私たちは順調に南下を続けていた。毎日交代で運転し、交代で助手席に座って酔っ払った。風に吹かれながら、穏やかに揺れる海を眺める。空に浮かぶカモメに声をかけ、優しい波の声を聴く。
 人生をやり直しているわけではない。忘れ物を取りに来たのだ。形などなく、だからこそ色褪せたりせずにずっと持ち主を待っている忘れ物、人生の一かけらを。
 山間の道を抜けたところにひっそりと建っていたその民宿は、昔ながらの日本家屋を改築したもので、大きな筆文字の看板が風流だ。遠くに滝の音が聞こえ、木漏れ日を浴びるその家屋は、さながら映画のワンシーンのようだった。ここに泊まることは、相談するまでもなかった。

 「すいません」

 扉を開けながら声をかける。今どき珍しい土間が私の心を鷲掴みにする。

 「はいはーい」

 奥から出てきたのは三十くらいと思われる女性だった。肩までの髪が清楚な感じだ。

 「今晩、部屋は空いてますかね」

 私が聞くと、その女性は「少々お待ち下さいね」と言い、奥に向かって「お母さん、お客さん」と声をかけた。

 「すいません。私、ここで働いているわけではないので、店のことはよく分からないんですよ」

 首をかしげて微笑む姿は昭和の懐かしさを湛えており、私は意味もなく小津安二郎を思い出した。
 やがて姿を現したお母さんに案内され、私と笠縫氏は二階の部屋に通された。道路に面したその部屋からは遠くの景色がよく見える。山間から覗く太平洋が白い雲をまとい、その中をカモメたちが舞っていた。

 「シゲちゃん、やったなあ。日当たり良好眺めよし。昔ながらの日本家屋に若い娘つき。ははは」
 「なんだいゲンちゃん、鼻の下伸ばして」
 「変な意味じゃねえよ。親子でやってるっていうのがいいんじゃねえか」
 「本当かい?」
 「・・・・・・それが健全な男の子、ってもんだろうよ」

 おそらく伸びきっているであろう私の鼻の下を眺めながら、笠縫氏は声を絞り出すように唸った。とりあえず、彼の意見には同感だ。私もまた、健全な男の子なのである。女性に対する興味が失せては男ではない、というのは笠縫氏の意見だ。
 断っておくが、老いらくの恋がしたい、というような考えは持っていない。ただ、綺麗な女の人を見ると楽しくなるのが男という生き物だろう。
 日が暮れるまではまだ時間がある。民宿ロマンに想いを馳せる前に、もう少し辺りを探索しようということになった。部屋まで案内してくれたお母さんにおすすめの場所を聞き、車を走らせることにした。
 お母さん情報によると、このすぐ近くに有名な滝があるということだった。曰く、その滝で取れる水は「マイナスイオンだかなんだか」を一杯含んでおり体によく、その水で作ったラーメンが人気なのだそうだ。「マイナスイオンだかなんだか」とラーメンのよく分からない繋がりが気になり、私たちは荷物を置いてすぐに出発することにした。
 車に乗り込むと、笠縫氏が呟いた。

 「俺ァよく分からねえんだけどさ、マイナスイオンて何だ?そんな栄養分みたいなもんだっけか?」
 「本当はそういう、体にいいようなものじゃないんだけどね」
 「ラーメンにしたら、ますます意味がなくならないか?」

 そういうことは言いっこなしである。
 その滝は確かに民宿のすぐ近くにあった。歩いて来ても十分やそこらだったろう。そういえば民宿の近くから滝の音が聞こえていた。景色を楽しむことも兼ねて、徒歩で来てもよかったかもしれない。
 二十メートルほど上から、ごうごうと唸り声を上げて流れ落ちる滝はまるで生き物のようで、滝壺から舞いあがる水しぶきは、さながら呼吸のようだった。テレビでしか見たことのないような、豪快で美しい景色だ。私たちはその巨大な滝の前で立ち尽くした。
 その滝から少し離れたところに、そのラーメン屋はあった。ぽつんと、まるでお供え物のように存在していた。私の想像に反し、夕暮れの街角でやっているような屋台で、その屋台にオプションとしてもれなくついてくるような、いかにも屋台の親父然とした初老の男性が腰に手を当てて立っている。客は一人いるだけだ。

