ジャッカスさんに礼を言い、俺はドーナツ屋を後にする。結局のところ、根本的な問題は何も解決してないなと思った。

 けれど、ジャッカスさんもジャッカスさんなりに、俺を元気づけようとしてくれている気持ちは伝わった。

 このまま、ドーナツ片手に家に帰るつもりは無い。いつまでもクヨクヨしても何も変わらない、一人でジメジメしてても良い事なんて無い。

 畳のようにタイルの敷かれた地面を歩き、駅から離れて道に出る。右には電気屋の入ったビル、左にはKのつく電気屋。電気屋に挟まれたこの道も、電気屋になるんじゃないかって思うと笑えてしまう。

 そんな下らない話は置いておいて、俺は電気屋の交差点を左折した。少し歩くと左は小高い丘になっていて、その上の大きな建物はTV局のスタジオだ。実は梨花がこの街がいいと行った理由は、従兄が住んでいるというだけではないのだった。

 俺は過去に何度か姉が寝込んだ時に、代役としてテレビに出演させられている。成長した現在では無理かもしれないが、ここに用事が出来るのだけは勘弁だと思った。

 姉よ、本当に健康体で居てくれよ。俺はこのスタジオを見る度に、そんな想いを抱かずにはいられないのだった。

 そして、たった今。道往く人に「ホイップのダテリカさんですか?」と聞かれた。俺は「違う」と、だけ言って通り過ぎた。

 ショートヘアで男子の制服を着ているアイドルが、どこに存在するっていうんだ。後ろからシャッターの音がしたけれど、無視して俺は足を進めた。ネットに載せられた所で、何のダメージも受けやしない。

 しばらく歩くと、向かいにショッピングセンターの入ったビルのある十字路に出る。ここを渡って左に行けば相原の家で、真っ直ぐ行けば天の家だ。

 信号待ちをしている隙に、箱の中身を確認する。色とりどりのドーナツ、砂糖の甘くて良い匂い。思わず伸ばしかけた手を止めて、箱を急いで閉めた。

 これは天と俺の為に、ジャッカスさんが用意してくれたものだ。彼女に会うまで、一個も口には出来ない。

 それにしても、さっきのアレはなんだったんだろう。

 ジャッカスさんが天の話をした時、いきなり何処かの内臓が痛んだ。まともに声が出せないくらいの苦しみ、無意識に右手は心臓を抑えていた。今だって、少し似たような気持ちになっている。鼓動がオカシイ、胸が締め付けられるような感じ。

 そして今思うと、これって今朝、教室で覚えたものと似ているような気がした。

 この感情は何だろう、無性に腹が立つんだけれど。自分を押し殺した筈でも、腹の底からふつふつと謎の感情が沸いてくる。

 そうなると、天もこのよく分からない感情を持っていたって話になる。この妙なモヤモヤを彼女は何処で抱えて、どう処理したのかは分からない。

 だから、聞くんだ。ちゃんと会って、彼女の口から聞くんだ。そして君の為に出来る事があれば、俺が用意できるものなら全て整える。思い通りに行かなくなって、君と過ごした日々を思い出したんだから。

 言葉に出来ない気持ちが、それこそが想いだっていうんなら。消えちゃう前に、その意味を君と見つけたい。

 天の家は洋風なロッジな感じの、洒落たレンガみたいな一軒家だった。似たような家が周りにあるのだから、建て売りか何かだったんだろう。

 俺は携帯電話を取り出し、天の番号へと掛けてみる。八、九回くらい、呼び出し音が鳴ってから切れた。悲鳴をあげそうになった心を、右手でグッと抑えた。

 インターフォンを鳴らした。予想通り、無反応だった。本当に居ないのかもしれない、という可能性が頭を過ぎる。だからと言って、帰ってしまうもんか。

 俺はどうしても今日、天に会いたいんだ。会って話がしたい、気持ちを伝えたい、今日の事を謝りたい。それだけなのに、そんな簡単そうなことなのに。

 それだけが、こんなに難しいなんて思わなかった。

 右も左も分からないままで、今まで此処まで来てしまった。行ける合図も何も無いのに、なりふり構わず走っていたんだ。追いつけない姿が、段々と奥へ小さく萎んでいって。気づいた時に取り戻せるか、どうか不安になっていたんだ。

 だけれど、もしも。天が俺を待っていてくれるのなら、すぐにでも追いつけるように。行けるように。一度だけのチャンスだって、取りこぼさない。決して消してしまわないように、この手で掴んでみせる。

「……おっしい」

 声に顔を上げると、天が立っていた。オレンジ色に染まっていたのを見て、夕日の存在に気が付いた。どれだけ俺は、考え事に集中していたんだろうか。

「帰って」と天が言った。目が赤いのは、夕日のせいじゃないんじゃないかと思った。彼女の眉間のシワを見て、二の足を踏みそうになった。でも、これが一度だけのチャンスだったら、俺は取りこぼしたくない。

