びゅーびゅーと聞こえる風の音、頬に感じる冷たい空気にゆっくりと目を開けると、のぞみは紅に抱かれて空を飛んでいた。
下を見ると、都はもう遥か彼方に、小さくなっている。
「紅さま……!」
のぞみは紅にしがみつく。
大好きな彼の香りに包まれて、ようやく少しだけ安心できた。
紅がのぞみを抱きしめて、苦しげに口を開いた。
「すまなかった。私がそばについていながらのぞみを危ない目に合わせてしまって。大神が女好きなのは知っていたけど、まさか人間ののぞみにまで興味を持つとは思っていなかったんだ」
彼にしがみついたまま、のぞみはふるふると首を振る。
もちろん怖かったけれど、あれは彼のせいではない。
それに彼はのぞみを救い出してくれた。
「……このまま山神神社へ帰ろう」
紅がそう言った時、ギャアという鳴き声がして、のぞみはびくりと肩を揺らす。
紅が腕に力を込めて、鳴き声の主に文句を言った。
「のぞみが怖がるからやめてくれ」
「申し訳ありません、紅さま」
天狗の相棒カラスだった。
のぞみはホッと息を吐く。
カラスがギャアギャアと話しはじめた。
「紅さま、女将からの伝言です。結婚のお許しをいただきに、大神さまのところへ参られるなら、蛇娘にはお気をつけて」
「……それ伊織も言ってたな」
カラスがギャアと頷いた。
「近ごろでは、有名な話です。案内役が蛇娘に代わってから、大神さまの元を訪れたカップルの成婚率は一割を切っております。蛇は他者の幸せがなによりも嫌いですゆえ、きっとなにか紅さまにも嫌がらせを……」
紅が小さく舌打ちをした。
「……女将の忠告は、少しばかり遅かったよ」
「は⁉︎ え? では、紅さま……」
「女将に伝えてくれ。今夜の予約はキャンセルだ。私たちはこのまま……山神神社に帰る」
大きなため息をついてから、首を傾げるカラスにそう告げて、紅はさらにスピードを上げる。
カラスがギャアと頷いて、天狗の山に消えてゆく。
豆粒みたいに小さくなったあやかしの都をジッと見つめて、のぞみは紅の浴衣を握りしめた。
「あやかし使いってなんですか」
猛スピードで変わる景色の中、のぞみは紅に問いかける。
耳慣れない言葉だったが、さっきのぞみの身に起きたことが、それに関係していることは確かだと思う。
紅が少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「……巫女、陰陽師、それ以外に人間の世界でどう呼ばれていたかは知らないけれど、古来より人間でありながらあやかしと深い関係を築いていた一族だ」
「深い関係を……?」
「そう、本来はあやかしは、あやかしが姿を現そうとした時にだけ、人間の目に見えるものなんだ。でもあやかし使いの一族は、はじめからあやかしを見ることができる。それから、不思議な魅力でもってあやかしを思うままにすることができる」
そう言って紅は少し意味深な目でのぞみを見る。
のぞみは「あ」と呟いた。
はじめて山神神社を訪れた日、のぞみにははじめからかの子が見えた。
「あやかし使いの一族は、どんな強力なあやかしも手名づけたと言われている。そして人間の世界でも地位を築き、いつの時代かには帝にまで上り詰めたという話だよ」
思いがけない紅の話。
でものぞみには、確かに思いあたるフシがある。
はじめて保育園へ行ったあの日、子供たちは、はじめから人間であるのぞみを受け入れてくれた。
「でも……、でも私そんなの知らないです。お父さんもお母さんも本当に普通の人で……」
「うん、古い古い言い伝えみたいな話なんだ。あやかし使いの一族はもうとっくの昔に解体したと言われているからね。それでもその子孫は残っていて、日本中に散らばっている。子孫といってももうその血もうっすらとしか流れていないから、私たちもなんとなくそうなのかなと思う程度なんだけど」
「あやかし使いの血……」
呟いて、のぞみは紅の横顔を見つめる。銀色の髪が風になびいて日の光に輝いていた。
