甲冑の硬質な足音が階段を下りてくる。
オリガがリュカの独房を訪ねて来たのは、随分時間も経って夕刻のこと。
その時、彼は珍しく頭を使い過ぎたせいか、こめかみに鈍い痛みを覚えていた。
相変わらず糸口の掴めぬまま、考えれば考えるほどに全ての現象が、ヴァレリィが『喰人鬼』だという結論へと収束する。
認めたくはないが、リュカは確かに焦っていた。
独房の前で止まった足音は二人分。
リュカが顔を上げれば、カンテラの薄明かりの下に手枷を嵌められ、粗末な麻の貫頭衣を着せられたヴァレリィの姿が浮かび上がる。
オリガは犬の散歩でもするかのように彼女の腰に結んだ綱を曳きながら現れ、鉄格子の向こう側から、石壁にもたれ掛かるリュカを虫けらでも眺めるような目で見下ろした。
不愉快げに頬を歪めるリュカ。
ヴァレリィは目を閉じたまま。
オリガは、そんな二人の様子を勝ち誇ったかのように見回して、口を開いた。
「独房の居心地はどうだ?」
「思ったより悪くない。日がな一日寝っ転がってても、文句一つ言われないってのが最高だね」
元々が怠惰なリュカにしてみれば半ば本心なのだが、強がりだと思ったのだろう、オリガは口元に嘲るような薄笑いを浮かべた。
「気に入ってもらえたならなによりだ。もうしばらくはそこに居てもらうことになるからな」
「あ? なんだと?」
「我々は今夜、ここを出発し、この女を王都に移送する」
「……取り調べはもういいのかよ」
「ああ、これ以上は何も必要ない。全て認めたのだからな、この女が。自分が姫殿下を弑殺したのだとな」
これにはさすがに、リュカも目を見開いた。
「馬鹿げてる! そんなはずある訳ないだろうが!」
ヴァレリィが姫殿下を殺した。その可能性は微塵もない。それは、それだけは有り得ないのだ。
「団長! なんとか言ってください!」
リュカが声を荒げてもヴァレリィは目を閉じて俯いたまま。
ただその指先は、貫頭衣の裾をぎゅっと握ったままかすかに震えている。
(一体、何があった? お前は脅しや拷問に屈するようなタマじゃないだろ!)
「ふっ、良心の呵責に耐えかねたのであろう」
「お前には聞いてない!」
軽い口調で口を挟むオリガを、リュカは目を剥いて睨みつける。
彼女は別段怯える様子も怒る様子もなく、ただやれやれと肩をすくめた。
「口の利き方には気をつけろ、ろくでなし。だが私は今非常に機嫌がいい。許してやる。それに安心しろ。心配せずとも、貴様の身の安全は保障してやる」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味だ。どうせ貴様がそれほどまでにこの女の無実にこだわるのは、我が身可愛さゆえなのだろう? 貴様をこの女の罪に連座させられぬように取り計らってやろうというのだ。秘密裏に国王陛下に接触し、姫殿下の遺言として、お前たちの婚姻を最初から無かったことにしていただく。無理筋ではあるが、国王陛下は姫殿下を大層可愛がっておられたからな。その遺言となれば無碍にはなさるまい」
その瞬間、リュカの双眸に激しい怒りの色が宿った。
「てめぇ! 俺を人質にしやがったな!」
「人聞きの悪いことを言うな。これはこの女が望んだことだ。私はそれに善意で応えてやろうというのだ。一度は友と呼んだ女なのだからな。この聞き分けの悪い男にもわかるように言ってやれ、ヴァレリィ」
オリガはヴァレリィの腰に巻きつけた縄を引き寄せ、薄笑いを浮かべながら、これ見よがしに彼女の耳元に唇を寄せる。
ヴァレリィに抵抗する素振りはない。
彼女は静かに瞼を開いて、リュカの方へと視線を向けた。
諦めきった目、いつもの彼女からは想像も出来ぬほど弱々しく力のない瞳が、リュカを見ていた。
「……すまない。姫殿下は私が殺した。私が殺したのだ」
「嘘だ!」
「聞いてくれ! お、お前との婚姻を無かったことにするのは、別にお前のためでは無いのだ。ただでさえ姫殿下を弑した大悪人として名を汚すことになるのに、そ、その上、お前のような愚か者の妻であったと蔑まれるのは……耐えがたいのだ、私は。軽蔑してくれていい。私はそんな女だ。とんでもない女に付きまとわれたと、後々笑い話にでもしてくれればいい。……それでいいのだ」
「そんな話を信じる訳ないだろうが! 俺は……」
「頼む! 聞き分けてくれ!」
「馬っ鹿野郎! 誰がそんなこと……!」
思わず声を荒げるリュカ。
だが、その声を遮るようにヴァレリィは大声を上げた。
「しつこい男は嫌いだ! 私はお前と別れたいのだ! 最初からお前のことなど好きでも何でもないのだ! 顔も! 顔も見たくない!」
血を吐くような叫び声が地下牢の壁に反響して、痛いほどの静寂の内へと溶けていく。
荒い呼吸、静かに肩を上下させるヴァレリィ。
オリガがその肩に手を置いて、リュカへと勝ち誇ったような顔を向けた。
「はっ! しつこい男はみっともないぞ。ともかく、貴様には全てが終わるまでそこにいてもらう。なあに、心配するな。それほど時間が掛かる訳ではない。この女についてはもはや取り調べも必要ないのだからな。王都に辿り着けば、その日の内にも処刑は執行されることだろう」
