「んぁ……」
窓を叩く激しい雨音に、リュカは寝癖のついた髪を掻きむしりながら、気だるげに身を起こした。
自分が今、どこにいるのかすぐには思い出せず、彼は寝ぼけ眼のままに、ぼんやりと周囲を見回す。
そこは八人部屋の一隅、左右に二つずつ並んだ二段ベッドの上段であった。
(ああ、そうか……そうだったな)
昨日はあの変態姫のせいで、ヴァレリィと一緒に居ると、おかしな雰囲気が漂うようになってしまった。
あまりの居た堪れなさに、ヴァレリィとの二人部屋を出たリュカは、同僚たちの部屋へと転がりこんだのである。
夜半、唐突に部屋に入ってきて、空いたベッドに転がり込むリュカを同僚たちが興味深げに覗き込んできた。
「さては、団長の機嫌を損ねて叩き出されたな?」
「違うっての、ばーか」
男爵家の三男、放蕩息子のユーディンがどこか嬉しそうに揶揄ってくる。
リュカがうっとうしげに背を向けると、今度は騎士団一の愛妻家であるエルネストが説教臭い坊主みたいな顔をして口を開いた。
「リュカよぉ、なにかあったらとりあえず謝りゃいいんだって。どっちが悪いかなんて関係ねぇ、女房にゃ逆らっちゃダメだ。奥さまは神さま、どんな理不尽にもニコニコ笑ってお姫さまみたいに扱ってやりゃ女房は幸せ、女房ご機嫌で俺たちも幸せってなもんさ」
「なんだそりゃ? 結婚ってのは、地獄かなんかなのかい?」
のっぽのヤンが向かいのベッドで肩をすくめると、エルネストは悟り切った聖堂の坊主みたいな顔をして、人差し指を立てた。
「ま、人生の墓場ってのは間違えじゃないね。でもそんなことはどうでもいいのさ。なにせ娘がかわいい。それで世の中、事も無しってなもんだ」
すると、今度は下段のベッドで横になっていた学者肌のジュリアンが話に割り込んでくる。
「もうそろそろ三か月ぐらいだったっけ? 自分の子というのは相当かわいいものらしいね」
「ああ、そりゃあもうかわいい。俺が家を空けている間に成長しちまって、一番かわいい時期を見逃すんじゃないかって気が気じゃない。戦争なんてとっとと終わらせて早く帰りたいもんだ」
「でたよ……。ほんと、親バカだねぇ」
眠りに落ちる直前、同僚たちがそんな話をしながら笑っていたのを覚えている。
あらためて部屋の中を見回してみても、彼らの姿は無い。
とりあえずベッドを降りて、鎧戸を開けてみる。
すると、いきなり水しぶきが顔に向かって跳ねてきた。
頬を歪めながら覗き見てみれば、外は激しい雨。
街道、平原、遠くの山並み、見渡す限りの全てが白く煙った靄の向こう側だ。
空は分厚い雲に覆われているが、とっくに夜が明けていることには違いない。
「こりゃ……寝坊だな」
リュカは(起こしてくれても良いだろうに)と胸の内で同僚たちを責めながら、簡単に身支度を調えると、大して慌てもせずに廊下へと歩み出た。
シンと静まり返る廊下。耳を澄ませば遠くの方から、甲高い女の声が聞こえてくる。たぶん、あのオリガとかいう女騎士の声だろう。
いつもなら中庭で行われている朝礼も、この雨ではどうしようもない。おそらく玄関ホールあたりで行われているのだろう。
「あのオリガってのは、面倒臭そうなヤツだったなぁ……」
気が進まないながらもリュカがホールに辿り着くと、そこにはなにやら張り詰めたような空気が漂っていた。
(なんだ? なにか起こってるのか?)
同僚たちと姫殿下直属の騎士たちがそれぞれに列をつくり、その奥にはオリガとヴァレリィの姿がある。
リュカがそーっと同僚たちの列の最後尾に並ぼうとすると、たまたま顔を上げたヴァレリィと目が合った。
(やべぇ!)