「紅さまは気が付いていたんですか。……私がそうだと……」
「まあね」
「……いつから?」
紅がうーんと首を傾げた。
「ずっと不思議だとは思っていたんだ。子どもたちがすぐに懐いたからね。それで、もしかしたらと思いはじめて……確信したのは颯太と志津が夫婦になっていると知った時だったんだけど」
「あ、お兄ちゃん」
のぞみはまたもや声をあげる。
紅が頷いた。
「狐は特に警戒心が強いんだ。ぞぞぞを稼ぐ必要もないから簡単に人に姿を見せたりはしないはず」
それなのにふたりが出会ったのは、颯太にもはじめから志津が見えたからだというわけか。志津の方は颯太の中のあやかし使いの血に惹かれていった。
そしてそれはおそらく……。
「紅さまも」
「ん?」
「い、いえ、……なんでもありません」
のぞみはゆっくりと首を振る。その先を今確認する気にはなれなかった。
代わりにもうひとつ、気がかりなことを口にする。
「でも、あんなことをして大丈夫なんですか? 大神さまを怒らせたりして……」
大神は逃がしはしないと怒り狂っていた。この先いったいどうなってしまうのか、まったく予想がつかなくて不安だった。
「心配はいらないよ」
紅のその言葉にも納得はできなかった。
「で、でも、すごくお怒りだったじゃないですか……」
「だからって、のぞみを大神の妃になんてできないじゃないか」
のぞみの言葉を遮るようにそう言って、紅はギュッと腕に力を込める。
そしてのぞみの耳に囁いた。
「大神の許しなんていらないよ。サケ子は真面目だからああ言うけれど、長の中にだって、好き勝手に結婚してる者は五万といる。……だからのぞみはなにも心配しないで」
それはきっと、そもそも大神に結婚を反対されていない場合だ。
のぞみと紅の場合は、それとはまったく違うはず。
でものぞみはもうなにも言うことはできなかった。
「見えてきた」
紅の呟きとともに顔を上げると、視線の先にキラキラと輝く青い海、緑の山の頂上に山神神社が見えてきた。
下を見ると、都はもう遥か彼方に、小さくなっている。
「紅さま……!」
のぞみは紅にしがみつく。
大好きな彼の香りに包まれて、ようやく少しだけ安心できた。
紅がのぞみを抱きしめて、苦しげに口を開いた。
「すまなかった。私がそばについていながらのぞみを危ない目に合わせてしまって。大神が女好きなのは知っていたけど、まさか人間ののぞみにまで興味を持つとは思っていなかったんだ」
彼にしがみついたまま、のぞみはふるふると首を振る。
もちろん怖かったけれど、あれは彼のせいではない。
それに彼はのぞみを救い出してくれた。
「……このまま山神神社へ帰ろう」
紅がそう言った時、ギャアという鳴き声がして、のぞみはびくりと肩を揺らす。
紅が腕に力を込めて、鳴き声の主に文句を言った。
「のぞみが怖がるからやめてくれ」
「申し訳ありません、紅さま」
天狗の相棒カラスだった。
のぞみはホッと息を吐く。
カラスがギャアギャアと話しはじめた。
「紅さま、女将からの伝言です。結婚のお許しをいただきに、大神さまのところへ参られるなら、蛇娘にはお気をつけて」
「……それ伊織も言ってたな」
カラスがギャアと頷いた。
「近ごろでは、有名な話です。案内役が蛇娘に代わってから、大神さまの元を訪れたカップルの成婚率は一割を切っております。蛇は他者の幸せがなによりも嫌いですゆえ、きっとなにか紅さまにも嫌がらせを……」
紅が小さく舌打ちをした。
「……女将の忠告は、少しばかり遅かったよ」
「は⁉︎ え? では、紅さま……」
「女将に伝えてくれ。今夜の予約はキャンセルだ。私たちはこのまま……山神神社に帰る」
大きなため息をついてから、首を傾げるカラスにそう告げて、紅はさらにスピードを上げる。
カラスがギャアと頷いて、天狗の山に消えてゆく。
豆粒みたいに小さくなったあやかしの都をジッと見つめて、のぞみは紅の浴衣を握りしめた。
