ヴァレリィは、静かに目を閉じている。
扉の前で、仁王立ちのまま。
目を開けた所で、どうせ周囲は灯り一つ無い暗闇だ。
暗闇上等。瞑想、心頭滅却、呼び方は何でも良いが、精神を集中していけば、身体の輪郭は次第に曖昧になって意識は拡散していく。
この狭い空間に満ちる意識、その指先で壁面を隈なくなぞり、彼女はその形状を把握する。
背後には鉄の扉、姫殿下の眠る秘密の部屋の扉。正面には長い通路が真っ直ぐに伸びている。
外の扉が閉ざされる音が響いてから今まで、この空間に何一つ変化は無い。
黴臭い淀んだ空気、それをわずかにも揺らすのはヴァレリィ自身の呼吸のみである。
一体どれぐらいの時が過ぎたのだろうか?
この時間帯になって彼女の意識、その集中を妨げるのは、瞼の裏に浮かぶ、一人の男の姿であった。
彼女はついついリュカの横顔を思い出しては、ふるふると首を振る。
依存している。そうかもしれない。そばに誰かがいないことを寂しいと思うことなど、これまでに無かったことだ。
妻として一生尽くす。そう決めたということもあるだろう。
ここしばらくの間、四六時中ずっと一緒にいたということもあるだろう。
情が移った? たぶんそうなのだろう。
いや、そうでなければ、自身が抱いているこの感情に説明がつかない。
見ているだけでイライラするそんな男だ。
だが、彼の何にイラついていたのかと考えてみれば、運の悪さに抗いもせず、それを受け入れてしまっているところだと、そう思う。
それが、彼女には歯がゆくて仕方が無かったのだ。
(そういえば、最近はあやつが転ぶところを見ておらぬな)
不思議なことに、王都を出てからリュカが不運に出会うようなことは無かったように思う。
(ふむ……男はどんな女と一緒になるかによって変わるとも聞く。つまり、私はあやつにとって幸運の女神であったということだな。うふふふ……そうか、そうかー、そうだったかー)
そんなことを考えて、彼女は独りで照れた。
運の善し悪しはともかく、彼にも良い所が沢山ある。
良い所に目を向けようと努めなければ気づきもしなかっただろうが、今となっては好ましいという想いは大きくなる一方だ。
(もしかして、これが恋というものだろうか?)
だとすればおかしな話である。恋をして結婚するのではなく、結婚してから恋をするとは。
「いかん、いかんな」
思わず苦笑いを浮かべて、ヴァレリィは途切れかけた集中を紡ぎ直す。
大丈夫、やはり誰の気配も感じない。
だが――
ポタリ、ポタリと、唐突に水の滴る音が彼女の鼓膜を擦った。
かすかな音、集中を途切れさせれば即座に消え失せるほどの小さな音だ。
だが、それは次第に水量を増し、流れ落ちて床の上でビシャビシャと雫の跳ねる音へと変わっていく。
音が聞こえるのは背後、姫殿下の眠っている部屋から。
ここに入る前、外は激しい嵐だった。雨漏りか? 馬鹿な、ここは一階だ。ありえない。
だが、どこかが水漏れを起こして姫殿下の身を濡らすようなことになっているのだとすれば、一大事である。
とはいえ何の確証もなく、安らかに眠っている姫殿下を叩き起こすことになれば、それはそれで気が引ける。
彼女がそんな風に逡巡していると、『ボトッ』と、何か重いものが落ちるような音が響いた。
やわらかい絨毯の上に、物を取り落としたかのような、そんな音だ。
壁越しに聞こえたかすかな音に、思わず眉根を寄せたその瞬間――
「この臭いは!?」
彼女は思わず目を見開いた。
彼女の鼻先を擦ったのは鉄錆に似た臭い。
血の臭いだ。
驚きのあまり彼女は周囲が闇であることも忘れて、左右を見回す。臭いが漂ってくるのは背後の扉、その隙間からだ。
(まさか何者かの侵入を許してしまったのか? いや、それはない! あり得ない!)
混乱する頭を振るって、ヴァレリィは必死に扉を叩いた。
「姫殿下! 姫殿下! 返事をしてください!」
だが、返事はない。
水音はさらに量を増し、血の臭いは益々濃さを増していく。
嫌な予感、いや予感などではない。目の前で起こっている現実だ。
(力ずくで鍵を壊すしかあるまい!)