彼が胸の内でそう漏らすのとほぼ同時に、彼女は大きく目を見開き、騎士たちを押しのけて猛然と駆け寄ってくる。
思わずリュカが逃げ出しかけると、彼女は逃さぬとばかりにその身体を抱き寄せた。
「無事であったか、旦那さま!」
「だ、団長! どうしたんです。み、みんな見てますから! は、放してください!」
必死にもがくリュカ。ヴァレリィは我に返ると周囲をぐるりと見回し、慌てて飛びのいた。
「す、すまん、つ、つい」
「一体、何がどうしたっていうんです?」
彼がそう問いかけると、いつの間にか歩み寄ってきていたオリガがいまいましげに口を開いた。
「呑気なヤツだ。ヴァレリィ、お前はなんでこんなのを……。まあいい。昨晩のうちに捕虜が一名脱走したのだ。それに騎士が四名……いや、貴様を除けば三名だな。姿が見当たらんのだ」
「脱走って……。意味ないでしょ、そんなの」
地下牢には五名の捕虜が収容されていたのだが、いずれも下級の兵士ばかりで、人質交換にも使えそうにない。
それゆえ姫殿下が王都へ戻られた後、降伏勧告の書状を持たせて解放する予定になっていたのだ。
捕虜たちにもそれは伝えてあった訳だから、今危険を冒して脱出する理由は何一つ無いはずだ。
「何か重要な任務を帯びていたのかもしれんな。行方不明の三名は、脱走するところを目にして追いかけている……そういうことかもしれん」
ヴァレリィがそう口にすると、オリガが首を振る。
「部下を信じたいという気持ちは理解しよう。だが、その三名は脱走兵なのではないか? いなくなった捕虜は、道案内にでも使うつもりだと考えれば辻褄が合う」
「馬鹿げたことを……」
「なんだと!」
ヴァレリィが呆れたとばかりに肩をすくめると、オリガがむきになって詰め寄る。二人の間に挟まれる形となったリュカは、堪らず声を上げた。
「待ってくださいって! で、一体、誰が居なくなったんです」
「ヤンとジュリアン、それにエルネストだ」
その瞬間――
早く帰りたいもんだ。
リュカの脳裏にエルネストの言葉が甦る。
思わず呆然とするリュカをよそに、オリガはヴァレリィを見据えてこう言い放った。
「馬や馬車が減っていないことは確認済みだ。ヤツらが逃げ帰るつもりなら王都の方角、北。逆に逃げた捕虜を追っているというのならば、テルノワールの方角、南だ。私は部下を率いて北へ向かう。貴様が部下たちを信じるというのなら、南へ向かうが良い」
「良かろう。有り得んことだが、もしヤツらが本当に逃亡していたならば、私は監督不行き届きを責められたとしても、甘んじてそれを受け入れようではないか」
「誤解するな。私は何もお前を貶めようという訳ではない」
二人が互いに背を向けて、それぞれの部下たちに号令を掛けようとした、その瞬間、
「キャァ―――――――――ッ!」
どこか遠くの方から甲高い女の悲鳴が響き渡った。
ざわめく騎士たち。
ヴァレリィとリュカは思わず顔を見合わせた。
「マズい! あれは貴賓室の方角だ! お前たちは一緒に来い。他は待機! 周囲を警戒せよ!」
オリガが何人かの騎士を従えて駆け出すと、リュカとヴァレリィは頷き合い、彼女の後を追う。
貴賓室は一階の最奥。角を曲がると貴賓室の隣、姫殿下が荷物置き場として使用している部屋の前に銀髪のメイド――ステラノーヴァがぺたんと座り込んで、呆然と宙空に視線を泳がせているのが見えた。
「どうした! ステラノーヴァ!」
「オリガ、あ、あれ……」
オリガがそばへ駆け寄ると、彼女は声を震わせて宙空に指をさす。
その先は開いた扉の向こう側。部屋の中へと目を向けてオリガ、リュカ、ヴァレリィの三名は思わず息を呑んだ。
開け放たれた窓から降りこむ雨粒。窓の外で激しく稲光が空を切り裂いた。雷光に照らされて浮かび上がったのは三人の人影。
それも、天井の梁から逆さ吊りにされた男たちの姿。
