「さぁ、部屋に戻ろう!」
 紅が意気揚々として立ち上がり、のぞみをひょいと抱き上げる。
 のぞみは慌てて彼の首にしがみついた。
「ふふふ、のぞみ。私たちの夜はまだ終わらないよ」
 見下ろして意味深なことを言う紅に、なんだかものすごく嫌な予感がしてのぞみは恐る恐る口を開いた。
「こ、紅さま、そ、それはつまり……?」
「今すぐに部屋に戻って夫婦になろう!」
 高らかに宣言をして、紅は今にも飛び立とうとする。
 のぞみはそれを慌てて止めた。
「ええ⁉︎ 今すぐですか⁉︎ ちょっ、ちょっと待ってください」
 ついさっきまで、夫婦になれるかどうかすらわからずに思い悩んでいたというのに、正直いってそこまでの心の準備はできていない。
 だが、紅にはそんなことは関係ないようだ。
「今すぐに夫婦になりたいと、かわいいお願いをしたのはのぞみだろう?」
 平然としてそんなことを言う。
 その彼になんとか思い止まってもらいたくて、のぞみは彼に反論した。
「だって紅さま、まだ大神さまのお許しをもらってないじゃないですか」
「そんなのあとあと! 事後承諾で大丈夫。ちゃあんと説得してみせるからね」
 軽い調子でそう言って、紅はまた飛び立とうとする。
「待ってくださいってばっ!」
 ジタバタと暴れて、のぞみは彼に問いかけた。
「事後承諾でいいって、そもそも、大神さまを説得するための切り札っていったいなんなんですか⁉︎」
「……あれ? まだ言ってなかったっけ」
 首を傾げて、ようやく紅の動きが止まる。
 のぞみはホッと息を吐いて、頷いた。
「……聞いていません」
 すると紅が、少し考えてから口を開いた。
「本当に最近気が付いたことなんだよ。そしてすごく単純なことなんだ。つまり私たちは……」
 と、紅がそこまで言った時。
 どどーん‼︎ ばりばりばり!
 凄まじい雷鳴が突然夜の空に鳴り響き、のぞみはびくりと肩を揺らす。
 紅がのぞみを腕でかばい、辺りを警戒し始めた。
 冷たい風が強く吹いて、森の木々がざざざと鳴る。
 眠っていた鳥たちがギャアギャアと鳴き声をあげながら夜空に飛び立っていった。
「嵐?」
 空を見上げて、のぞみは呟く。
「いや、違う」
 紅が低い声で囁いた。
「雲がない。……のぞみ、よく覚えておくんだよ。雲の伴わない雷鳴は、龍が来ているという証」
「龍が……?」
「そう、大神のお出ましだ」
 おおーん!
 心の臓まで響くような鳴き声が、夜の山に響き渡る。
 同時に、沈みゆく月の方向から緑色の龍が姿を現した。
 のぞみは紅にしがみつき、息を呑む。龍から目が離せなかった。
 これほどまでに美しく、恐ろしいものをのぞみは見たことがない。
 長く鋭い牙と爪、翡翠色に輝くうろこ、黄金の髭。
 でも、ギョロリとした目、ぐねぐねの立髪、それから天高く伸びるツノは、たしかに御殿で会った大神と同じだった。
 大神は、暗いはずの森の中で、抜け目なくのぞみたちを見咎めて、すぐ近くまでやってきた。
 そしてのぞみたちの目の前でおおーん!と雄叫びをあげた。
 よく見るとその大神の尻尾にはなにかがくっついている。
 のぞみは目を見開いて彼らを呼んだ。
「ふぶきちゃん! 伊織さん!」
 そして思わず手を伸ばす。
 それを慌てて紅が止めた。
「危ない! のぞみ!」
「だって、落ちたりしたら怪我しちゃう! ふぶきちゃんこっちへおいで!」
「大丈夫だ。ふぶきは大神の娘だよ。落ちたりはしないさ。それより……」
「愚かだな」
 紅の言葉をさえぎって、大神が口を開いた。
 吸い込まれそうな緑色の瞳がじろりとのぞみを捉えている。
 のぞみの背筋がぞぞぞとなった。
「自分の心配をしたらどうだ。人間の女よ。私はお前を捕まえに来たのだぞ」
「愚かのはお前の方さ、大神。自らこんなところまできて、結局目的は果たせずにおめおめと都に帰ることになるのだから」
 紅が強気で言い返す。
 大神がぐぬぬぬぬと唸って、身体をぐねぐねとさせた。
 尻尾のふたりが振り落とされやしないかとのぞみはハラハラしてしまう。
 だがさっき紅が言った通り、ふたりともしっかりと掴まっていて簡単には振り落とされなさそうだ。
「甘い顔をしておれば、つけあがりやがって! もう許さん、さっさとその女子をよこせ!」
 また雷鳴が鳴り響く。
 ばりばりばりと凄まじい音を立てて大神のツノから放たれる緑色の光が一目散にのぞみ目がけて飛んでくる。