 俺は持っていた袋を、天の前へと押し付ける。彼女の表情が、少し歪んだような気がした。

「……何これ?」

「ジャッ……相原の兄貴からだ!」

 ジャッカスさんと言いそうになって、俺は口をつぐんだ。誰がつけたのかは知らないが、こんなバカみたいなあだ名は今出すべきじゃない。

「……あ、ありがと」

 ドーナツを受け取った天に追い打ちを掛けるように、俺は言葉を繋げる。

「天。前にジャッ……相原の兄と、手ぇ繋いで帰った事があるらしいな」

 俺の台詞に、天は再び眉間にシワを寄せる。

「それが何? おっしいに関係ないでしょう?」

「ああ、そうだけど。俺……それ、聞いた時。こう……ここ」

 話しながら、どこかの内臓は痛んでいる。無意識に右手は心臓を抑えていた。

「なんか、ここ痛くって!」

 天は俺の話を黙って聞いていた。表情からは、感情は読み取れなかった。クロとは違って、気持ちを読み取る魔法は使えない。だから、せめて自分の出来る精一杯を伝える。

「今朝、天から貰った痛みに似てたんだ! だから、もし……」

 気が付いたら、目から熱いものが流れていた。声は自分でも分かるくらい泣き混じりで、格好悪くて仕方ないけれど、それでも全部伝えたいんだ。

「俺のせいで、こんな気持ちにさせてたんだとしたら……。本当に……ごめん」

 涙のせいで、彼女の顔はぼやけていた。本当は可愛くって素敵な女の子なのに、歪んだ視界がそれをまともに見せてくれなかった。

 突然、手を引かれた。

 重力に逆らうか、引っ張られるように天の方へと身体が動いた。

 手には天の感触、濁った視界のせいで彼女の顔は見えなかった。

 家のドアを開けて、突き飛ばすように天が玄関へと押しのけた。頭は真っ白でまともに前が見えない俺は、足がもつれて倒れそうになる。

 このまま頭を打ち付けると思ったけれど、後ろからまた引っ張られた。

 そう思った瞬間、背中全体に包まれるような温もりを感じた。

 ドアが閉まる音、俺は涙を拭ってふり返る。天が俺を後ろから抱きしめていた。

「ずるいよ、おっしい……」

 泣いているのかもしれない、天の台詞も涙交じりだった。

「そんなこと、言われちゃったら。僕は……あたしは」

 その台詞と共に、天の抱きしめる力が少し強くなった。

「もっと、好きになっちゃうじゃん。おっしいの、こと……」

「えっ」

 どういう意味なのか。聞こうとした口を閉じて、俺は彼女の言った台詞を考えてみた。もっと、は取り合えず置いておいて。好きになっちゃうって、まるで好きになっちゃいけないみたいな言い方だと思った。

「好きに……なっちゃ、駄目なのか? 俺の……こと」

「…………」

 天は答えなかったけれど、身体が少し震えていたような気がした。彼女には言えない理由があるのかもしれない、前世とやらが関係しているのかもしれない。でも、今の俺には知ったこっちゃない。

 抱きしめた手を握って、深呼吸して。素直になれたなら、ありのままの自分見せられるんだ。

「そらっ! 俺は、お前の事、好きだ!」

 布団の中、風呂の中、最近色々考える。その履歴で、他の履歴が全部消えてしまう。この構造が恋じゃないっていうんなら、何なのか教えて欲しいくらいなんだ。好きだけを伝えるために、どれくらい勇気やパワーを使ったのかはもう分からないんだ。

「僕の……あたしの好きは、おっしいが思っているような好きじゃない」

「…………?」

 俺が思っているような、好きじゃないって何だ。好きに種類があるという話なんだろうか。友情の好きと、家族に対する好きだとか言うつもりか。

「じゃあ、何で。今、お前は泣いてんだよ?」

 その涙の理由は何だって思った。友情なんだってしたら、俺をもっと好きになっちゃいけない理由なんて一つもない。

「僕は、あたしは……前世の、クラウディアが好きな気持ちを。……おっしいに向けている、だけっ……なの、かもしれないのに……」

 嗚咽交じりで、天はそう言った。また前世か。いい加減、俺は腹が立ってきた。こいつもクロも、きのみさんもアオさんも。

 アオさんは違うか。とにかく、前世だか、前科だか、全裸だか知らないけれど。

 いい加減もう、うんっっざりだ。

「おっしいを、好きになるっ……資格なんて無いよぉ」

 抱きしめる天の手を振りほどいて、俺は彼女と向き合った。涙でグシャグシャの顔だけれど、それがどうしようもなく愛しく感じた。

 見られたくなかったのか、天は顔を隠そうとする。俺はその両手を掴んで、彼女の唇に触れた。

 本日二回目のキスは、涙の味がしたのに。

 さっきより、心が満たされた気がした。

 沢山の愛に包まれたような瞬間に、触れられたような感覚。きっと、もっと君のことを深く知りたいんだって、気づいたら少しは臆病でもいいって思ったんだ。

「シカクなんて要らない」

 俺は目を閉じたまま、唇を離して言った。

「目に見えるものが、全てじゃない」

「…………ぷっ」

 暫くの無言の後、小さな笑い声が聴こえた。

「そっちの視覚じゃないよぉ……」

 瞳を開くと、好きな子が笑顔になっていた。

 瞬きした瞬間に、確かに彼女に恋をしたって思った。今度は正面から、俺は手を伸ばして掴む。ありったけの愛で包むつもりで、天を抱きしめた。