そんな気がした。
「だから、今までのことは水に流してくれるかい? なにしろ私もこれほどまでに愛おしいと想う女子ははじめてだからさ……どうも勝手がわからない」
ふぅーと長い息を吐いて、紅がやや情けない声を出す。そしてぽりぽりと頭をかいている。
その様子にのぞみは思わず笑みを漏らす。とてもこの縄張りの頂点に立つ長の姿とは思えなかった。
「ふふふ、たくさんの女の人と付き合っていたこともですか?」
でもそこまで言った時、ふと頭に御殿での出来事が浮かぶ。そしてある重要なことを見落としていたことに気が付いた。
紅がのぞみを大切に想ってくれていることは確かだ。もうそれに不安を感じたりはしていない。
でも、だったらなおさら、最近の紅の行動は不自然だった。
のぞみはゆっくり顔を上げる。そして恐る恐る問いかけた。
「あのー、紅さま?」
「なんだい、のぞみ」
言いながら、紅がのぞみに口づける。
ちゅっちゅと音を立てて、頬に瞼に首筋に。もうすっかり仲直り完了のムードだった。
のぞみはそれを心地よく感じながらも、流されまいと気を引き締める。
この際だからふたりの間に横たわる、すべての憂いを晴らしてしまいたい。
のぞみはこくりと喉を鳴らす。そして意を決してその言葉を口にした。
「紅さまが私とのことをちゃんと考えてくださっていたことはわかりました。でもだったらなおさら……どうして……どうして真剣に大神さまを説得してくださらなかったんですか」
「……え?」
嬉しそうにのぞみのこめかみに口づけていた紅が肩をぎくりとさせてぴたりと止まる。
のぞみはそこへたたみかけた。
「大神さまを説得するための切り札があるんでしょう? それなのに、どうして?」
問題の核心を口にして、のぞみは彼をジッと見つめる。
でも彼はすぐに答えなかった。
いたずらが見つかった子どものようにようにあさっての方向を向いている。
その姿に、のぞみはピンときた。
頭の中に浮かぶのは、絶対に違うと否定したこづえの意見だった。
もし紅がマリッジブルーなのだとしたら、聞いたら拍子抜けするようなバカみたいなことが理由だと。そんな理由、あるはずないとのぞみは思っているけれど……。
「だって……」
紅が深いため息をついて、仕方なしに口を開いた。
「のぞみはいつもいつも子どもたちが一番じゃないか。それこそ、えんが生まれてからは、暇があれば抱いてやっている」
のぞみは黙って彼の話に耳を傾ける。でも頭の中ははてなマークでいっぱいだった。
のぞみが子どもたちを大好きだとしてそれのいったいなにが、ふたりの結婚と関係あるのだろう。
まったく検討がつかなかった。
首を傾げるのぞみの肩を紅の大きな手がガシッと包む。
そしていつもの彼からは想像もつかないほど、真剣な眼差しで話し始めた。
「いいかい? のぞみ、夫婦になれば子ができるかもしれないだろう?」
いつになく鬼気迫るような紅に、やや圧倒されながら、のぞみはこくんと頷いた。
でもまだ彼の言わんとすることは分からなかった。
子ができたらいったいなんだというのだろう。
「子ができたら……」
子ができたら?
「子ができたら、"のぞみの一番"が、私ではなくなってしまうじゃないか」
「…………はぁ?」
間の抜けたのぞみの声が夜の森に響いた。
「ななななにを言ってるんですか!」
素っ頓狂な声をあげて、のぞみは目をパチパチさせる。
でも紅はあくまでも真剣だった。
「のぞみの一番好きな相手が、私ではなくなるなんて、そんなこと私には耐えられない。耐えられないんだよ!」
「ええ⁉︎」
また声をあげて、でも続きの言葉を見つけられず、のぞみは口をパクパクさせる。
この人はいったいなにを言っているのやら!
