午後になって、雨は更に激しさを増し、雨混じりの風が鎧戸を強く叩いている。
もはや、嵐と言ってもよいほどの荒天。
雷が地軸を揺らし、遠くで太鼓を打ち鳴らすかのような低い轟が尾を引くように長く響き渡っていた。
今、リュカとヴァレリィ、それにオリガは死体の吊されていた部屋にいる。
オリガが手にしたカンテラに灯りを点すと、淡い光の中に黒ずんだ染みが浮かび上がった。
床の上には、滴り落ちた血が拭き取られもせずに水玉模様を描いている。
エルネストたちの遺体は、既に別室に運び出されていた。
彼らがここへ戻ってきたのは、『確かめたいことがあるんです』、リュカがそんなことを言いだしたからだ。
彼は死体を発見した際に、なんとも言い難い違和感を抱いていた。
在るべき物が無いような、そんな違和感。
それを確かめるためにここへ戻って来たのだ。
あれから既に数時間が経っている。
仲間の死に同僚たちはいきり立ち、今もまだ脱走した捕虜を探し回っている。
何名かは外を探しに出たようだが……それは無駄足だろう。もし外へ逃げたのだとしても、この風雨では痕跡を追うのは不可能に近い。
いや、逃げてくれたのならばそれでもいい。仇を討つことには何の意味も無い。薄情だと思われるかもしれないが、死んでしまったらそいつの時間はそこで止まる。それ以上の意味はない。
むしろ、問題は姫殿下の方である。
報告を受けた彼女は大いに取り乱した。
当然だろう。自分が寝ていたベッドの枕元、壁一枚を隔てた向こう側で安らかに眠っているその間に、奇怪な殺人が行われていたのだから。
完全に怯え切った彼女は「わ、妾は帰る! 帰るのじゃ! こ、こんなところにはもう、一刻たりとも居たくないのじゃ!」と喚き散らし、オリガや騎士たちが必死にそれを宥めた。
なにせ帰ると言ってもこの風雨である。
完全に怯え切った姫殿下は頭から毛布を被って震えている。
丁度この壁の向こう側が彼女のベッド。そこにいるはずだ。
「しかし……死体を吊すなんて、簡単なことじゃありませんからね。仮にその脱走した捕虜の仕業だとして、問題はなんでそんなことをする必要があったか……ですね」
リュカが顎に手をやりながらそう呟くと、すぐ隣でヴァレリィが頷いた。
「うむ、わざわざ血を抜くような手間を掛けるぐらいだ。何らかの目的があったと考えるべきであろうな」
「血を抜く?」
リュカが思わず眉根を寄せると、ヴァレリィが小さく頭を下げた。
「ああ、そうか、すまん。お前は狩りはやらぬのだったな。捕らえた獲物はああやって血を抜くのだ。気絶させた上で逆さに吊り、心臓の動いているうちに頸動脈を裂けば、全身から血が抜ける」
「なんでそんな面倒なことをするんです?」
「身体に残った血は放っておけば凝固したり、いち早く腐敗したりして臭みになるのだ。平たく言ってしまえば、血抜きをしておかなければ肉の味が落ちる」
「ヴァレリィ……それでは逃げ出した捕虜は、喰うために彼らを吊しあげたということか?」
「ち、違う! そ、そういう意味では無くてだな」
オリガが眉根を寄せると、ヴァレリィが慌てふためく。アンベールを喰らったのではないかと疑われたヴァレリィにしてみれば、とんだ不用意な発言だったと言えよう。
だがそのお蔭で、リュカは違和感の正体に気付くことが出来た。
「なるほど……ね。でも余計に訳がわからなくなっちまった」
違和感の正体、それは血の量。
床に滴っている血の量が少ないのだ。
三人の人間の身体から血を抜けば、恐らくこの部屋は今頃、血の海となっているはずだ。
とてもではないが水玉模様を描く程度では済まない。
恐らく抜いた血を持ち去ったということなのだろうが、それが何を意味するのかまではわからなかった。
◇ ◇ ◇
よせばいいのに、オリガは『血抜き』の事実をそのまま姫殿下に報告した。
ヴァレリィといいオリガといい、騎士というヤツはどうしてこんな直球バカばかりなのだろうか。
案の定、姫殿下は益々取り乱した。
「ほ、本当にその脱走した捕虜とやらの仕業なのか? い、いや! アンベールを喰らった喰人鬼が、次は妾を喰らいに来たに違いないのじゃ。はっ!? も、もしや妾をおびき寄せるためにアンベールを喰らったのではあるまいか? い、いやじゃ! 妾は死にとうない! ス、ステラノーヴァ、支度せよ! 帰る! いますぐ王都に帰るのじゃ!」
