここまで劣等感を(こじ)らせているとは思ってもみなかった。

「城砦を出る前に述べた通り、この黒曜の森を抜けたところで馬車を停める。先触れとして騎士の大半を王都へ向かわせ、残った者どもをブチ殺して……我々は姿を消す。世間は喰人鬼(しよくじんき)ヴァレリィが、騎士たちを殺して逃亡したと、そう思うはずだ。そのまま事実は闇の中。貴様を奴隷として他国の変態貴族に売り渡した後、私は命からがら喰人鬼(しよくじんき)から逃れたフリをして王都に戻る」

「……約束は守ってくれるのだろうな」

「ああ、騎士に二言はない。もはやあんなウジ虫のことなどどうでも良いのだからな。ちゃんと国王陛下への書簡は先触れの兵士に持たせるとも。それよりも己の不幸を見苦しく嘆き悲しんで欲しいものだがな。お前はこれから死ぬまで変態貴族の慰みものとして生きていかねばならぬのだからな」

「……運命だ。それも受け入れよう」

 ヴァレリィがそう返事をした途端、オリガが不満げに口を尖らせる。

「つまらん。自分を犠牲にしてでも助けたいなどとは……随分と惚れたものだな。貴様を絶望させようと思えば、やはりあの男を殺すべきか」

「違う、そ、そうじゃない! やめてくれ! やめて……くださ、い」

 ヴァレリィの声が弱々しく消え入りそうになったところで、唐突に御者台とキャビンの間の小窓が開いて、御者を務める騎士が顔を覗かせた。

「オリガさま! 背後から馬車が一両、真っ直ぐにこちらに向かって参ります!」

 良いところを邪魔されたとばかりに、オリガは舌打ちして窓から馬車の後ろを覗き込む。

 そして再びヴァレリィに顔を突きつけると、いやらしく口元を歪めながら、こう告げた。

「ヴァレリィ……約束とはいえ、あの男が自ら殺されにきた場合は殺しても仕方があるまい」


 ◇ ◇ ◇


「ほな、手はず通りいくでぇ! ぼんぼん、手綱(たづな)は任せた! なんぼ馬に乗れん言うたかて、真っ直ぐ走らせることぐらいは出来るやろ!」

 ミリィは遥か前方を行く馬車と騎士たちの姿を見据えながらそう言い放つ。

 一方、荷台のリュカは緊張の面持ちで腕を伸ばし、御者台に座る双子の間から手綱(たづな)を握った。

「その真っ直ぐ走らせるってのが難しいんだろうが!」

 前を行く大型馬車(キヤリツジ)に速度を落とす気配は無い。

 だが、そのすぐ後ろを追走する騎士たちは、既にこちらに気付いているようだ。その証拠に、彼らは徐々に速度を落とし始めていた。

「来るで!」

 ヒラリィが声を上げるのとほぼ同時に、騎士たちは一斉に馬首を返し、リュカたちの方へと突っ込んでくる。

 視界で立ち昇る砂煙。馬蹄の響きが地鳴りのごとくに轟き、騎士たちの上げる雄叫びが次第に近づいてくる。

「お、おい!」

「やかましぃ! まだやッ!」

 顔を引き()らせるリュカを、ミリィが怒鳴りつける。

 距離三十ザール。二十ザール。遂に十ザールを越えて、先頭の騎士が剣を振り上げた、まさにその瞬間――。

「入った!」

 ミリィが大声を上げた。

 距離十ザール。

 それは即ち、この双子にとって必殺の距離。

 二人が両手をスカートの中に差し入れて引き抜くと、その十本の指の間には、鋭く太い鉄の針が挟み込まれていた。

「「食らいさらせッ! こんんのぉお、ボケぇええええ!」」

 品の欠片も無い声を上げて二人が腕を振るうと、鋭い風斬り音が空気を削る。

 彼女たちの手から放たれた合計十六本の鉄針が、一斉に馬上の騎士たちへと襲い掛かった。

 途端に響き渡る悲鳴。赤い血のアーチを描きながら、騎士たちが次々と馬上から投げ出されていく。

 双子の手から放たれた鉄針は、兜と甲冑のわずかな隙間、騎士たちの喉元を寸分違わず貫き、彼らの首の骨を砕いたのだ。

「「もういっちょ!」」

 双子が更に鉄針を放つと、後続の騎士たちを乗せた馬が突然足をもつれさせて、左右の木々の間へと突っ込みはじめる。

 今度は馬の脚を貫いたのだ。

 次々に振り落とされる騎士たち。馬は前のめりに倒れ、落馬した彼らをその巨体で容赦なく圧し潰す。一瞬にして阿鼻叫喚の地獄が、そこに出現した。

「うひぃ……ひでぇもんだ」

 もつれ合って転がる騎士と馬、その間を走り抜けながらリュカは首をすくめる。

 ミリィは背後で遠ざかっていく馬と騎士の死体の山を振り返って、追ってくる者がいないことを確認すると、リュカの手から手綱(たづな)をひったくった。