「残党が潜んでいる可能性もある! 警戒を怠るなッ!」
苛立ち混じりに声を張り上げるヴァレリィを尻目に、リュカは眠たげな目を窓の外へと向ける。
地平線が燃えていた。
時刻は朝方、リュカが知るよしも無いことではあるが、王太子バスティアンが伯母を訪ねた二日後のことである。
昨日の正午過ぎから始まった攻城戦は意外なほどに長引いて、夜を越え、朝方近くまで続いた。
だが、明けの明星が空に輝く頃合いになって、敵の反撃が唐突に途絶えたのだ。
訝しみながら城門を打ち破って突入してみれば、城砦は既にもぬけの殻。テルノワールの兵士たちが裏門から脱出し終えた後だった。
激しい攻城戦が繰り広げられている間、ヴァレリィ率いる第四軍は後方支援という名のお留守番。
一昼夜に亘って戦い抜いた他の部隊とは違い、睡眠もちゃんと取ったし、食事も三食ばっちり食べた。気力は充実している。
だが――
「では、我々が追撃を!」
ヴァレリィが意気揚々とそう主張するも、
「いや、まずは城砦の占領が先だ。攻城に当たった兵たちは休ませるから、あとはよろしく頼む」
と、一軍、二軍、三軍の指揮官に、すげなくそう返されたのである。
かくしてヴァレリィ率いる第四軍は、死体を運び出したり資材を運び込んだりと、慌ただしく戦後処理、占領作業という名の後始末を行っているという訳である。
「残党が潜んでいる可能性もある! いや、潜んでいてくれ! で、襲い掛かってきたりしなぃかなぁ。そしたら、や、殺っちゃっても良いよな、な、旦那さま」
親指の爪を齧りながら、イッちゃってる目で物騒なことをぶつぶつと呟くヴァレリィ。
欲求不満も限界を超えて、彼女は殺人鬼みたいなことを言い出していた。
(あはは……。あれ、ウチの奥さんなんですよ? 早く逃げた方がいいんじゃね? 俺)
リュカが正直あまり見たくない妻の姿から目を逸らすのとほぼ同時に、廊下の向こう側から「サヴィニャック卿、少しよろしいかな?」と、しわがれた男の声が聞こえて来た。
ヴァレリィの金色の甲冑とは対照的な、煌びやかさの欠片もない武骨な甲冑姿。頭の禿げあがった初老の髭男である。
男の名はダン・スロワーズ。
黒鳳騎士団の団長にして、この度の遠征軍の全軍を束ねる総司令であった。
彼は年功によって総司令に任じられてはいるが、騎士階級でいえばヴァレリィとは対等。家格で言えば遥かに下。
その上、人望、実力ともに誰がどう見ても、ヴァレリィの方が上なのだ。
ゆえに彼にしてみれば、ヴァレリィは自分が率いる軍の一部隊長でしかないはずなのだが、頭ごなしに命令を出すことも出来ず、どうにもやり難そうであった。
「スロワーズ卿、なにか?」
ヴァレリィがそう問いかけると、彼は「うむ」と一つ頷いて髭を撫でる。
「つい先ほどのことなのだが、実は王太子殿下より国境の駐屯地経由で、『鳩』が届いてな」
「王太子殿下から?」
「うむ、それがヴェルヌイユ姫殿下が近々、兵たちの慰問にお越しになるというのだ」
「慰問? なぜでしょう? 戦局は大して動いておりませんし、兵たちが疲弊しているというほど長引いている訳ではありませんが……」
普通、王家のそれも継承権第二位という大物が戦場を訪れようというのであれば、相応の理由があって然るべきなのだが。
「知らんよ。文面を拝見する限り殿下もお困りのご様子であった。大方、処女姫殿下の気まぐれでいらっしゃるのだろう。貴卿も存じておるとは思うが、実に奔放な方であられるからな」
「お目通りしたことはございませんが、お噂は……」
「とはいえ、全軍で姫殿下をお待ちするという訳にもいかん。そこで貴卿には、駐留部隊を率いてこの城砦に残ってもらいたいのだ」