勝手に話をエスカレートさせて、ベッドの上でジタバタと暴れまわる姫殿下に、ヴァレリィとオリガは顔を見合わせて肩をすくめる。
「姫殿下、さすがに自分の足のつま先すら見えぬようなこの風雨では、馬車を走らせることもままなりませぬ」
「いやじゃ! 妾は死にとうない!」
そう言って姫殿下は、オリガへと手元の枕を投げつける。
「姫殿下、我らが命に代えても必ずお守りいたします! 何卒、今しばらく堪えてくださいませ!」
「うるさい! お主らとて喰人鬼ではないという保証は無いのじゃぞ!」
それはただのはずみだったのだろう。
勢い余って口から飛び出してしまった、そう言う類の一言だ。
だが彼女は自分のその一言に、自分で驚いて飛び上がり、震える我が身を掻き抱いた。
「そ、そうじゃ……保障など無い。無いではないか……いや、ステラノーヴァはアンベールが死んだあの日、妾と一緒にいたから違う。じゃが、ステラノーヴァでは妾を守れん……そうじゃ! もう一人いる。いるではないか! 喰人鬼ではないと確認できている者が一人いるではないか!」
瞳孔の開ききった目で、姫殿下はヴァレリィを見据える。
「ヴァレリィ! こ、こっちへ来よ! わ、妾を守るのじゃ!」
確かにアンベールが死んだ頃、ヴァレリィがどこにいたのかは裏が取れている。姫殿下自身が、そう言ったのだ。
皮肉なことに喰人鬼ではないかと疑われたはずのヴァレリィが、銀髪メイドを除けば、姫殿下にとって只一人、喰人鬼ではないと確証の持てる人物となったのだ。
「か、帰れぬというのなら、へ、部屋を変えてたもれ。少々のことは我慢するのじゃ。もっと安全なところへ。そうじゃ、倉庫でも何でもよい。窓の無い部屋が良いのじゃ。外から誰も入ってこれぬような、そんな場所が良いのじゃ!」
リュカとヴァレリィは思わず顔を見合わせる。
この城砦の中で、今姫殿下が口にしたような条件を満たす場所といえば一か所しかない。
「あそこ……ですかね」
「うむ……あそこしかない……な」
二人の脳裏には、数日前に見つけた隠し部屋が思い浮かんでいた。
もはや、嵐と言ってもよいほどの荒天。
雷が地軸を揺らし、遠くで太鼓を打ち鳴らすかのような低い轟が尾を引くように長く響き渡っていた。
今、リュカとヴァレリィ、それにオリガは死体の吊されていた部屋にいる。
オリガが手にしたカンテラに灯りを点すと、淡い光の中に黒ずんだ染みが浮かび上がった。
床の上には、滴り落ちた血が拭き取られもせずに水玉模様を描いている。
エルネストたちの遺体は、既に別室に運び出されていた。
彼らがここへ戻ってきたのは、『確かめたいことがあるんです』、リュカがそんなことを言いだしたからだ。
彼は死体を発見した際に、なんとも言い難い違和感を抱いていた。
在るべき物が無いような、そんな違和感。
それを確かめるためにここへ戻って来たのだ。
あれから既に数時間が経っている。
仲間の死に同僚たちはいきり立ち、今もまだ脱走した捕虜を探し回っている。
何名かは外を探しに出たようだが……それは無駄足だろう。もし外へ逃げたのだとしても、この風雨では痕跡を追うのは不可能に近い。
いや、逃げてくれたのならばそれでもいい。仇を討つことには何の意味も無い。薄情だと思われるかもしれないが、死んでしまったらそいつの時間はそこで止まる。それ以上の意味はない。
むしろ、問題は姫殿下の方である。
報告を受けた彼女は大いに取り乱した。
当然だろう。自分が寝ていたベッドの枕元、壁一枚を隔てた向こう側で安らかに眠っているその間に、奇怪な殺人が行われていたのだから。
完全に怯え切った彼女は「わ、妾は帰る! 帰るのじゃ! こ、こんなところにはもう、一刻たりとも居たくないのじゃ!」と喚き散らし、オリガや騎士たちが必死にそれを宥めた。
なにせ帰ると言ってもこの風雨である。
完全に怯え切った姫殿下は頭から毛布を被って震えている。
丁度この壁の向こう側が彼女のベッド。そこにいるはずだ。
「しかし……死体を吊すなんて、簡単なことじゃありませんからね。仮にその脱走した捕虜の仕業だとして、問題はなんでそんなことをする必要があったか……ですね」