紅が悔しそうに眉を寄せた。
「えんが生まれてから、のぞみはえんに夢中じゃないか。えんを抱いている間は私に触られたくないなんて言うくらいに」
そういえばそんなことを言ったかなと、のぞみは思う。でも確かあれは、保育士として頑張らなければ人間の自分はここにいる価値がないと思って不安になっていた頃に口から出た言葉だった。
それにそもそも勤務時間中に園長が保育士に抱きつくこと自体があってはならないことなのだから、至極真っ当なお願いだ。
でもそんな常識は彼には通じないようだった。
「えんでさえ、あんなに可愛がっているんだ。自分の子ができたら、それこそ私は放ったらかしになってしまう。こづえが言っていたじゃないか。子ができたら旦那がうっとおしく思えると……!」
そう言って紅は心底恐ろしいというように身体をぶるりと震わせる。
そして低い声で白状した。
「だからもうしばらくは婚約中のままでもいいかなと思っていたんだよ……」
しょんぼりとして頭を下げるその姿に、のぞみは思わず吹き出した。
「そんなことで⁉︎ ふふふ、はははは!」
そしてそのまま、お腹を抱えて笑ってしまう。静かな夜の森にのぞみの笑い声が響いた。
おかしくてたまらなかった。
のぞみが予想した通り、紅はマリッジブルーだった。なんとかして結婚を先延ばしにしようとしていた。
でもその理由は、拍子抜けするようなことだった!
「笑いごとではないよ、のぞみ」
紅がやや憮然として、口を尖らせた。
「私はのぞみが大好きなんだ。ずっとずっとのぞみの中の一番でいたいんだよ」
「紅さまだって」
目尻の涙を拭きながらのぞみは彼に反論した。
「子どもたちが大好きじゃないですか。あやかし園の子どもたちは自分の子みたいにかわいがっているでしょう? 本当に自分の子ができたらきっとかわいくて仕方がなくなると思いますよ」
「それは……、そうかもしれないけど……。でものぞみには私が一番のままでいてほしいんだよ」
「そんな無茶苦茶な!」
のぞみはまた笑い出す。
夫婦になったふたりのもとにかわいい赤ん坊がやってくる、そんな光景が頭に浮かび、幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。
紅がのぞみの頬に手をあてた。
「のぞみ、約束してくれるね? 赤ん坊ができても今と変わらず私を好きでいてくれると」
切実なその問いかけに、のぞみはまだ笑いから抜け出せないままに、首を横に振った。
「そんなの、お約束できません」
「ええ⁉︎」
紅が情けない声を出す。
のぞみはふふふと微笑んだ。
「ずっと変わらずなんて、そんなこと、無理だと思います。だって夫婦になったその先には長い長い道のりが待っているのでしょう? 子どもができて、歳を重ねて……ずっとずっとそばにいたら、私きっと今よりもっと、紅さまを大切に想うようになるはずです」
「のぞみ‼︎」
感情を爆発させて、紅がのぞみを抱きしめる。
「ああ、なんて愛おしいんだ‼︎」
温かい彼の胸に顔を埋めてのぞみはゆっくり目を閉じた。
「ふふふ、こづえさんの言う通りだった」
こづえが予想した通り、マリッジブルーの正体には本当に拍子抜けさせられた。
やっぱり彼女は、のぞみにあやかしのことをおしえてくれる、よきアドバイザーだ。
でもその呟きに、紅は眉を寄せて反応した。
「こづえの?」
「ふふふ、こづえさんが言ってたんです。もし紅さまがマリッジブルーだとしたら、きっと拍子抜けするようなことが理由だって」
「マリッ……なんだって?」
「マリッジブルーです。婚約中の恋人同士が、本当にこのまま結婚してしまっていいのかなって、少し憂鬱になることです。こづえさんが、私たちはそうなんじゃないかって言って……」
「のぞみー……」
紅がのぞみを抱いたまま、がっくりと肩を落とした。
「なんでもかんでもこづえに相談するのは、ちょっとどうかと思うんだ……」
「ふふふ、でも紅さまだって、こづえさんの言うことに振り回されているじゃないですか」
「それは……そうかもしれないけれど」
元をたどれば、紅はこづえの『子ができれば旦那がうっとおしくなる』という言葉をきっかけにマリッジブルーに陥ったのだ。
本当に、おかしくてたまらなかった。
