「はぁああああぁ、酷い目にあった……」
リュカは屋敷に戻った途端、腰の剣帯を外しもせずにソファーの上へと倒れこんだ。
「ちょっと! 坊ちゃま、横になるにしても、せめて着替えぐらい済ませてからにしてくださいまし。ソファーが汚れてしまいます!」
「まあまあ、お兄さまはとてもお疲れみたいですから」
銀縁眼鏡を押し上げながら、批難じみた声を上げるメイド長を、リュカの幼い妹――シャルロットが宥める。
幼く目の不自由な彼女にそう言われてしまえば、普段リュカにだけ当たりのキツいメイド長も、それ以上はもう何も言えない。
「はぁ……仕方ありませんね」
不本意げなメイド長のため息をよそに、リュカは横になったまま、気だるげに周囲を見回した。
居間には家族が勢揃い。どうやら夕食を終えた直後らしく、父と母、姉に妹が、食後のお茶を楽しんでいる際中だったようだ。
「わはは! その分では大分絞られたようだな」
「まったく、ネチネチいたぶりやがってさ。そりゃ嫁の貰い手もねーわ」
面白がるような父親の物言いに、リュカは思わず唇を尖らせる。
結局あの後、一刻どころかそれ以上もいたぶられ続け、おかげで夕食の時間にも間に合わなかったのだ。
運が悪いのは今に始まったことではないが、あのヒステリー女が上司だということが最大の不運だと、リュカは心底そう思う。
「にゃはは、いやー悪いねぇ、リュー坊」
ソファーの背後からリュカの顔を覗き込んできたのは、姉のエミリエンヌ。
適当に縛った黒髪に、整ってはいるが化粧っけのない顔。首回りのよれよれにたわんだ短衣が、貴族令嬢とは思えないだらしなさを醸し出している。
「あ、ここにも貰い手の無いのがいた」
「……ぶん殴るよ?」
彼女もヴァレリィと同じく十八歳。
貴族の子女は早い者なら十二歳、遅くとも十六歳ぐらいまでには大抵輿入れか婿取りを済ませる。
そんな中で十八にもなって独身とくれば、立派な行き遅れとしか言いようがない。
ところが実は彼女もヴァレリィも、決してモテないという訳ではない。
むしろ逆。二人とも引っ切り無しに縁談を持ちかけられては、それを袖にし続けているのだ。
ヴァレリィはあのキツい性格を知らなければ絶世の美女。エミリエンヌも外面だけは素晴らしく、家の中と外ではほぼ別人だと言っても良い。
「まぁ、あっちはどうか知らないけど、姉ちゃんの場合、結婚相手に求める条件が特殊すぎるからな」
リュカがそうフォローすると、エミリエンヌがうんうんと頷いた。
「そうそう、そういうこと! 暗殺貴族ヴァンデール子爵家に婿入りできる男なんてそうそういないんだから、しょーがないよねー」
名門とは言わないまでも名籍の古い家門であるヴァンデール子爵家には、表には出せない裏の顔がある。
それが、暗殺貴族。
彼らは代々王家の走狗として、主に仇なすものを闇に葬ってきた暗殺者の一族なのだ。
「それはそうと姉ちゃん、くだらないドジ踏むのは勘弁してくれよ」
突然、リュカが思い出したようにジトリとした目を向けると、エミリエンヌはバツが悪そうに頭を掻いた。
「あはは、ごめーん。いやーまさかウチの子たちに食べさせ終わる前にさ、誰か来るなんて思わないじゃない。あんな夜中にさ」
実は今回、王太子バスティアンの指示で財務大臣のアンベールを始末したのは狼使いの姉、エミリエンヌである。
実際、アンベールはやり過ぎた。巨額の横領を働きながらも、余りにも巧みな手口で悪事を隠蔽し、証拠を掴ませなかったのだ。
通常なら投獄の上、財産の没収で贖えるような罪なのだが、その才覚が仇となって暗殺貴族に命を奪われることになったのである。
近頃、世間を騒がせている首狩りが次に狙っているのはアンベール卿だという噂を流し、王太子がそれならばと、善意に見せかけて騎士団を警護につける。
そして、リュカの警護の番が来たらあえて持ち場を離れ、その間にエミリエンヌが屋敷に侵入して狼たちにアンベールを始末させるという段取りになっていたのだ。
「こんなことなら、素直に俺が殺った方が良かったんじゃねーの?」
「剣で始末すればいくら味噌っかすを演じていても、護衛に従事していたお前が真っ先に疑われるだろうが。蟻の一穴から堤が瓦解するという喩えもあるのだ。ことは慎重に運ばねばならぬ」