「バカな!?」
途端にヴァレリィがスロワーズに喰ってかかる。
「こちらに来てからまだ、まともに敵と剣を交えてもいないというのに、貴卿は私にここに留まれとおっしゃるのですか!」
「し、しかたがあるまい。王太子殿下のご指名なのだよ」
ヴァレリィの剣幕に、スロワーズがたじたじと仰け反る。
「はぁああ!? 指名? なぜです! 私は姫殿下に御目通りしたことなどございませんが?」
「知らんよ。それにたとえ指名がなくとも、貴公ぐらいにしか、あの姫殿下のお相手はできまいて。口に出すのは憚られるが、男の身ではなにかと差しさわりがあるのだよ」
「ぐっ……ぐぬぬ!」
ヴァレリィはとてもではないが、返事を出来る様子ではない。 完全にブチ切れている。どう見てもギリギリ理性を保っているような状態だ。
「わかりました、喜んで拝命いたします」
しかたなく、すぐそばにいたリュカが口を挟んだ。
「ん? なんだ、貴様は?」
「団長の下で副官を務めております、リュカ・ヴァンデールと申します」
「ほう、貴様が噂のな……」
途端に、スロワーズの瞳に蔑むような色が浮かんだ。
大方、初心な公爵令嬢を垂らしこんだ放蕩息子とでも言われているのだろう。
「姫殿下は三日後に王都を出られるとのこと。徒歩の者はあらぬゆえ、おそらく十日程度でこちらへ御着きになることであろう。くれぐれも粗相のないようにな!」
スロワーズはリュカの方へ向き直ると、ヴァレリィに対するのとはうって変わって高圧的な口調でそう言い捨てて、そのまま足早に去っていった。
ヴァレリィは怒り心頭と言った様子。彼女の相手をするのはどう考えてもリュカの他にはおらず、今晩どれだけ頭を撫でさせられるのだろうかと、彼は思わず深いため息を吐く。
彼の手から指紋が消える日は、それほど遠くはないように思えた。
苛立ち混じりに声を張り上げるヴァレリィを尻目に、リュカは眠たげな目を窓の外へと向ける。
地平線が燃えていた。
時刻は朝方、リュカが知るよしも無いことではあるが、王太子バスティアンが伯母を訪ねた二日後のことである。
昨日の正午過ぎから始まった攻城戦は意外なほどに長引いて、夜を越え、朝方近くまで続いた。
だが、明けの明星が空に輝く頃合いになって、敵の反撃が唐突に途絶えたのだ。
訝しみながら城門を打ち破って突入してみれば、城砦は既にもぬけの殻。テルノワールの兵士たちが裏門から脱出し終えた後だった。
激しい攻城戦が繰り広げられている間、ヴァレリィ率いる第四軍は後方支援という名のお留守番。
一昼夜に亘って戦い抜いた他の部隊とは違い、睡眠もちゃんと取ったし、食事も三食ばっちり食べた。気力は充実している。
だが――
「では、我々が追撃を!」
ヴァレリィが意気揚々とそう主張するも、
「いや、まずは城砦の占領が先だ。攻城に当たった兵たちは休ませるから、あとはよろしく頼む」
と、一軍、二軍、三軍の指揮官に、すげなくそう返されたのである。
かくしてヴァレリィ率いる第四軍は、死体を運び出したり資材を運び込んだりと、慌ただしく戦後処理、占領作業という名の後始末を行っているという訳である。
「残党が潜んでいる可能性もある! いや、潜んでいてくれ! で、襲い掛かってきたりしなぃかなぁ。そしたら、や、殺っちゃっても良いよな、な、旦那さま」
親指の爪を齧りながら、イッちゃってる目で物騒なことをぶつぶつと呟くヴァレリィ。
欲求不満も限界を超えて、彼女は殺人鬼みたいなことを言い出していた。
(あはは……。あれ、ウチの奥さんなんですよ? 早く逃げた方がいいんじゃね? 俺)