リュカが顎に手をやりながらそう呟くと、すぐ隣でヴァレリィが頷いた。
「うむ、わざわざ血を抜くような手間を掛けるぐらいだ。何らかの目的があったと考えるべきであろうな」
「血を抜く?」
リュカが思わず眉根を寄せると、ヴァレリィが小さく頭を下げた。
「ああ、そうか、すまん。お前は狩りはやらぬのだったな。捕らえた獲物はああやって血を抜くのだ。気絶させた上で逆さに吊り、心臓の動いているうちに頸動脈を裂けば、全身から血が抜ける」
「なんでそんな面倒なことをするんです?」
「身体に残った血は放っておけば凝固したり、いち早く腐敗したりして臭みになるのだ。平たく言ってしまえば、血抜きをしておかなければ肉の味が落ちる」
「ヴァレリィ……それでは逃げ出した捕虜は、喰うために彼らを吊しあげたということか?」
「ち、違う! そ、そういう意味では無くてだな」
オリガが眉根を寄せると、ヴァレリィが慌てふためく。アンベールを喰らったのではないかと疑われたヴァレリィにしてみれば、とんだ不用意な発言だったと言えよう。
だがそのお蔭で、リュカは違和感の正体に気付くことが出来た。
「なるほど……ね。でも余計に訳がわからなくなっちまった」
違和感の正体、それは血の量。
床に滴っている血の量が少ないのだ。
三人の人間の身体から血を抜けば、恐らくこの部屋は今頃、血の海となっているはずだ。
とてもではないが水玉模様を描く程度では済まない。
恐らく抜いた血を持ち去ったということなのだろうが、それが何を意味するのかまではわからなかった。
◇ ◇ ◇
よせばいいのに、オリガは『血抜き』の事実をそのまま姫殿下に報告した。
ヴァレリィといいオリガといい、騎士というヤツはどうしてこんな直球バカばかりなのだろうか。
案の定、姫殿下は益々取り乱した。
「ほ、本当にその脱走した捕虜とやらの仕業なのか? い、いや! アンベールを喰らった喰人鬼が、次は妾を喰らいに来たに違いないのじゃ。はっ!? も、もしや妾をおびき寄せるためにアンベールを喰らったのではあるまいか? い、いやじゃ! 妾は死にとうない! ス、ステラノーヴァ、支度せよ! 帰る! いますぐ王都に帰るのじゃ!」
勝手に話をエスカレートさせて、ベッドの上でジタバタと暴れまわる姫殿下に、ヴァレリィとオリガは顔を見合わせて肩をすくめる。
「姫殿下、さすがに自分の足のつま先すら見えぬようなこの風雨では、馬車を走らせることもままなりませぬ」
「いやじゃ! 妾は死にとうない!」
そう言って姫殿下は、オリガへと手元の枕を投げつける。
「姫殿下、我らが命に代えても必ずお守りいたします! 何卒、今しばらく堪えてくださいませ!」
「うるさい! お主らとて喰人鬼ではないという保証は無いのじゃぞ!」
それはただのはずみだったのだろう。
勢い余って口から飛び出してしまった、そう言う類の一言だ。
だが彼女は自分のその一言に、自分で驚いて飛び上がり、震える我が身を掻き抱いた。
「そ、そうじゃ……保障など無い。無いではないか……いや、ステラノーヴァはアンベールが死んだあの日、妾と一緒にいたから違う。じゃが、ステラノーヴァでは妾を守れん……そうじゃ! もう一人いる。いるではないか! 喰人鬼ではないと確認できている者が一人いるではないか!」
瞳孔の開ききった目で、姫殿下はヴァレリィを見据える。
「ヴァレリィ! こ、こっちへ来よ! わ、妾を守るのじゃ!」
確かにアンベールが死んだ頃、ヴァレリィがどこにいたのかは裏が取れている。姫殿下自身が、そう言ったのだ。
皮肉なことに喰人鬼ではないかと疑われたはずのヴァレリィが、銀髪メイドを除けば、姫殿下にとって只一人、喰人鬼ではないと確証の持てる人物となったのだ。
「か、帰れぬというのなら、へ、部屋を変えてたもれ。少々のことは我慢するのじゃ。もっと安全なところへ。そうじゃ、倉庫でも何でもよい。窓の無い部屋が良いのじゃ。外から誰も入ってこれぬような、そんな場所が良いのじゃ!」
リュカとヴァレリィは思わず顔を見合わせる。
この城砦の中で、今姫殿下が口にしたような条件を満たす場所といえば一か所しかない。
「あそこ……ですかね」
「うむ……あそこしかない……な」
二人の脳裏には、数日前に見つけた隠し部屋が思い浮かんでいた。