父親のジョナタンが重々しくそう告げると、リュカは呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。
「で、ドジ踏んでりゃ世話ねぇっての」
「そんな意地悪言わないでよ。別にアタシが殺ったってバレた訳じゃないんだからさぁ」
そのまま血痕だけを残して、アンベールは行方不明――と、そういう段取りだったのだが、予想外の出来事が起こった。
夜中だというのに女が一人、アンベールの寝室に忍び込んできたのである。
アンベールの奥方とは別の女、いわゆる情婦だ。
彼女がけたたましい悲鳴を上げたおかげで、エミリエンヌは処理している途中の死体を放り出し、慌てて逃げ出す羽目に陥ったのだ。
「犯人は、『喰人鬼』って呼ばれることになったってさ」
「えー、なにそれ、ダサすぎ。あはは!」
「笑いごとじゃねーぞ、姉ちゃん。おかげでほんっとに酷い目に遭ったんだからな!」
リュカがそう言って唇を尖らせると、母親のブリジットが大きく頷く。
「そうですよ、エミリ。笑いごとではありません。失敗は失敗なのですから、ちゃんと罰を受けてもらいますからね」
「ええっ!? マヂで?」
思わず身を固くするエミリエンヌに、ブリジットはニコリと微笑みかけた。
「ええ、もちろん。とりあえず罰としてここから一ヶ月、『入浴はパパと一緒の刑』に処します」
「えぇーっ! ちょ、ちょっと! ママ! アタシもう十八だよ、絶対ヤだよッ!」
「……そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」
傷ついた顔をする父親に構うことなく、エミリエンヌは悲鳴じみた声を上げる。
「どこの世界にパパとお風呂に入る成人済みの娘がいるってのよ! イヤ! 絶対にイヤよ!」
「イヤじゃないと、罰にならないでしょう?」
ブリジットがそう窘めると、幼い妹のシャルロットが話に割り込んできた。
「そうですよ、お姉さま。ワタクシだって、我慢してパパと一緒に入ってるんですからね」
「……我慢して」
幼い末娘の悪意の無い一言が父親を直撃。彼はがくりと肩を落とす。そんな父親を尻目に、母親は「そういえば」と、思い出したかのようにリュカの方へと顔を向けた。
「リュカ。あなた、明日は非番でしたわよね」
「うん、そうだけど……なに?」
なにか、面倒な用事を押し付けられるのではないかと身構えるリュカ。
そんな彼に、母親はやけに楽しげな様子で、こう告げた。
「明日は来客がありますから、遊びに出かけたりしちゃダメよ」
含みのある微笑みを浮かべる母親に、リュカは怪訝そうに眉根を寄せる。
すると、どうにか立ち直った父親が一つ咳払いをして、やけに重々しくこう告げた。
「客というのは……おまえの伴侶だ」
「…………はい?」
「今日、お前の公爵家への婿入りが決まったのだ。正式なお披露目は遠征から戻ってきてからという事にはなるが、先方たってのご希望でな。本日のうちに籍を入れておいた」
「はぁああああああぁぁぁっ!?」
これには、さすがにリュカもソファーから飛び起きる。
それはそうだ。婚姻の申し込みをすっ飛ばして婿入りが決定。それどころか既に籍が入っているというのだから、驚かない方がおかしい。
「ちょ! ちょっと待て! 勝手なことすんじゃねぇ! クソ親父!」
「馬鹿者! 我がヴァンデール家はエミリエンヌとその婿が継ぐのだから、お前はいずれどこかに婿入りせねばならんのだ。相手は超名門の大貴族だぞ。それが是非にと、お前を名指しで指名してこられたのだ。こんな機会は滅多にあることではないだろうが!」
「ムチャクチャだ! 俺の意志はどうなるんだよ!」
「貴族の子弟にそんな自由があるとおもうか? ともかくお前に拒否権はない! 明日の昼過ぎにはお越しになるから、くれぐれも粗相のないように!」
顔も知らぬ相手との婚礼など、貴族社会においてはよくある話。
だが自分の身に降りかかってくるとなると話は別だ。
「嘘だろ……」
思わず項垂れるリュカの頭を、幼い妹と半笑いの姉が、「よしよし」と慰めるように撫でた。