 「シゲちゃん、あれだ。マイナスイオン。でもなんか想像と違うなあ」
 「ほんとだねえ。僕ももっと立派な店を想像していたよ。なんかこう昔話とかに出てくるような、窓から淡い光が漏れている日本家屋とかね」
 「ほんとだよなあ。マイナスイオンも勝手に取ってんだろうなあ」
 「そうだろうねえ」
 「まあ、それはそれ。とにかく食ってみようじゃねえか」

 席は全部で六つしかなく、そのうち一つはすでに埋まっている。眼鏡をかけた青年が熱そうにラーメンを食べていた。

 「いらっしゃい」

 ドスの効いた声と軽い物言いが、妙に親しみやすい。

 「お、お客さん。さてはこの滝に魅せられてやってきたね。分かるんだよ、そういう客は。俺もこの商売長いからねえ」

 そういう客しか来ないと思うのだが、彼はそんなことはお構いなしで喋り続ける。

 「お客さん、目当てはこのスープだね?この滝の水で作られた秘伝のスープ。そうだろう、そうだろう。コイツで作ったラーメンは絶品だって、色んな所から人がやって来るんだ」
 「じゃあ早速二つ。俺はとんこつ、シゲちゃんは?」
 「そうだね。僕は味噌にしよ・・・」
 「ちょいと待ちなって、お客さん」

  屋台の親父がぐいと顔を近づける。

 「確かに俺は見ての通り、この道一筋のラーメン屋だ。何でも作れるぜ。でもな、お客さん。この滝の水の美味さを引き出すには醤油と塩が最高ってもんよ。よし決まった!醤油一丁、塩一丁ね!」

 満面の笑みを浮かべながらぽんと手を打った。

 「おいおい、勝手に決めてもらっちゃ困るよ」

 笠縫氏は、文句を言いながらもどこか楽しげだ。

 「何言ってんだい、お客さん。横のお兄ちゃん見てみな。お兄ちゃんだってちゃーんと醤油ラーメンだ。ちゃんと分かってんだよ。な、お兄ちゃん?」
 「いや、俺はとんこつラーメンが・・・」
 「せい!」

 箸を振り、青年の言葉を遮った。箸についていたスープが青年にかかり、小さく「あつっ」と呟くのが聞こえた。しかし、屋台の親父はそんなこともお構いなしに続ける。マイペースな人だ。

 「悪いことは言わねえ。醤油と塩にしなって。ほら、空を見上げてみな」

 そう言って空に指をかざし見上げている。私たちも見上げてみた。横では青年もつられて上を向いている。滝の音の中を泳ぐ陽の光が水しぶきをうけ、木漏れ日が優しく降り注いでいる。まるで映画で見るような、綺麗な風景だ。

 「な?」

 顔をぐいと近づける。笠縫氏の頭上に浮かぶ「?」マークが見えるようだ。

 「お天道様も、醤油と塩がいいとおっしゃっておるのだ」

 そう言って渋い顔で腕組みをしている。笠縫氏も根負けしたらしく、がははと笑った。

 「分かったよ。じゃあ醤油一丁、塩一丁だ。シゲちゃんもそれでいいだろう?」

 私が何か言う前に親父が叫んだ。

 「了解!」

 そして笠縫氏と顔を合わせ、二人でがははと豪快に笑った。青年が不思議そうに私たちを見ていた。
 笠縫氏も気分が乗って来たのか、親父がラーメンを作っている間、横の青年に話しかけていた。