扉の把手に手を掛けて、力をこめようとした途端に、ヴァレリィは戦慄した。
「バカな!」
開くのだ。鍵がかかっていないのだ。
(なんだ? 何が起こっている?)
ヴァレリィは深く息を吸い込みながら、自分自身へと語り掛ける。
(落ち着け、落ち着くのだ、ヴァレリィ。誰も扉を開けてはいない。誰もここを通ってはいない。鍵が開いていたのは、オリガが鍵を掛け間違えただけだ。アイツは結構そそっかしい。落ち着け、落ち着くのだ)
自分自身に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、では一体この血の臭いは何なのだと、心が叫び声を上げる。
隠し扉の類は念入りに確認した。
大丈夫だ。何かの間違いだ。
だが次の瞬間、脳裏を過ったイメージに彼女の背筋が再び凍り付いた。
「ベッドの下か!?」
考えてみれば、そこは一度も確認していない。
(もしや、そこに何者かが潜んでいたのか! だとすれば今頃、姫殿下は!)
ヴァレリィは剣を抜き放ち、焦燥のままに強く下唇を噛む。
(落ち着け、焦るな。部屋の中はおそらく真っ暗だ。この血の量であれば、仮に姫殿下が生きておられたとしても立っていることは出来ぬはず、立っている者を狙うのだ。頼りに出来るのは気配のみ。心を乱していてはそれすらも覚束ぬぞ)
彼女は再び目を瞑り、深く息を吸って、それを吐き出す。
そして次の瞬間――
「ウォラァアアアアアアッ!」
勢いよく扉を開け放つや否や、間髪入れずに部屋の中へと踏み込んだ。案の定部屋の中は真っ暗、踏み込みながら彼女は気配を探る。
(無い! 姫殿下の気配すらないだと!?)
混乱するヴァレリィ。だが次の瞬間、彼女は自身ですら意図せぬような、間抜けな声を上げることとなった。
「え、あ、わっわわっわわっ!」
踏み込んだ先、そこは既に血で水浸し、しとどに濡れた床に足を取られた彼女は、つんのめって勢いのままに倒れこむ。
「ぐぼぁっ!」
床で顎をしたたかに強打し、乙女にあるまじき濁った声を漏らした彼女の目の前を、鮮やかに星が飛び散った。
扉の前で、仁王立ちのまま。
目を開けた所で、どうせ周囲は灯り一つ無い暗闇だ。
暗闇上等。瞑想、心頭滅却、呼び方は何でも良いが、精神を集中していけば、身体の輪郭は次第に曖昧になって意識は拡散していく。
この狭い空間に満ちる意識、その指先で壁面を隈なくなぞり、彼女はその形状を把握する。
背後には鉄の扉、姫殿下の眠る秘密の部屋の扉。正面には長い通路が真っ直ぐに伸びている。
外の扉が閉ざされる音が響いてから今まで、この空間に何一つ変化は無い。
黴臭い淀んだ空気、それをわずかにも揺らすのはヴァレリィ自身の呼吸のみである。
一体どれぐらいの時が過ぎたのだろうか?
この時間帯になって彼女の意識、その集中を妨げるのは、瞼の裏に浮かぶ、一人の男の姿であった。
彼女はついついリュカの横顔を思い出しては、ふるふると首を振る。
依存している。そうかもしれない。そばに誰かがいないことを寂しいと思うことなど、これまでに無かったことだ。
妻として一生尽くす。そう決めたということもあるだろう。
ここしばらくの間、四六時中ずっと一緒にいたということもあるだろう。
情が移った? たぶんそうなのだろう。
いや、そうでなければ、自身が抱いているこの感情に説明がつかない。
見ているだけでイライラするそんな男だ。
だが、彼の何にイラついていたのかと考えてみれば、運の悪さに抗いもせず、それを受け入れてしまっているところだと、そう思う。
それが、彼女には歯がゆくて仕方が無かったのだ。
(そういえば、最近はあやつが転ぶところを見ておらぬな)
不思議なことに、王都を出てからリュカが不運に出会うようなことは無かったように思う。
(ふむ……男はどんな女と一緒になるかによって変わるとも聞く。つまり、私はあやつにとって幸運の女神であったということだな。うふふふ……そうか、そうかー、そうだったかー)
そんなことを考えて、彼女は独りで照れた。
運の善し悪しはともかく、彼にも良い所が沢山ある。
良い所に目を向けようと努めなければ気づきもしなかっただろうが、今となっては好ましいという想いは大きくなる一方だ。
(もしかして、これが恋というものだろうか?)