リュカが正直あまり見たくない妻の姿から目を逸らすのとほぼ同時に、廊下の向こう側から「サヴィニャック卿、少しよろしいかな?」と、しわがれた男の声が聞こえて来た。
ヴァレリィの金色の甲冑とは対照的な、煌びやかさの欠片もない武骨な甲冑姿。頭の禿げあがった初老の髭男である。
男の名はダン・スロワーズ。
黒鳳騎士団の団長にして、この度の遠征軍の全軍を束ねる総司令であった。
彼は年功によって総司令に任じられてはいるが、騎士階級でいえばヴァレリィとは対等。家格で言えば遥かに下。
その上、人望、実力ともに誰がどう見ても、ヴァレリィの方が上なのだ。
ゆえに彼にしてみれば、ヴァレリィは自分が率いる軍の一部隊長でしかないはずなのだが、頭ごなしに命令を出すことも出来ず、どうにもやり難そうであった。
「スロワーズ卿、なにか?」
ヴァレリィがそう問いかけると、彼は「うむ」と一つ頷いて髭を撫でる。
「つい先ほどのことなのだが、実は王太子殿下より国境の駐屯地経由で、『鳩』が届いてな」
「王太子殿下から?」
「うむ、それがヴェルヌイユ姫殿下が近々、兵たちの慰問にお越しになるというのだ」
「慰問? なぜでしょう? 戦局は大して動いておりませんし、兵たちが疲弊しているというほど長引いている訳ではありませんが……」
普通、王家のそれも継承権第二位という大物が戦場を訪れようというのであれば、相応の理由があって然るべきなのだが。
「知らんよ。文面を拝見する限り殿下もお困りのご様子であった。大方、処女姫殿下の気まぐれでいらっしゃるのだろう。貴卿も存じておるとは思うが、実に奔放な方であられるからな」
「お目通りしたことはございませんが、お噂は……」
「とはいえ、全軍で姫殿下をお待ちするという訳にもいかん。そこで貴卿には、駐留部隊を率いてこの城砦に残ってもらいたいのだ」
「バカな!?」
途端にヴァレリィがスロワーズに喰ってかかる。
「こちらに来てからまだ、まともに敵と剣を交えてもいないというのに、貴卿は私にここに留まれとおっしゃるのですか!」
「し、しかたがあるまい。王太子殿下のご指名なのだよ」
ヴァレリィの剣幕に、スロワーズがたじたじと仰け反る。
「はぁああ!? 指名? なぜです! 私は姫殿下に御目通りしたことなどございませんが?」
「知らんよ。それにたとえ指名がなくとも、貴公ぐらいにしか、あの姫殿下のお相手はできまいて。口に出すのは憚られるが、男の身ではなにかと差しさわりがあるのだよ」
「ぐっ……ぐぬぬ!」
ヴァレリィはとてもではないが、返事を出来る様子ではない。 完全にブチ切れている。どう見てもギリギリ理性を保っているような状態だ。
「わかりました、喜んで拝命いたします」
しかたなく、すぐそばにいたリュカが口を挟んだ。
「ん? なんだ、貴様は?」
「団長の下で副官を務めております、リュカ・ヴァンデールと申します」
「ほう、貴様が噂のな……」
途端に、スロワーズの瞳に蔑むような色が浮かんだ。
大方、初心な公爵令嬢を垂らしこんだ放蕩息子とでも言われているのだろう。
「姫殿下は三日後に王都を出られるとのこと。徒歩の者はあらぬゆえ、おそらく十日程度でこちらへ御着きになることであろう。くれぐれも粗相のないようにな!」
スロワーズはリュカの方へ向き直ると、ヴァレリィに対するのとはうって変わって高圧的な口調でそう言い捨てて、そのまま足早に去っていった。
ヴァレリィは怒り心頭と言った様子。彼女の相手をするのはどう考えてもリュカの他にはおらず、今晩どれだけ頭を撫でさせられるのだろうかと、彼は思わず深いため息を吐く。
彼の手から指紋が消える日は、それほど遠くはないように思えた。