彼らの切り裂かれた喉元から滴り落ちた血が床の上で『ぴちょん』と跳ねて、雷鳴の低い唸りのような残響の中に、ヴァレリィの擦れた呟きが零れ落ちた。
「なんだ……これは」
そこに吊られていたのは、姿の見えなくなっていた金鷹騎士団の同僚たちであった。
窓を叩く激しい雨音に、リュカは寝癖のついた髪を掻きむしりながら、気だるげに身を起こした。
自分が今、どこにいるのかすぐには思い出せず、彼は寝ぼけ眼のままに、ぼんやりと周囲を見回す。
そこは八人部屋の一隅、左右に二つずつ並んだ二段ベッドの上段であった。
(ああ、そうか……そうだったな)
昨日はあの変態姫のせいで、ヴァレリィと一緒に居ると、おかしな雰囲気が漂うようになってしまった。
あまりの居た堪れなさに、ヴァレリィとの二人部屋を出たリュカは、同僚たちの部屋へと転がりこんだのである。
夜半、唐突に部屋に入ってきて、空いたベッドに転がり込むリュカを同僚たちが興味深げに覗き込んできた。
「さては、団長の機嫌を損ねて叩き出されたな?」
「違うっての、ばーか」
男爵家の三男、放蕩息子のユーディンがどこか嬉しそうに揶揄ってくる。
リュカがうっとうしげに背を向けると、今度は騎士団一の愛妻家であるエルネストが説教臭い坊主みたいな顔をして口を開いた。
「リュカよぉ、なにかあったらとりあえず謝りゃいいんだって。どっちが悪いかなんて関係ねぇ、女房にゃ逆らっちゃダメだ。奥さまは神さま、どんな理不尽にもニコニコ笑ってお姫さまみたいに扱ってやりゃ女房は幸せ、女房ご機嫌で俺たちも幸せってなもんさ」
「なんだそりゃ? 結婚ってのは、地獄かなんかなのかい?」
のっぽのヤンが向かいのベッドで肩をすくめると、エルネストは悟り切った聖堂の坊主みたいな顔をして、人差し指を立てた。
「ま、人生の墓場ってのは間違えじゃないね。でもそんなことはどうでもいいのさ。なにせ娘がかわいい。それで世の中、事も無しってなもんだ」
すると、今度は下段のベッドで横になっていた学者肌のジュリアンが話に割り込んでくる。
「もうそろそろ三か月ぐらいだったっけ? 自分の子というのは相当かわいいものらしいね」
「ああ、そりゃあもうかわいい。俺が家を空けている間に成長しちまって、一番かわいい時期を見逃すんじゃないかって気が気じゃない。戦争なんてとっとと終わらせて早く帰りたいもんだ」
「でたよ……。ほんと、親バカだねぇ」
眠りに落ちる直前、同僚たちがそんな話をしながら笑っていたのを覚えている。
あらためて部屋の中を見回してみても、彼らの姿は無い。
とりあえずベッドを降りて、鎧戸を開けてみる。
すると、いきなり水しぶきが顔に向かって跳ねてきた。
頬を歪めながら覗き見てみれば、外は激しい雨。
街道、平原、遠くの山並み、見渡す限りの全てが白く煙った靄の向こう側だ。
空は分厚い雲に覆われているが、とっくに夜が明けていることには違いない。
「こりゃ……寝坊だな」
リュカは(起こしてくれても良いだろうに)と胸の内で同僚たちを責めながら、簡単に身支度を調えると、大して慌てもせずに廊下へと歩み出た。
シンと静まり返る廊下。耳を澄ませば遠くの方から、甲高い女の声が聞こえてくる。たぶん、あのオリガとかいう女騎士の声だろう。
いつもなら中庭で行われている朝礼も、この雨ではどうしようもない。おそらく玄関ホールあたりで行われているのだろう。
「あのオリガってのは、面倒臭そうなヤツだったなぁ……」
気が進まないながらもリュカがホールに辿り着くと、そこにはなにやら張り詰めたような空気が漂っていた。
(なんだ? なにか起こってるのか?)
同僚たちと姫殿下直属の騎士たちがそれぞれに列をつくり、その奥にはオリガとヴァレリィの姿がある。
リュカがそーっと同僚たちの列の最後尾に並ぼうとすると、たまたま顔を上げたヴァレリィと目が合った。
(やべぇ!)