 「よお、お兄ちゃん。お兄ちゃんも旅行かい?」
 「ええ、一人旅なんスけどね。前の宿でこの滝の話を聞いて・・・」
 「この滝と、ラーメン屋、だろう?!」

 親父の大声が彼の声を遮る。

 「この滝とラーメン屋の話を聞いて、それで寄ってみたんス」
 「お、お兄ちゃんも旅かい。俺たちもなんだよ」
 「いいスねえ。俺もいつまでもこういうエネルギー持ってたいッス」
 「俺たちもお兄ちゃんくらいの歳でやっときゃよかったよ。やっぱ体力はあるにこしたことないからな。俺たちなんかよ、毎日宿に帰ったらもうクタクタだよ」

 笠縫氏は嬉しそうな笑みを見せながら、皺に眉間を作った。

 「いやあ、それでもかっこいいスよ。失礼ですけど、そういうお歳になってからこういうことやるのって、やっぱ俺くらいの年齢でやるより勇気いると思いますし」

 笠縫氏はますます嬉しそうだ。

 「まあ、人生色々だからよ。お兄ちゃんは何で一人旅なんかやってんだい?」
 「いや、あんまりかっこいい理由じゃないんスけど」

 そう言って恥ずかしそうに視線を下に落とした。

 「言っちまえ言っちまえ。安心しろ青年。俺たちが、はい、お待ち。醤油と塩ね。熱いうちに食べないとね。滝の水は、絶品!だからね。もちろん、俺が作ったからなんだけどよ。で、青年。俺たちがちゃんと受け止めてやるから、さあこの胸に飛び込んでおいで」

 いつの間にかラーメンを作り終わっていた親父が、机に肘をつけながら青年の前に陣取っている。驚く青年と私を横目に、親父はにやりと笑いながら続ける。

 「何もじもじしてんだ。人生の先輩が三人もいてんだ。これも何かの縁と思って言っちまいなって」
 「いや、別にもじもじしてるわけじゃないスけど、いきなりこられたらびっくりしますよ」
 「驚きと喜びは人生の着火剤だ」

 親父はいまいち意味の分からないことを、しゃあしゃあと言う。

 「ホント、たいした理由じゃないスよ。大学も辞めちゃって仕事も見つからないし、ここらで人生見つめ直すのもいいんじゃないかと思って」
 「それで引きとめる女の腕を振り払って出てきたってかい。泣かせるねえ」
 「いや、彼女はいないッスけど」

 すると親父は、「なんでぇ」と呟き、仕込みを始めた。

 私たちはラーメンをすすりながら青年の話耳を傾けた。湯気を立てるラーメンは滝のおかげなのか親父の腕なのか、確かに美味い気がした。しかし、一番美味いのはチャーシューだ。
 青年は地元の大学を二年で中退すると、正社員登録制度のある製菓会社でアルバイトを始めた。元来の性格もあり、彼は先輩社員たちとも仲良くなり、このまま正社員になれると思っていた矢先、会社が倒産してしまったらしい。寝耳に水だったと彼は言う。彼はショックを受けたがまだ二十二歳だということもあり、一度旅に出て人生を見つめ直そうと思ったのだそうだ。

 「大変だなお兄ちゃん。しかしまだ若い」

 仕込みが終了したのか、いつの間にか親父が戻って来ていた。

 「人生には色々あるもんだ。辛いこと楽しいこと。嬉しいこと幸せなこと、そして辛いこと。人生いろいろだけどよ、同じ国に生まれりゃ人生の壁の高さは似たり寄ったりだ。そのうち良くなるさ。でもな、誰かも歌ってたじゃねえか。高い壁の方が昇った時、気持ちいいもんなってよ。人生いろいろ、壁の高さもいろいろだ。楽な人生もありゃ辛い人生もあり、低い壁もありゃ高い壁もある。お兄ちゃん、壁から世界を見降ろして、笑おうじゃねえかい」

 がははと笑い、「トイレ」と言って屋台を出て行ってしまった。
 理解しにくい個所も多々あったが、親父なりに彼を励ましたのだろう。青年は何かを考え込むようにラーメンのスープを眺めていた。

 「はい、留守番ありがとさん」

 親父が戻って来た時には、三人とも何かを考えるように無言でスープを眺めており、親父は大層面喰っていた。

 「なんだこりゃ。おい、こんな雰囲気じゃ、俺も何か考え事した方がいいのかい?」
 「うん、そうしなって。親父さんも眺めるスープはあるだろう?」
 「おう、スープはこの中の誰よりも持ってらあ」