「ふふふ、お互いさまですよ」
こんな風に気楽にものを言い合えるこんな時間が愛おしい。言いたいことも聞きたいことも飲み込んで、苦しかったあの時間が、嘘のようだった。
背中に回した腕に力を込めてのぞみはゆっくり目を閉じる。
そして心の底から願い続けた大切な想いを口にした。
「私、紅さまが大好きです。今すぐにでも夫婦になりたいんです。……お願いです、早く大神さまを説得してください」
のぞみの髪に口づけて、紅が愛おしげに囁いた。
「わかったよ。かわいいかわいいのぞみのお願いには、逆らえないからね」
「だから、今までのことは水に流してくれるかい? なにしろ私もこれほどまでに愛おしいと想う女子ははじめてだからさ……どうも勝手がわからない」
ふぅーと長い息を吐いて、紅がやや情けない声を出す。そしてぽりぽりと頭をかいている。
その様子にのぞみは思わず笑みを漏らす。とてもこの縄張りの頂点に立つ長の姿とは思えなかった。
「ふふふ、たくさんの女の人と付き合っていたこともですか?」
でもそこまで言った時、ふと頭に御殿での出来事が浮かぶ。そしてある重要なことを見落としていたことに気が付いた。
紅がのぞみを大切に想ってくれていることは確かだ。もうそれに不安を感じたりはしていない。
でも、だったらなおさら、最近の紅の行動は不自然だった。
のぞみはゆっくり顔を上げる。そして恐る恐る問いかけた。
「あのー、紅さま?」
「なんだい、のぞみ」
言いながら、紅がのぞみに口づける。
ちゅっちゅと音を立てて、頬に瞼に首筋に。もうすっかり仲直り完了のムードだった。
のぞみはそれを心地よく感じながらも、流されまいと気を引き締める。
この際だからふたりの間に横たわる、すべての憂いを晴らしてしまいたい。
のぞみはこくりと喉を鳴らす。そして意を決してその言葉を口にした。
「紅さまが私とのことをちゃんと考えてくださっていたことはわかりました。でもだったらなおさら……どうして……どうして真剣に大神さまを説得してくださらなかったんですか」
「……え?」
嬉しそうにのぞみのこめかみに口づけていた紅が肩をぎくりとさせてぴたりと止まる。
のぞみはそこへたたみかけた。
「大神さまを説得するための切り札があるんでしょう? それなのに、どうして?」
問題の核心を口にして、のぞみは彼をジッと見つめる。
でも彼はすぐに答えなかった。
いたずらが見つかった子どものようにようにあさっての方向を向いている。
その姿に、のぞみはピンときた。
頭の中に浮かぶのは、絶対に違うと否定したこづえの意見だった。
もし紅がマリッジブルーなのだとしたら、聞いたら拍子抜けするようなバカみたいなことが理由だと。そんな理由、あるはずないとのぞみは思っているけれど……。
「だって……」
紅が深いため息をついて、仕方なしに口を開いた。
「のぞみはいつもいつも子どもたちが一番じゃないか。それこそ、えんが生まれてからは、暇があれば抱いてやっている」
のぞみは黙って彼の話に耳を傾ける。でも頭の中ははてなマークでいっぱいだった。
のぞみが子どもたちを大好きだとしてそれのいったいなにが、ふたりの結婚と関係あるのだろう。
まったく検討がつかなかった。
首を傾げるのぞみの肩を紅の大きな手がガシッと包む。
そしていつもの彼からは想像もつかないほど、真剣な眼差しで話し始めた。
「いいかい? のぞみ、夫婦になれば子ができるかもしれないだろう?」
いつになく鬼気迫るような紅に、やや圧倒されながら、のぞみはこくんと頷いた。
でもまだ彼の言わんとすることは分からなかった。
子ができたらいったいなんだというのだろう。
「子ができたら……」
子ができたら?
「子ができたら、"のぞみの一番"が、私ではなくなってしまうじゃないか」
「…………はぁ?」
間の抜けたのぞみの声が夜の森に響いた。
「ななななにを言ってるんですか!」
素っ頓狂な声をあげて、のぞみは目をパチパチさせる。
でも紅はあくまでも真剣だった。
「のぞみの一番好きな相手が、私ではなくなるなんて、そんなこと私には耐えられない。耐えられないんだよ!」
「ええ⁉︎」
また声をあげて、でも続きの言葉を見つけられず、のぞみは口をパクパクさせる。
この人はいったいなにを言っているのやら!
