「おっと黙秘か、分かった。長丁場には慣れてるぞ、俺は。なんせ、朝から此処に居たくらいだ」

 思いもよらない台詞に、今度はコーラをむせそうになった。

「サボったって事ですか?」

「サボリじゃない。次の戦に向けて、英気を養っていた所だ」

 ものは言いようってあるけれど、彼の場合はただの屁理屈なような気がした。

 ジャッカスさんが再び本を広げた。意外にも軍事関係の書籍だったけれど、突っ込むのも野暮だとか思った。

 そして、この人は本気で、俺を待つつもりなんだって思った。この人にとっては、ただの暇つぶしなのかもしれないけれど。何故だかその姿勢を見て、罪悪感を覚えてしまった。

「何で皆、俺なんかの為にそこまで……」

 わかば先輩やクロだけじゃなく、今こうしてジャッカスさんですら何かをしようとしてくれている。

 俺なんかの為に、みんなが自分の時間を使ってくれている。こっちは何も出来ないっていうのに、そこまでしてくれる義理なんて全く無いっていうのに。

「俺なんか……か」

 ジャッカスさんが本を閉じて、改めて俺と向き合った。

「昔話をしよう、三か月前の話だ」

 三か月前の話が昔話かというと、違うと思うけれど。ジャッカスさんの中ではそうなのかもだから、俺は黙って耳を傾ける。

「一回、みぃなチャンを怒らせた」

 ジャッカスさんは何故か、わかば先輩のことをみぃなチャンと呼ぶ。皆結希って名前だからだろうけれど、妙なあだ名だ。それを言ったら、ジャッカスも変だな。

「……って、わかば先輩怒らしたんですか」

 あの人は目つきは鋭いけれど、人相は悪くない。消防士みたくムキムキだけれど、話してみると穏やかだ。身体大きい人間は心も広いんだろう、と勝手に思っていた。

「いや、余程のことを俺が言ったせいもあるんだけどさ」

 ジャッカスさんは、恥ずかしそうに後頭部をかいた

「……なんて?」

「一人っ子には、妹居る奴の普通は分からない。みたいな感じだっけかな?」

 今の台詞に少し驚いたのは、ジャッカスさんが言った余程の話ではない。わかば先輩が一人っ子ってのが、意外過ぎたんだ。てっきりクロみたいに、弟や妹の世話を焼いているから、面倒見がいいのかと。

「俺も勢いで吐いた台詞だし、その後すぐメシ奢って仲直りはしたんだけどさ。未だに何で、逆鱗に触れたかは分かってない」

 ざわついた心が残像を作り出す。苦しみから抜け出すヒントが、そこにあるような気がした。

「そっか」と何か思いついたのか、ジャッカスさんが両手をペチンと叩いてから席を離れた。

 今度は何をするのか分からないけれど、本当に思いつきで行動するような人なんだなって思った。

 考えずに動けるのは、ひとつの才能なんじゃないかって思ってきた。朝、ドアを開けたらカーニバルが始まって、準備はオッケーで。楽しければいいんじゃない、悩みだって動じない。凹んじゃう時も沢山あるだろうけれど、ああやって泳いでいけるんだろうな。羨ましいかもしれない。

 ジャッカスさんは何やら、紙袋を携えて戻ってきた。何ですか、これは。って聞いてみる前に、俺に押し付けられた。

 砂糖やクリームのいい匂いがした。中を覗くと、ドーナツのお持ち帰り用の詰め合わせだった。思いもよらないものを渡されて、俺は驚愕を通り越してキョトンとしてしまった。

「みぃなチャンだって、メシ奢ったら許してくれたんだ。お前も、それで機嫌をだな!」

 この人はやっぱり、馬鹿なのかって思った。先ほどの話を聞いて、ご馳走したから許したって誰が思うんだ。だけれど、その気持ちは少し嬉しかった。

「ありがとうございます。あの……今度、小遣い入ったら」

「いらん」

 俺の言葉を遮るように、ジャッカスさんは言った。

「お前が高校生になった時。悩んでいる奴が居たら、似たような事をしてやりゃあいい」

 出世払いだ。とジャッカスさんは、グーにした手で親指を立てた。やっぱり、相原の兄だけあって。わかば先輩の親友だけあって、良い人だと俺は再認識した。

「……ちなみに、相手が天ちゃんだったら、スマン」

「えっ」

 いきなり天の名前を出されて耳を疑った。心の中を読まれたのか、と思ったからだ。しかし、よく考えてみれば俺と違って、彼女は相原と幼馴染だ。何度か家に来た日が、あるのかもしれない。

「俺、天ちゃんと手ぇ繋いで帰った事があるからさ……」

 ジャッカスさんがそう言った瞬間、いきなり何処かの内臓が痛んだ。

 今まで、経験したことの無い痛みだった。まともに声が出せないくらいの、苦しみが俺を襲った。

 何処だって探してみたけれど、無意識に右手は心臓を抑えていた。

 鼓動がオカシイ、って思った。動きが速くなっている訳でもないのに、動きがある度に胸が締め付けられるような感じだ。

 前言撤回だ。相原の兄なのに、わかば先輩の親友だってのに。俺はこの人をロクでもない人だと、思ってしまった。大体、何でアンタが天と手を繋いでいるんだよ。

「いやいや、待て待て。天ちゃんとは、なんもない」

 上級生を慌てさせるほど、表情に出てたのかもしれない。俺の様子を見て、慌ててジャッカスさんは弁解を述べる。

「何も無い奴は、なんもないって言わないんじゃないんですか?」

「いやいや、何それ。誰がそんな事言った?」

「あんたですよ」と俺は言った。ジャッカスさんは少し考えた後、顔を少し青くした。

 ここまで慌てる理由って何だ。やましい事があるからじゃないのか、と俺は問う。ジャッカスさんは否定した。

「俺は妹の友達だけには手を出さない」

 自分の妹を利用して、後輩とそういう仲になる奴はクソだ。友達に居たとしても許せない、とジャッカスさんは言った。口では何とも言えますよね、と俺は言った。

「風の強い日があって、危ないから送ってっただけだ。看板でも飛んできたら、危ないだろう」

 あり得ない、そんな簡単に飛ぶ看板なんてあってたまるか。

「それにもし飛んできたとしたら、どうなるんですか? まさか殴って壊すとかですか?」

「人間が出来ることじゃないな」とジャッカスさんは苦笑いをした。

「でも、送っただけなのは事実。何なら天ちゃんに確認すればいい。そして、それを見られて、俺は当時の彼女に振られた」

 ジャッカスさんの恋愛事情なんて知らないけれど、とりあえずCDとドーナツの件もある。これ以上問い詰めるのも、男らしくないかもしれない。それが事実なら、後で天に確認すればいいだけだし。

「じゃあ、何で。そんな慌ててたんですか?」

 俺の言葉にジャッカスさんはバツの悪そうな顔をして、目を背けて呟いた。まるで探偵に殺しの動機を白状する犯人みたいだって思った。

「……光の友達に悪く思われたくなかった」

「シスコンかアンタは!」

 でも、そう考えてみれば単純な話だった。俺に構うのも、頼りになる所を見せたいのも、そうであるならば合点がいく。

 俺も俺でブラコンなので、クロの友達には悪く思われたくはない。何度目かの前言撤回。やっぱり、相原の兄だけあって。わかば先輩の親友だけあって、ジャッカスさんは悪い人なんかじゃない。