 そう言って仕込んだスープの鍋を覗きこんだが、ちょいと首をひねったかと思うとすぐに止めてしまった。スープはあっても悩みはないのだろう。
 帰りしな、「まいどねー」と手を振る親父に、どうしてここでラーメン屋をやっているのか尋ねてみた。親父はうーんと首をひねり、渋い声で答えた。

 「運命、だな」

 私たちが笑うと、親父もにかっと笑った。

 「人生そんなもんだ。要は信じてりゃいいんだ。信じてりゃ運命は裏切らねえ。男にはな、人生かけて信じなきゃいけねえもんがあるんだ。それが女とてめえの運命だ」


 青年は先を一切決めない旅をしているようで、今夜泊まる所も未定のようだった。じゃあ俺たちと同じ所に来いよという笠縫氏の後を、嬉しそうについてきた。
 民宿には当然のように空き部屋があった。聞けば、今日は私たち以外に客はいないのだそうだ。青年はそのまま部屋に案内してもらった。
 彼の部屋は私たちの部屋の隣で、お母さん曰くこの二つの部屋を含む、隣あう三つの部屋からの景色が最も綺麗なのだそうだ。私と笠縫氏が感動した山間から覗く太平洋は、その三つの部屋以外からだと山に隠れてしまうのだという。海に面する部屋はその三つだけなのだからそれは当然なのだが、そういった気遣いは嬉しかった。
 私と笠縫氏は部屋に戻ると、すぐに一階の風呂場へと向かった。タイル作りのその風呂は小さな銭湯といった感じで、地下水を汲んで薪で沸かしている。そう言われると急に疲れが取れるのだから人間の体というものは不思議なものだ。

 「ゲンちゃん、やっぱり薪はいいなあ」
 「ほんと、薪は違うなあ」

 二人とも差など分からないクセにいい加減なものである。試しに笠縫氏にガスと薪の違いを聞いてみた。

 「地下水汲んで薪で沸かすと、熱くてもちくちくしねえから、変なのぼせ方しねえんだよ」

 と、したり顔だ。これも映画で聞いたセリフだ。
 私たちは三十分以上もかけてゆっくりと湯につかり、旅の疲れを癒すと、風呂場の横にある食堂へと足を運んだ。すでに青年もいて、ちょこんと座っている。

 「早いねえ。先に風呂に入ればいいのに。気持ちよかったよ」

 私が言うと、青年は困った顔を作り、

 「だってなかなか出てくれないんですもん」

 と文句を言った。

 「人のせいにすんじゃねえ」

 笠縫氏は笑いながら青年の背中をばしばしと叩く。
 そうこうしていると、あの綺麗な女の人が部屋にやって来た。

 「すいませんね。今日はお客さんもいないもんだから、私もここでご飯を頂きますね」

 三人はほとんど同時に「どうぞ!」と、元気な声で言った。三人とも、健全な男の子だということだ。彼女は私たちのそんな様子を見て可笑しそうに笑っている。
 笠縫氏は青年に顔を近づけて言った。

 「俺は思うんだけどよ、やっぱこういう飯は風呂入ってさっぱりしてからの方がうめえんだよな。な、そうだろシゲちゃん?」
 「うん。汗も全部流してから落ちついて食べる料理は格別だよ」

 私は同意する。

 「いや、でも、もうすぐ料理も出てくると思いますし」
 「湯気立てながら飲むビールなんか、そりゃもう最高だ」
 「それに、ここの風呂は地下水を薪で沸かしているから、いくら熱くてもチクチクしないし、変なのぼせ方もしないんだよ」
 「ありゃあ都会じゃちょっと拝めえぜ。それをお兄ちゃん、もったいないことするねえ」
 「僕だったら考えられないねえ。それに、さっきラーメン食べたばっかりじゃ、そんなに空腹じゃないんじゃないかい?」
 「いや、時間は結構経って・・・」
 「人生の先輩の言うことは、素直に聞くもんだぜ」