紅が悔しそうに眉を寄せた。
「えんが生まれてから、のぞみはえんに夢中じゃないか。えんを抱いている間は私に触られたくないなんて言うくらいに」
そういえばそんなことを言ったかなと、のぞみは思う。でも確かあれは、保育士として頑張らなければ人間の自分はここにいる価値がないと思って不安になっていた頃に口から出た言葉だった。
それにそもそも勤務時間中に園長が保育士に抱きつくこと自体があってはならないことなのだから、至極真っ当なお願いだ。
でもそんな常識は彼には通じないようだった。
「えんでさえ、あんなに可愛がっているんだ。自分の子ができたら、それこそ私は放ったらかしになってしまう。こづえが言っていたじゃないか。子ができたら旦那がうっとおしく思えると……!」
そう言って紅は心底恐ろしいというように身体をぶるりと震わせる。
そして低い声で白状した。
「だからもうしばらくは婚約中のままでもいいかなと思っていたんだよ……」
しょんぼりとして頭を下げるその姿に、のぞみは思わず吹き出した。
「そんなことで⁉︎ ふふふ、はははは!」
そしてそのまま、お腹を抱えて笑ってしまう。静かな夜の森にのぞみの笑い声が響いた。
おかしくてたまらなかった。
のぞみが予想した通り、紅はマリッジブルーだった。なんとかして結婚を先延ばしにしようとしていた。
でもその理由は、拍子抜けするようなことだった!
「笑いごとではないよ、のぞみ」
紅がやや憮然として、口を尖らせた。
「私はのぞみが大好きなんだ。ずっとずっとのぞみの中の一番でいたいんだよ」
「紅さまだって」
目尻の涙を拭きながらのぞみは彼に反論した。
「子どもたちが大好きじゃないですか。あやかし園の子どもたちは自分の子みたいにかわいがっているでしょう? 本当に自分の子ができたらきっとかわいくて仕方がなくなると思いますよ」
「それは……、そうかもしれないけど……。でものぞみには私が一番のままでいてほしいんだよ」
「そんな無茶苦茶な!」
のぞみはまた笑い出す。
夫婦になったふたりのもとにかわいい赤ん坊がやってくる、そんな光景が頭に浮かび、幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。
紅がのぞみの頬に手をあてた。
「のぞみ、約束してくれるね? 赤ん坊ができても今と変わらず私を好きでいてくれると」
切実なその問いかけに、のぞみはまだ笑いから抜け出せないままに、首を横に振った。
「そんなの、お約束できません」
「ええ⁉︎」
紅が情けない声を出す。
のぞみはふふふと微笑んだ。
「ずっと変わらずなんて、そんなこと、無理だと思います。だって夫婦になったその先には長い長い道のりが待っているのでしょう? 子どもができて、歳を重ねて……ずっとずっとそばにいたら、私きっと今よりもっと、紅さまを大切に想うようになるはずです」
「のぞみ‼︎」
感情を爆発させて、紅がのぞみを抱きしめる。
「ああ、なんて愛おしいんだ‼︎」
温かい彼の胸に顔を埋めてのぞみはゆっくり目を閉じた。
「ふふふ、こづえさんの言う通りだった」
こづえが予想した通り、マリッジブルーの正体には本当に拍子抜けさせられた。
やっぱり彼女は、のぞみにあやかしのことをおしえてくれる、よきアドバイザーだ。
でもその呟きに、紅は眉を寄せて反応した。
「こづえの?」
「ふふふ、こづえさんが言ってたんです。もし紅さまがマリッジブルーだとしたら、きっと拍子抜けするようなことが理由だって」
「マリッ……なんだって?」
「マリッジブルーです。婚約中の恋人同士が、本当にこのまま結婚してしまっていいのかなって、少し憂鬱になることです。こづえさんが、私たちはそうなんじゃないかって言って……」
「のぞみー……」
紅がのぞみを抱いたまま、がっくりと肩を落とした。
「なんでもかんでもこづえに相談するのは、ちょっとどうかと思うんだ……」
「ふふふ、でも紅さまだって、こづえさんの言うことに振り回されているじゃないですか」
「それは……そうかもしれないけれど」
元をたどれば、紅はこづえの『子ができれば旦那がうっとおしくなる』という言葉をきっかけにマリッジブルーに陥ったのだ。
本当に、おかしくてたまらなかった。
「ふふふ、お互いさまですよ」
こんな風に気楽にものを言い合えるこんな時間が愛おしい。言いたいことも聞きたいことも飲み込んで、苦しかったあの時間が、嘘のようだった。
背中に回した腕に力を込めてのぞみはゆっくり目を閉じる。
そして心の底から願い続けた大切な想いを口にした。
「私、紅さまが大好きです。今すぐにでも夫婦になりたいんです。……お願いです、早く大神さまを説得してください」
のぞみの髪に口づけて、紅が愛おしげに囁いた。
「わかったよ。かわいいかわいいのぞみのお願いには、逆らえないからね」