リュカは屋敷に戻った途端、腰の剣帯を外しもせずにソファーの上へと倒れこんだ。
「ちょっと! 坊ちゃま、横になるにしても、せめて着替えぐらい済ませてからにしてくださいまし。ソファーが汚れてしまいます!」
「まあまあ、お兄さまはとてもお疲れみたいですから」
銀縁眼鏡を押し上げながら、批難じみた声を上げるメイド長を、リュカの幼い妹――シャルロットが宥める。
幼く目の不自由な彼女にそう言われてしまえば、普段リュカにだけ当たりのキツいメイド長も、それ以上はもう何も言えない。
「はぁ……仕方ありませんね」
不本意げなメイド長のため息をよそに、リュカは横になったまま、気だるげに周囲を見回した。
居間には家族が勢揃い。どうやら夕食を終えた直後らしく、父と母、姉に妹が、食後のお茶を楽しんでいる際中だったようだ。
「わはは! その分では大分絞られたようだな」
「まったく、ネチネチいたぶりやがってさ。そりゃ嫁の貰い手もねーわ」
面白がるような父親の物言いに、リュカは思わず唇を尖らせる。
結局あの後、一刻どころかそれ以上もいたぶられ続け、おかげで夕食の時間にも間に合わなかったのだ。
運が悪いのは今に始まったことではないが、あのヒステリー女が上司だということが最大の不運だと、リュカは心底そう思う。
「にゃはは、いやー悪いねぇ、リュー坊」
ソファーの背後からリュカの顔を覗き込んできたのは、姉のエミリエンヌ。
適当に縛った黒髪に、整ってはいるが化粧っけのない顔。首回りのよれよれにたわんだ短衣が、貴族令嬢とは思えないだらしなさを醸し出している。
「あ、ここにも貰い手の無いのがいた」
「……ぶん殴るよ?」
彼女もヴァレリィと同じく十八歳。
貴族の子女は早い者なら十二歳、遅くとも十六歳ぐらいまでには大抵輿入れか婿取りを済ませる。
そんな中で十八にもなって独身とくれば、立派な行き遅れとしか言いようがない。
ところが実は彼女もヴァレリィも、決してモテないという訳ではない。
むしろ逆。二人とも引っ切り無しに縁談を持ちかけられては、それを袖にし続けているのだ。
ヴァレリィはあのキツい性格を知らなければ絶世の美女。エミリエンヌも外面だけは素晴らしく、家の中と外ではほぼ別人だと言っても良い。
「まぁ、あっちはどうか知らないけど、姉ちゃんの場合、結婚相手に求める条件が特殊すぎるからな」
リュカがそうフォローすると、エミリエンヌがうんうんと頷いた。
「そうそう、そういうこと! 暗殺貴族ヴァンデール子爵家に婿入りできる男なんてそうそういないんだから、しょーがないよねー」
名門とは言わないまでも名籍の古い家門であるヴァンデール子爵家には、表には出せない裏の顔がある。
それが、暗殺貴族。
彼らは代々王家の走狗として、主に仇なすものを闇に葬ってきた暗殺者の一族なのだ。
「それはそうと姉ちゃん、くだらないドジ踏むのは勘弁してくれよ」
突然、リュカが思い出したようにジトリとした目を向けると、エミリエンヌはバツが悪そうに頭を掻いた。
「あはは、ごめーん。いやーまさかウチの子たちに食べさせ終わる前にさ、誰か来るなんて思わないじゃない。あんな夜中にさ」
実は今回、王太子バスティアンの指示で財務大臣のアンベールを始末したのは狼使いの姉、エミリエンヌである。
実際、アンベールはやり過ぎた。巨額の横領を働きながらも、余りにも巧みな手口で悪事を隠蔽し、証拠を掴ませなかったのだ。
通常なら投獄の上、財産の没収で贖えるような罪なのだが、その才覚が仇となって暗殺貴族に命を奪われることになったのである。
近頃、世間を騒がせている首狩りが次に狙っているのはアンベール卿だという噂を流し、王太子がそれならばと、善意に見せかけて騎士団を警護につける。
そして、リュカの警護の番が来たらあえて持ち場を離れ、その間にエミリエンヌが屋敷に侵入して狼たちにアンベールを始末させるという段取りになっていたのだ。
「こんなことなら、素直に俺が殺った方が良かったんじゃねーの?」
「剣で始末すればいくら味噌っかすを演じていても、護衛に従事していたお前が真っ先に疑われるだろうが。蟻の一穴から堤が瓦解するという喩えもあるのだ。ことは慎重に運ばねばならぬ」