彼が胸の内でそう漏らすのとほぼ同時に、彼女は大きく目を見開き、騎士たちを押しのけて猛然と駆け寄ってくる。
思わずリュカが逃げ出しかけると、彼女は逃さぬとばかりにその身体を抱き寄せた。
「無事であったか、旦那さま!」
「だ、団長! どうしたんです。み、みんな見てますから! は、放してください!」
必死にもがくリュカ。ヴァレリィは我に返ると周囲をぐるりと見回し、慌てて飛びのいた。
「す、すまん、つ、つい」
「一体、何がどうしたっていうんです?」
彼がそう問いかけると、いつの間にか歩み寄ってきていたオリガがいまいましげに口を開いた。
「呑気なヤツだ。ヴァレリィ、お前はなんでこんなのを……。まあいい。昨晩のうちに捕虜が一名脱走したのだ。それに騎士が四名……いや、貴様を除けば三名だな。姿が見当たらんのだ」
「脱走って……。意味ないでしょ、そんなの」
地下牢には五名の捕虜が収容されていたのだが、いずれも下級の兵士ばかりで、人質交換にも使えそうにない。
それゆえ姫殿下が王都へ戻られた後、降伏勧告の書状を持たせて解放する予定になっていたのだ。
捕虜たちにもそれは伝えてあった訳だから、今危険を冒して脱出する理由は何一つ無いはずだ。
「何か重要な任務を帯びていたのかもしれんな。行方不明の三名は、脱走するところを目にして追いかけている……そういうことかもしれん」
ヴァレリィがそう口にすると、オリガが首を振る。
「部下を信じたいという気持ちは理解しよう。だが、その三名は脱走兵なのではないか? いなくなった捕虜は、道案内にでも使うつもりだと考えれば辻褄が合う」
「馬鹿げたことを……」
「なんだと!」
ヴァレリィが呆れたとばかりに肩をすくめると、オリガがむきになって詰め寄る。二人の間に挟まれる形となったリュカは、堪らず声を上げた。
「待ってくださいって! で、一体、誰が居なくなったんです」
「ヤンとジュリアン、それにエルネストだ」
その瞬間――
早く帰りたいもんだ。
リュカの脳裏にエルネストの言葉が甦る。
思わず呆然とするリュカをよそに、オリガはヴァレリィを見据えてこう言い放った。
「馬や馬車が減っていないことは確認済みだ。ヤツらが逃げ帰るつもりなら王都の方角、北。逆に逃げた捕虜を追っているというのならば、テルノワールの方角、南だ。私は部下を率いて北へ向かう。貴様が部下たちを信じるというのなら、南へ向かうが良い」
「良かろう。有り得んことだが、もしヤツらが本当に逃亡していたならば、私は監督不行き届きを責められたとしても、甘んじてそれを受け入れようではないか」
「誤解するな。私は何もお前を貶めようという訳ではない」
二人が互いに背を向けて、それぞれの部下たちに号令を掛けようとした、その瞬間、
「キャァ―――――――――ッ!」
どこか遠くの方から甲高い女の悲鳴が響き渡った。
ざわめく騎士たち。
ヴァレリィとリュカは思わず顔を見合わせた。
「マズい! あれは貴賓室の方角だ! お前たちは一緒に来い。他は待機! 周囲を警戒せよ!」
オリガが何人かの騎士を従えて駆け出すと、リュカとヴァレリィは頷き合い、彼女の後を追う。
貴賓室は一階の最奥。角を曲がると貴賓室の隣、姫殿下が荷物置き場として使用している部屋の前に銀髪のメイド――ステラノーヴァがぺたんと座り込んで、呆然と宙空に視線を泳がせているのが見えた。
「どうした! ステラノーヴァ!」
「オリガ、あ、あれ……」
オリガがそばへ駆け寄ると、彼女は声を震わせて宙空に指をさす。
その先は開いた扉の向こう側。部屋の中へと目を向けてオリガ、リュカ、ヴァレリィの三名は思わず息を呑んだ。
開け放たれた窓から降りこむ雨粒。窓の外で激しく稲光が空を切り裂いた。雷光に照らされて浮かび上がったのは三人の人影。
それも、天井の梁から逆さ吊りにされた男たちの姿。
彼らの切り裂かれた喉元から滴り落ちた血が床の上で『ぴちょん』と跳ねて、雷鳴の低い唸りのような残響の中に、ヴァレリィの擦れた呟きが零れ落ちた。
「なんだ……これは」
そこに吊られていたのは、姿の見えなくなっていた金鷹騎士団の同僚たちであった。