 思えば私もずいぶん大胆になったものだ。しかし、あのお湯に浸かってからのビールを味わえば、この青年もきっと私たちに感謝するに違いない。そう思うと、罪悪感は湧いてこなかった。

 「お元気ですね」

 彼女がにこにこと笑いながら話しかけてくる。

 「そりゃあもう、旅なんて生まれて初めてなもんで、なんかこう随分と若返った気がしますよ」

 襖が空き、お母さんがビールを運んできた。娘を見て、あらまあ、という顔をしたが、そのまま廊下へと消えて行ってしまった。笠縫氏は青年の為に用意されたグラスを彼女に渡し、ビールを注ぐ。笠縫氏は彼女に注いでもらったビールを一気に飲み干し、くわーっと雁のような声を出した。雁が本当にその様に鳴くのかは知らないが、私のイメージではそう鳴く。
 彼女は亜希子さんといって、普段は東京で物流の仕事をしているらしい。時折休みをとって戻って来るとのことだ。

 「お二人はまたどうして旅を?」

 興味津津な様子で尋ねる亜希子さんに、笠縫氏は精一杯ハードボイルドな顔を作り、ビールを口に運びながら答える。

 「時代の流れ、というやつですかね」

 そこに青年が頭から湯気を立てながら部屋に入って来た。

 「お、早かったじゃねえか。もっと浸かってこい」
 「いやあ、十分堪能しました。いいお湯でした」
 「ちゃんと肩まで浸かったか?」

 青年は亜希子さんからビール瓶とグラスを貰うとひょこひょこと頭を動かしながらお礼を言い、私の横に腰を下ろした。すると、それを待っていたかのように晩御飯が運ばれてきた。
 うどんと天ぷらの盛り合わせだ。近くの港で上がったという魚の天ぷらは、ふっくらと華を咲かせており、美味しそうなきつね色をしていて、なんとも美味しそうだ。うどんの出汁は自家製で、湯気と香りが鼻腔を刺激する。同じく自家製のキュウリの浅漬けは、これはちょっといただけなかった。
 青年に乾杯の音頭をとらせ、みんなでグラスを持ちあげた。

 「乾杯!」

 グラスの中でビールが揺れ、白い泡を立てた。

 「で、お兄ちゃん、この後どうするんだい?行くあてとか、あんのかい?」

 笠縫氏が赤くなり始めた顔を青年に向けた。

 「行くあては特にないんスけど、俺写真とかビデオ撮るのが好きだから、行く先々で撮って、ホームページつくったり動画サイトにアップしたり。そういうの好きなんスよ」
 「へえ、パソコン得意なんだ」

 亜希子さんが感心したように言うと、青年は少し頬を赤らめた。

 「ええ、高校の頃から趣味でプログラミングとかもやってるし、結構いける方だと自負してます。それと」
 「それと?」

 三人の声が重なった。

 「見てみたい景色があるんスよ」
 「どんな?」
 「いやね、若いのによくいるじゃないスか。若いって言っても俺と同じくらいなんスけど、でかい事やってやるって息巻いてるの。でかい事って何だって聞いてみても答えらんないし、俺は今までそういうやつら馬鹿にしてたけど、今でも正直ちょっとは馬鹿だと思ってますけど、旅してたら馬鹿の仲間入りしていいかなって思う時があるんスよね」

 そう言って注がれたビールを飲み干した。

 「でも、有名になるとか金持ちになるとかそんなんじゃなくて、なんかこう、小さな事でもいいんス。小さくてでかいって何だそりゃですけど、あるじゃないスか。他人にはどうでもいいけど、自分には凄いでかくて、目に見えるもんじゃないけど、でも何かがガラッと変わって。うちの親父が言ってたんスけど、そういうの、自分にとって大切なものが見えるような風景があるらしいんスよ。それは人によって違うんスけど、でも絶対どこかにあるって。仕事もないし、無茶できるうちにそういうのやろうと思って」
 「見かけによらず、すげえなお兄ちゃん」
 「見かけによらずって何スか」
 「いやいや、見直したよ。俺たちも見習わないとなあ、シゲちゃん」