オリガがリュカの独房を訪ねて来たのは、随分時間も経って夕刻のこと。
その時、彼は珍しく頭を使い過ぎたせいか、こめかみに鈍い痛みを覚えていた。
相変わらず糸口の掴めぬまま、考えれば考えるほどに全ての現象が、ヴァレリィが『喰人鬼』だという結論へと収束する。
認めたくはないが、リュカは確かに焦っていた。
独房の前で止まった足音は二人分。
リュカが顔を上げれば、カンテラの薄明かりの下に手枷を嵌められ、粗末な麻の貫頭衣を着せられたヴァレリィの姿が浮かび上がる。
オリガは犬の散歩でもするかのように彼女の腰に結んだ綱を曳きながら現れ、鉄格子の向こう側から、石壁にもたれ掛かるリュカを虫けらでも眺めるような目で見下ろした。
不愉快げに頬を歪めるリュカ。
ヴァレリィは目を閉じたまま。
オリガは、そんな二人の様子を勝ち誇ったかのように見回して、口を開いた。
「独房の居心地はどうだ?」
「思ったより悪くない。日がな一日寝っ転がってても、文句一つ言われないってのが最高だね」
元々が怠惰なリュカにしてみれば半ば本心なのだが、強がりだと思ったのだろう、オリガは口元に嘲るような薄笑いを浮かべた。
「気に入ってもらえたならなによりだ。もうしばらくはそこに居てもらうことになるからな」
「あ? なんだと?」
「我々は今夜、ここを出発し、この女を王都に移送する」
「……取り調べはもういいのかよ」
「ああ、これ以上は何も必要ない。全て認めたのだからな、この女が。自分が姫殿下を弑殺したのだとな」
これにはさすがに、リュカも目を見開いた。
「馬鹿げてる! そんなはずある訳ないだろうが!」
ヴァレリィが姫殿下を殺した。その可能性は微塵もない。それは、それだけは有り得ないのだ。
「団長! なんとか言ってください!」
リュカが声を荒げてもヴァレリィは目を閉じて俯いたまま。
ただその指先は、貫頭衣の裾をぎゅっと握ったままかすかに震えている。
(一体、何があった? お前は脅しや拷問に屈するようなタマじゃないだろ!)
「ふっ、良心の呵責に耐えかねたのであろう」
「お前には聞いてない!」
軽い口調で口を挟むオリガを、リュカは目を剥いて睨みつける。
彼女は別段怯える様子も怒る様子もなく、ただやれやれと肩をすくめた。
「口の利き方には気をつけろ、ろくでなし。だが私は今非常に機嫌がいい。許してやる。それに安心しろ。心配せずとも、貴様の身の安全は保障してやる」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味だ。どうせ貴様がそれほどまでにこの女の無実にこだわるのは、我が身可愛さゆえなのだろう? 貴様をこの女の罪に連座させられぬように取り計らってやろうというのだ。秘密裏に国王陛下に接触し、姫殿下の遺言として、お前たちの婚姻を最初から無かったことにしていただく。無理筋ではあるが、国王陛下は姫殿下を大層可愛がっておられたからな。その遺言となれば無碍にはなさるまい」
その瞬間、リュカの双眸に激しい怒りの色が宿った。
「てめぇ! 俺を人質にしやがったな!」
「人聞きの悪いことを言うな。これはこの女が望んだことだ。私はそれに善意で応えてやろうというのだ。一度は友と呼んだ女なのだからな。この聞き分けの悪い男にもわかるように言ってやれ、ヴァレリィ」
オリガはヴァレリィの腰に巻きつけた縄を引き寄せ、薄笑いを浮かべながら、これ見よがしに彼女の耳元に唇を寄せる。
ヴァレリィに抵抗する素振りはない。
彼女は静かに瞼を開いて、リュカの方へと視線を向けた。
諦めきった目、いつもの彼女からは想像も出来ぬほど弱々しく力のない瞳が、リュカを見ていた。
「……すまない。姫殿下は私が殺した。私が殺したのだ」
「嘘だ!」
「聞いてくれ! お、お前との婚姻を無かったことにするのは、別にお前のためでは無いのだ。ただでさえ姫殿下を弑した大悪人として名を汚すことになるのに、そ、その上、お前のような愚か者の妻であったと蔑まれるのは……耐えがたいのだ、私は。軽蔑してくれていい。私はそんな女だ。とんでもない女に付きまとわれたと、後々笑い話にでもしてくれればいい。……それでいいのだ」
「そんな話を信じる訳ないだろうが! 俺は……」
「頼む! 聞き分けてくれ!」
「馬っ鹿野郎! 誰がそんなこと……!」
思わず声を荒げるリュカ。
だが、その声を遮るようにヴァレリィは大声を上げた。
「しつこい男は嫌いだ! 私はお前と別れたいのだ! 最初からお前のことなど好きでも何でもないのだ! 顔も! 顔も見たくない!」
血を吐くような叫び声が地下牢の壁に反響して、痛いほどの静寂の内へと溶けていく。
荒い呼吸、静かに肩を上下させるヴァレリィ。
オリガがその肩に手を置いて、リュカへと勝ち誇ったような顔を向けた。
「はっ! しつこい男はみっともないぞ。ともかく、貴様には全てが終わるまでそこにいてもらう。なあに、心配するな。それほど時間が掛かる訳ではない。この女についてはもはや取り調べも必要ないのだからな。王都に辿り着けば、その日の内にも処刑は執行されることだろう」