リュカの手首が()った丁度その頃。遠く離れた王都サン・トガンでは、王太子バスティアンが東の離宮に自身の伯母、ヴェルヌイユ姫を訪ねていた。

 バスティアンの表情は浮かない。正直に言って気が重いのだ。

 実の伯母ではあるが、会わずに済むのなら会いたくない人物でもある。彼自身、伯母には好かれていないという自覚もあるし、好かれたくもないという思いもある。

「姫殿下、王太子殿下がお見えです」

 ヴェルヌイユ姫の寝室の前、屋敷に彼を迎え入れた初老の執事が扉越しにそう声を掛けると、向こう側から物憂げな声で返事が聞こえてきた。

「……かまわん、通すがよい」

「どうぞお入りください」と扉を開けた執事が、腰を折って彼を(うなが)す。そしてバスティアンは開いた扉の向こう側、そこにある光景を目にした途端、盛大に眉を(ひそ)めた。

 部屋の中央には天蓋(てんがい)付きの豪奢なベッド。特別に(あつら)えさせたベルベットの寝具の上に(なま)めかしく寝そべる女の姿がある。

 四十を過ぎているとはとても思えない若々しい美貌。瓜実(うりざね)型の上品な輪郭に肉感的な厚い唇。蒼い目を物憂げに細め、寝乱れた金色の髪を掻き上げる女。彼の伯母、ヴェルヌイユ姫であった。

 彼女は黒のショーツにガーターベルト、シースルーのショールを羽織っただけのあられもない姿。室内に男の姿はないが、胸元には情事の直後であることを思わせる珠の汗が浮かんでいる。

 バスティアンは扉の内側に足を踏み入れると、不快げな表情を隠そうともせずに口を開いた。

「伯母上もお変わりのないようで」

「うむ、大儀である。少々はしたない恰好ではあるが、まあ許せ」

「少々……ですか」

 何も知らなければ、場末の娼婦かと見まがうような下品極まりない姿である。不愉快さも(あら)わに眉を(ひそ)めつつ、彼は周囲を見回す。メイドと女騎士。部屋の隅には二人の女が控えているのが見えた。

 たしか、黒髪の騎士装束の女が伯母直属の騎士団団長のオリガ、銀髪のメイドの方は確かステラノーヴァ、そういう名前だったと記憶している。

「なんじゃ? 不満そうじゃの。そんな顔をしても可愛がってはやれんぞ。お主は血が繋がっておるからの」

 彼女は(なま)めかしく身を(よじ)って、物憂げにバスティアンを見上げる。

「まさか伯母上と血が繋がっていることを、神に感謝することになろうとは思ってもみませんでしたな」

「はっ! 言いよるわ」

 ヴェルヌイユ姫はコロコロと喉を鳴らして笑う。だがそんな彼女の足を目にして、バスティアンは怪訝(けげん)そうに目を細めた。彼女の右足、その膝から下が添え木とともに包帯でぴっちりと固められているのが見えたのだ。

「ところで、その足は、どうなさったのですか?」

 すると彼女は、不愉快げに唇を尖らせた。

「ベッドから転げ落ちたのじゃよ。痛みはひいておるのじゃが、ポッキリと折れておるゆえ、なかなか不便で困っておる」

 自業自得とはこういうことを言うのだろう。バスティアンは呆れたとでもいうように肩をすくめた。

「では、ここへ参ったのも無駄足だったかもしれませんね。そんな足では、戦地に慰問になど行けますまい」

「何を申しておる。行くに決まっておるじゃろうが。明日には(わらわ)のために造らせた車椅子と、車椅子ごと荷台に乗れる特製の馬車が届くことになっておるのじゃからな」

「は? なにもそんな状況でご無理をなさる必要はありますまい」

「馬鹿か、お主は。兵たちは命を懸けて戦っておるのじゃぞ。(わらわ)だけが安穏としておる訳にはいくまいて。それに、たまには王族としての務めを果たさねば、兄上に叩き出されかねんからのう」

 そう言って彼女はさもおかしげにカラカラと笑い、彼は苦々しげに頬を歪める。

(命がけで戦っている兵士のため? よくもまあ、ぬけぬけとそんな戯言(たわごと)を言えたものだ)

 どう考えてもそれが本当の目的ではないだろう。実際この伯母のことゆえ、只の気まぐれということもあり得るが、何かしらよからぬことを企んでいる可能性もある。せいぜい兵士や捕虜の中から、見目麗しい男を見繕おうとしているとか、その程度のくだらないことだとは思うが。

「戦局は落ち着きつつあるのかえ?」

「数日中にはキルフェ城砦が陥落する見込みです、慰問であればその城砦までに(とど)めてくださると、私としては助かりますね」

「ふむ、(わらわ)とて最前線まで押しかけて、我が騎士たちに迷惑を掛けるつもりもない」

「それでは段取りが整いましたら、またここへ参りますので」

「うむ」

「では、私はこれで」

 彼がそう言って背を向けると、ヴェルヌイユ姫は思い出したかのように、その背に向かって声を掛けた。

「そうじゃ、ヴァレリィなる騎士が遠征に参加しておると聞いておるが……」

「ヴァレリィ? かの者がどうかなさいましたか?」

 バスティアンが振り向くと、彼の伯母はにんまりと口元を歪めてこう言い放った。

「なかなかの美形だと聞いておる。そのキルフェ城砦とやらには、その者はおるのじゃろ?」

「ふむ、それでは伯母上の饗応は、彼女に任せるよう指示しておきましょう」

「彼女? なんじゃ……女か、ヴァレリィと申す者は。(わらわ)はてっきり……」

「ご期待に添えず申し訳ありませんな」

 確かに男性にもヴァレリィという名の者はいる。彼女が戦場に出向こうという理由がヴァレリィの噂を聞きつけてということならば、とんだ笑い話である。

 つまらなさそうに唇を尖らせるヴェルヌイユ姫の姿に、バスティアンは苦笑いを浮かべて部屋を後にした。

 だが、彼の姿が部屋から無くなった途端、ヴェルヌイユ姫はにんまりとイヤらしい微笑みを浮かべて壁際に控えていた二人の方へと顔を向けた。

「これで良かろう」

 計画はもう動き出している。順調といっても良いだろう。

「オリガ。どうじゃ? 例の物は手に入りそうか?」

「はっ! 問題ございません。丁度良いモノはなかなか見つかりませんが、ご出発までには必ず」

「うむ。ではオリガ、お主は下がってよい。ステラノーヴァ、お主は(わらわ)のそばにおれ」

「仰せのままに」

「うん」

 (ひざまず)くオリガ、幼児のような返事をするステラノーヴァ。二人の姿を満足げに見据えると、ヴェルヌイユ姫は窓の方へと目を向ける。

 そして彼女は夜空に赤い星を見つけ、「()い夜じゃ」と、かすかに口元を歪めた。