 なんだろう。とても嫌な予感がした。

 「よし、明日からの、三人での新たな旅に乾杯だ!」

 上機嫌でグラスを持ちあげる笠縫氏の横で、青年が目を丸くしている。自分で自分の顔を見ることはできないが、きっと青年と同じような顔をしていたと思う。亜希子さんは相変わらずにこにこ笑っている。
 笠縫氏はびっくりしている青年のグラスに無理やり自分のグラスを重ね合わせ、大声で叫んだ。

 「かんぱーい!」

 青年も勢いに負けてグラスを飲み干した。
 かくして、旅の仲間は三人に増えたのであった。


 この旅の目的は「何かを見つける」ことだった。ずっと不透明だった、その「何か」が、昨日少し見えたような気がした。もちろん、ただ「何か」だったものが「風景」となっただけで、不透明なことに変わりはない。だが、はっきりとした名詞で表現することで、私の頭の中で明確なビジョンに繋がることは確かだった。人生が変わる風景。それを探しに行くのだ。
 天が門出を祝ってくれているようなその快晴は、まるでこの旅が神の御加護を受けているような気持ちにさせてくれた。地球の裏側まで陽の光が届きそうなほどに晴れ渡っている。神様、ありがとう。
 私は昨日の酒が残る笠縫氏を叩き起こし、昨晩勢いで仲間になった隣部屋の青年を引っ張り出し、旅の支度を始めた。
昨晩、飲み進めるうちにだんだんやる気になってきた青年はすでに支度を終えていたが、彼を仲間に引っ張り込んだ張本人は酒が残っているようで、動きはひどく緩慢だった。笠縫氏を急かしながら青年と二人で笠縫氏の荷物を鞄に詰め込む。

 「そういえば」

 青年が何かを思い出したように口を開いた。

 「前の旅館で聞いたんスけど、ここから二時間くらい南に下ったあたりにめちゃくちゃ綺麗な海が見える場所があるみたいですよ。プロのカメラマンもよく来るみたいで、結構有名みたいッス」
 「そこ行くぞー」

 笠縫氏が呻いた。私と青年は顔を見合わせて笑った。
 亜希子さんとお母さんに見送られ、私たちは旅館を後にした。私たちは南へ進路を取る。まだ見ぬ大海原が私の中で広がり続けていた。
 空には、車と並走するカモメたちが浮かんでいた。初めてみるその光景に、私の胸は大きくはねた。

 「お兄ちゃんも飲むかい」

 笠縫氏がジョニー・ウォーカーのボトルを青年に差し出した。

 「ありがとうございます。でも遠慮しときます。酔ってちゃ海を堪能できないッスよ」
 「ははは、そうだな。じゃ、緑茶にするか。冷えてるのがあるんだよ」
 「あ、いただきます」

 サングラスをしていても、晴れた日の太陽は屋根のない車には少し厳しい。冷えた緑茶はあっという間になくなってしまった。
 やがて看板が見え、目的地が近付いてきたことを知らせた。その看板に従って右に曲がると、小さな駐車場に出た。観光客がたくさん訪れるとあって、さすがに整備されている。トイレや自動販売機も設置されていた。

 「ここからちょっと歩くみたいッスね。そこの案内板に書いてありました」

 青年が指さす先には案内板があり、その横に小さな立札があり、矢印が書いてある。どうやらその方向に進めということらしいが、その矢印の先は鬱蒼と生い茂る林だ。なるほど、秘境への道のりは険しいということか。
 私たち一行は一列になり、青年を先頭に歩き出した。駐車場とは違いほとんど整備されていない小道は右へ左へ曲がりながら下って行く。
 しばらく行くと光が差し、開けた場所へ出た。
 海だ。
 壮大な景色が目の前に広がり、私たちを包み込む。三人はゆっくりと前に歩み、横一列になって目の前の景色を眺めた。ここに来るまでに結構歩いたと思うが、疲れは感じなかった。疲れを忘れたと言ってもいい。私たちはただ、目の前に広がる海に心を奪われた。
 果てなどないように、どこまでも広がるその壮大な海は、水平線の向こうで空と混ざり合い、そこから伸びるように広がる雄大な雲は白く大きい。海の青と空の青、そして雲の白はそれぞれ独立し、調和し、尊重しあうように互いの存在を際立たせている。
 圧倒的な大きさがそこにはあった。
私たち三人はただただ無言でその風景にひれ伏していた。