「あやかし使いってなんですか」
猛スピードで変わる景色の中、のぞみは紅に問いかける。
耳慣れない言葉だったが、さっきのぞみの身に起きたことが、それに関係していることは確かだと思う。
紅が少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「……巫女、陰陽師、それ以外に人間の世界でどう呼ばれていたかは知らないけれど、古来より人間でありながらあやかしと深い関係を築いていた一族だ」
「深い関係を……?」
「そう、本来はあやかしは、あやかしが姿を現そうとした時にだけ、人間の目に見えるものなんだ。でもあやかし使いの一族は、はじめからあやかしを見ることができる。それから、不思議な魅力でもってあやかしを思うままにすることができる」
そう言って紅は少し意味深な目でのぞみを見る。
のぞみは「あ」と呟いた。
はじめて山神神社を訪れた日、のぞみにははじめからかの子が見えた。
「あやかし使いの一族は、どんな強力なあやかしも手名づけたと言われている。そして人間の世界でも地位を築き、いつの時代かには帝にまで上り詰めたという話だよ」
思いがけない紅の話。
でものぞみには、確かに思いあたるフシがある。
はじめて保育園へ行ったあの日、子供たちは、はじめから人間であるのぞみを受け入れてくれた。
「でも……、でも私そんなの知らないです。お父さんもお母さんも本当に普通の人で……」
「うん、古い古い言い伝えみたいな話なんだ。あやかし使いの一族はもうとっくの昔に解体したと言われているからね。それでもその子孫は残っていて、日本中に散らばっている。子孫といってももうその血もうっすらとしか流れていないから、私たちもなんとなくそうなのかなと思う程度なんだけど」
「あやかし使いの血……」
呟いて、のぞみは紅の横顔を見つめる。銀色の髪が風になびいて日の光に輝いていた。
「紅さまは気が付いていたんですか。……私がそうだと……」
「まあね」
「……いつから?」
紅がうーんと首を傾げた。
「ずっと不思議だとは思っていたんだ。子どもたちがすぐに懐いたからね。それで、もしかしたらと思いはじめて……確信したのは颯太と志津が夫婦になっていると知った時だったんだけど」
「あ、お兄ちゃん」
のぞみはまたもや声をあげる。
紅が頷いた。
「狐は特に警戒心が強いんだ。ぞぞぞを稼ぐ必要もないから簡単に人に姿を見せたりはしないはず」
それなのにふたりが出会ったのは、颯太にもはじめから志津が見えたからだというわけか。志津の方は颯太の中のあやかし使いの血に惹かれていった。
そしてそれはおそらく……。
「紅さまも」
「ん?」
「い、いえ、……なんでもありません」
のぞみはゆっくりと首を振る。その先を今確認する気にはなれなかった。
代わりにもうひとつ、気がかりなことを口にする。
「でも、あんなことをして大丈夫なんですか? 大神さまを怒らせたりして……」
大神は逃がしはしないと怒り狂っていた。この先いったいどうなってしまうのか、まったく予想がつかなくて不安だった。
「心配はいらないよ」
紅のその言葉にも納得はできなかった。
「で、でも、すごくお怒りだったじゃないですか……」
「だからって、のぞみを大神の妃になんてできないじゃないか」
のぞみの言葉を遮るようにそう言って、紅はギュッと腕に力を込める。
そしてのぞみの耳に囁いた。
「大神の許しなんていらないよ。サケ子は真面目だからああ言うけれど、長の中にだって、好き勝手に結婚してる者は五万といる。……だからのぞみはなにも心配しないで」
それはきっと、そもそも大神に結婚を反対されていない場合だ。
のぞみと紅の場合は、それとはまったく違うはず。
でものぞみはもうなにも言うことはできなかった。
「見えてきた」
紅の呟きとともに顔を上げると、視線の先にキラキラと輝く青い海、緑の山の頂上に山神神社が見えてきた。