 紅の赤い竜巻きがその光を跳ね飛ばすと、光は曲がって夜の空に消える。
「ぐぬぬぬぬ!」
 大神が悔しそうに唸り声をあげた。
 確かに誰かが言った通り紅には、大神に匹敵する力があるようだ。のぞみひとりなら守りぬけるという彼の言葉は本当だった。
「ぐぬぬぬね!」
 唸り声とともに、大神のツノからまた光が放たれる。それをまた余裕でかわして紅が肩をすくめた。
「無駄なことはやめておけ、大神。どんなことをしても、のぞみはお前のものにはならないよ」
「なにを寝ぼけたことを言う。この世の女子は、すべて私のものなのだ。私が欲しいとひと言言えば、手に入らぬ女子などいない‼︎」
 横暴なことを言って、大神はまた光を繰り出す。
 それをまたあっさりかわして、紅が頷いた。
「ま、それはそうかもしれないね。……ただし」
「ただし?」
「ただし、他のあやかしと"約束"を交わした女子以外はね」
 そう言って紅はにっこりと微笑んだ。
「…………なぬ?」
 大神がぴたりと動きを止めて、緑の瞳を見開いた。
 首を傾げて、のぞみは紅を見上げた。
「約束?」
「約束とな?」
「そう」
 紅が機嫌よく頷いた。
「私とのぞみは夫婦となり生涯離れないと、約束を交わした仲なんだ。こんな約束を交わした女子はたとえ大神でも手出しはできないだろう。……な、伊織?」
 青い顔をして大神の尻尾にしがみついていた伊織は紅の言葉にハッとして、大神の尻尾からふわりと離れる。
 そして大きくズレている丸いメガネを整えてから大神に向かって平伏した。
「あやかしにとって、約束は絶対にございます。もしもそれに背くことあらば、たましいを取られますゆえ、約束を交わした女子はたとえ大神さまでも、手に入れることは不可能にございます」
 伊織の言葉を聞きながら大神が紅をじーと見つめる。そしてスッと目を細めて、突然ぶはっと吹き出した。
「わっはっはっは‼︎ 約束をかわしたとな! ふはははは! なかなかおもしろい冗談だ。だがわしを納得させたいなら、もう少しマシな嘘を申せ‼︎ そのような嘘にわしが騙されるはずがなかろう!」
「う、嘘ではありません!」
 伊織が慌てて口を開いた。
「約束を交わした女子は大神さまのものには……」
「そうではない!」
 大神はそう言って、アゴで紅を指し示した。
「こやつが! あやかしの女子という女子を総なめにしてきたこの男が、ひとりの女子だけを妻にするという約束などするわけがなかろう!」
 そう言って大神はまたわっはっはっは!と笑い出す。
「な……! なんて、ことを言うんだ‼︎」
 紅があたふたとして、のぞみの耳を両手で覆った。
 その手を払い除けて、のぞみはじろりと彼を睨む。
「紅さま?」
「と、とにかく!」
 紅が大神に向かって声を張りあげた。
「私たちが約束を交わしたことは事実なんだ! 大神といえども邪魔はできないよ」
「ふん!」
 大神が鼻を鳴らした。
「絶対に嘘に決まっておる。そんな約束をしてしまったらもう二度と他の女子に手を出せなくなるのだぞ。そんな約束、よりによってお前が! するわけがない」
「な……! だから失礼な奴だな! 約束は本当だ!」
「信じられん」
「絶対に本当だ!」
「絶対に嘘だ! いい加減な天狗め! おぬしのいうことなど誰が信用できるか」
「やれやれ。こんな石頭が大神では、先が思いやられるな。……しかも女好きだし」
「お、おぬしの方が女好きであろう⁉︎ 忘れたのか? 昔おぬしが……」
「あのー、大神さま?」
 そのうち、あっかんべーとでも言い出しそうなふたりのやり取りを、遠慮がちに止めたのは、伊織だった。
「……なんだ」
 伊織は汗を拭いて頭を下げた。
「あのー……非常に残念な話なのですが、私が調査したところによると、その……紅さまの話は本当でございます。はい」
「なぬ⁉︎ それは確かな調査結果なのか?」
「はぁ。……実は紅さまが約束されるところを見た者がおりまして」
 そう言って伊織が手をもじもじさせる。
 大神がまた声をあげた。
「なぬ⁉︎ 約束など普通はひっそりとやるものだ。その目撃者とやらは確かに見たのだろうな。嘘や間違いでは許さんぞ」
「はぁ。それがその……こちらにございます」
 そう言って伊織が振り返ると、あやかし園の方向からぞろぞろと出てきたのは、縄張りのあやかしたちだった。