 「どうよ、お兄ちゃん」

 笠縫氏が前を向いたまま青年に尋ねる。

 「こんな景色、まだ日本にあったんスね」

 青年も前を向いたまま答える。

 「カメラマンが大勢来るってのも分かりますね。でも、こんな景色、ファインダー越しなんてもったいないや」

 その時だ。
 私は自分の中で何か電流のようなものが駆け巡るのを感じた。数か月前、スティーヴ・ウェインの「ある坂道の夏」を読んだ時に感じた感覚に似ているが、もっと鮮明で、もっと衝動的な何か。血液が全てアドレナリンに変わってしまったのではないかとも思えるほどの衝撃を受けた瞬間、走馬灯のように今までの思い出が私の頭の中を駆け巡った。
 少年の頃、いつも一緒に蝉取りに熱中したタカシ。私が肥溜めに落ちた時は笑うだけでなかなか助けてくれなかったタカシ。小学校の頃、初めてバレンタイン・チョコなるものをくれた隣の席のユミちゃん。チョコはその後タカシに食べられてしまったが、一口だけかじった時のあのほろ苦さは今でも忘れない。
 妻と初めて会ったのは裁判の傍聴席だった。傍聴マニアの友人に連れられて行ったのだが、千二百円を食い逃げしたのしないのという裁判など私には面白いはずもなく、なんとなく周囲を見回した時に目に入ったのが、私以上につまらなそうにしている女性だった。彼女もまた傍聴マニアの友人に連れてこられたのだという。押しの強い傍聴マニアを友人に持ってしまったことの悲哀を二人で嘆くうちに仲良くなった。
 やがて交際が始まり、結婚を決意した時、真っ先にお祝いに駆けつけてくれたのは、もう何年も会っていなかったタカシだった。やはりタカシは大切な友人だと再認識した瞬間だった。
 娘が生まれた十三年前の夏。彼女の産声ほど美しい音楽は聴いたことがなかった。曇り空のはずの空に浮かぶ星が、やけに眩しかった。
 上司に呼び出されクビを宣告された日は、私の心情を映したかのような空模様だった。茫然と立ちすくむ私を、うっとうしいもので見るように眺め、「もう帰っていいよ」と言った上司のとげとげしい視線、追い払うように掌を振る冷たい態度。状況を受け入れることも跳ね返すことも出来ずに、ただ仰ぎ見た雲はどんよりとした灰色だった。
 起きると荷物と家族が消えていたあの日。三人で積み重ねた十三年もの年月が脆くも崩れ去った家の中で、私を包み込んだ孤独は、いばらのように私の心に突き刺さった。
 オープンカーに乗って風を切って走る私と笠縫氏は、自由の申し子だった。ジョニー・ウォーカーをラッパ飲みし、世界を謳歌する私たち二人を止められる者など存在しなかった。
 これだ。この景色だ。この景色が私にとっての“風景”だ。私は確信した。そうだ、間違いない。

 「ああ。凄い。こんな景色なかなか拝めないッスよ」

 青年が感嘆の声を上げた。その通りだ。なかなか拝めない。ましてや体中を電流が駆け巡る景色など、そうあるものではない。
 どれくらいの間そうしていただろう。私たち三人は夢見心地でその場に立ち尽くしていた。誰も何も喋らなかった。それは車に乗ってからも同じで、沈黙が私たちを包み込んでいたが、決して気まずい沈黙ではなく、むしろ爽やかな静けさで満たされていた。