だとすればおかしな話である。恋をして結婚するのではなく、結婚してから恋をするとは。
「いかん、いかんな」
思わず苦笑いを浮かべて、ヴァレリィは途切れかけた集中を紡ぎ直す。
大丈夫、やはり誰の気配も感じない。
だが――
ポタリ、ポタリと、唐突に水の滴る音が彼女の鼓膜を擦った。
かすかな音、集中を途切れさせれば即座に消え失せるほどの小さな音だ。
だが、それは次第に水量を増し、流れ落ちて床の上でビシャビシャと雫の跳ねる音へと変わっていく。
音が聞こえるのは背後、姫殿下の眠っている部屋から。
ここに入る前、外は激しい嵐だった。雨漏りか? 馬鹿な、ここは一階だ。ありえない。
だが、どこかが水漏れを起こして姫殿下の身を濡らすようなことになっているのだとすれば、一大事である。
とはいえ何の確証もなく、安らかに眠っている姫殿下を叩き起こすことになれば、それはそれで気が引ける。
彼女がそんな風に逡巡していると、『ボトッ』と、何か重いものが落ちるような音が響いた。
やわらかい絨毯の上に、物を取り落としたかのような、そんな音だ。
壁越しに聞こえたかすかな音に、思わず眉根を寄せたその瞬間――
「この臭いは!?」
彼女は思わず目を見開いた。
彼女の鼻先を擦ったのは鉄錆に似た臭い。
血の臭いだ。
驚きのあまり彼女は周囲が闇であることも忘れて、左右を見回す。臭いが漂ってくるのは背後の扉、その隙間からだ。
(まさか何者かの侵入を許してしまったのか? いや、それはない! あり得ない!)
混乱する頭を振るって、ヴァレリィは必死に扉を叩いた。
「姫殿下! 姫殿下! 返事をしてください!」
だが、返事はない。
水音はさらに量を増し、血の臭いは益々濃さを増していく。
嫌な予感、いや予感などではない。目の前で起こっている現実だ。
(力ずくで鍵を壊すしかあるまい!)
扉の把手に手を掛けて、力をこめようとした途端に、ヴァレリィは戦慄した。
「バカな!」
開くのだ。鍵がかかっていないのだ。
(なんだ? 何が起こっている?)
ヴァレリィは深く息を吸い込みながら、自分自身へと語り掛ける。
(落ち着け、落ち着くのだ、ヴァレリィ。誰も扉を開けてはいない。誰もここを通ってはいない。鍵が開いていたのは、オリガが鍵を掛け間違えただけだ。アイツは結構そそっかしい。落ち着け、落ち着くのだ)
自分自身に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、では一体この血の臭いは何なのだと、心が叫び声を上げる。
隠し扉の類は念入りに確認した。
大丈夫だ。何かの間違いだ。
だが次の瞬間、脳裏を過ったイメージに彼女の背筋が再び凍り付いた。
「ベッドの下か!?」
考えてみれば、そこは一度も確認していない。
(もしや、そこに何者かが潜んでいたのか! だとすれば今頃、姫殿下は!)
ヴァレリィは剣を抜き放ち、焦燥のままに強く下唇を噛む。
(落ち着け、焦るな。部屋の中はおそらく真っ暗だ。この血の量であれば、仮に姫殿下が生きておられたとしても立っていることは出来ぬはず、立っている者を狙うのだ。頼りに出来るのは気配のみ。心を乱していてはそれすらも覚束ぬぞ)
彼女は再び目を瞑り、深く息を吸って、それを吐き出す。
そして次の瞬間――
「ウォラァアアアアアアッ!」
勢いよく扉を開け放つや否や、間髪入れずに部屋の中へと踏み込んだ。案の定部屋の中は真っ暗、踏み込みながら彼女は気配を探る。
(無い! 姫殿下の気配すらないだと!?)
混乱するヴァレリィ。だが次の瞬間、彼女は自身ですら意図せぬような、間抜けな声を上げることとなった。
「え、あ、わっわわっわわっ!」
踏み込んだ先、そこは既に血で水浸し、しとどに濡れた床に足を取られた彼女は、つんのめって勢いのままに倒れこむ。
「ぐぼぁっ!」
床で顎をしたたかに強打し、乙女にあるまじき濁った声を漏らした彼女の目の前を、鮮やかに星が飛び散った。