父親のジョナタンが重々しくそう告げると、リュカは呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。
「で、ドジ踏んでりゃ世話ねぇっての」
「そんな意地悪言わないでよ。別にアタシが殺ったってバレた訳じゃないんだからさぁ」
そのまま血痕だけを残して、アンベールは行方不明――と、そういう段取りだったのだが、予想外の出来事が起こった。
夜中だというのに女が一人、アンベールの寝室に忍び込んできたのである。
アンベールの奥方とは別の女、いわゆる情婦だ。
彼女がけたたましい悲鳴を上げたおかげで、エミリエンヌは処理している途中の死体を放り出し、慌てて逃げ出す羽目に陥ったのだ。
「犯人は、『喰人鬼』って呼ばれることになったってさ」
「えー、なにそれ、ダサすぎ。あはは!」
「笑いごとじゃねーぞ、姉ちゃん。おかげでほんっとに酷い目に遭ったんだからな!」
リュカがそう言って唇を尖らせると、母親のブリジットが大きく頷く。
「そうですよ、エミリ。笑いごとではありません。失敗は失敗なのですから、ちゃんと罰を受けてもらいますからね」
「ええっ!? マヂで?」
思わず身を固くするエミリエンヌに、ブリジットはニコリと微笑みかけた。
「ええ、もちろん。とりあえず罰としてここから一ヶ月、『入浴はパパと一緒の刑』に処します」
「えぇーっ! ちょ、ちょっと! ママ! アタシもう十八だよ、絶対ヤだよッ!」
「……そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」
傷ついた顔をする父親に構うことなく、エミリエンヌは悲鳴じみた声を上げる。
「どこの世界にパパとお風呂に入る成人済みの娘がいるってのよ! イヤ! 絶対にイヤよ!」
「イヤじゃないと、罰にならないでしょう?」
ブリジットがそう窘めると、幼い妹のシャルロットが話に割り込んできた。
「そうですよ、お姉さま。ワタクシだって、我慢してパパと一緒に入ってるんですからね」
「……我慢して」
幼い末娘の悪意の無い一言が父親を直撃。彼はがくりと肩を落とす。そんな父親を尻目に、母親は「そういえば」と、思い出したかのようにリュカの方へと顔を向けた。
「リュカ。あなた、明日は非番でしたわよね」
「うん、そうだけど……なに?」
なにか、面倒な用事を押し付けられるのではないかと身構えるリュカ。
そんな彼に、母親はやけに楽しげな様子で、こう告げた。
「明日は来客がありますから、遊びに出かけたりしちゃダメよ」
含みのある微笑みを浮かべる母親に、リュカは怪訝そうに眉根を寄せる。
すると、どうにか立ち直った父親が一つ咳払いをして、やけに重々しくこう告げた。
「客というのは……おまえの伴侶だ」
「…………はい?」
「今日、お前の公爵家への婿入りが決まったのだ。正式なお披露目は遠征から戻ってきてからという事にはなるが、先方たってのご希望でな。本日のうちに籍を入れておいた」
「はぁああああああぁぁぁっ!?」
これには、さすがにリュカもソファーから飛び起きる。
それはそうだ。婚姻の申し込みをすっ飛ばして婿入りが決定。それどころか既に籍が入っているというのだから、驚かない方がおかしい。
「ちょ! ちょっと待て! 勝手なことすんじゃねぇ! クソ親父!」
「馬鹿者! 我がヴァンデール家はエミリエンヌとその婿が継ぐのだから、お前はいずれどこかに婿入りせねばならんのだ。相手は超名門の大貴族だぞ。それが是非にと、お前を名指しで指名してこられたのだ。こんな機会は滅多にあることではないだろうが!」
「ムチャクチャだ! 俺の意志はどうなるんだよ!」
「貴族の子弟にそんな自由があるとおもうか? ともかくお前に拒否権はない! 明日の昼過ぎにはお越しになるから、くれぐれも粗相のないように!」
顔も知らぬ相手との婚礼など、貴族社会においてはよくある話。
だが自分の身に降りかかってくるとなると話は別だ。
「嘘だろ……」
思わず項垂れるリュカの頭を、幼い妹と半笑いの姉が、「よしよし」と慰めるように撫でた。