紅が言った通り、彼の縄張りはのぞみが思っていたよりも広かった。
 連なる山々、その裾に広がる街、そして海に至るまで、どこにでもあやかしたちの居場所はあるようだ。それぞれの場所でそれぞれのやり方で存在している。
 彼らの話を聞きながら、紅は縄張りに変わりがないかを確認してゆく。
 その傍らでその姿を見つめながら、のぞみはこづえの言葉を思い出していた。
 紅は口うるさい長ではない、だから縄張りのあやかしたちは皆のびのびしていると。
 本当にその通りだった。
 彼らは紅を見つけると嬉しそうに姿を見せて、あれやこれやと話をした。
 紅はそれに穏やかな表情で耳を傾けていた。
 皆紅を敬い、慕っている。
 その彼らにひとつだけ紅が言い含めていたことは、"ぞぞぞを奪う際、人間を傷つけてはならない"ということだった。
「長さまのお嫁さまが人間ののぞみさまなのに、そんなことをする奴ぁ、この縄張りにはおりませんよ。安心してくだせぇ」
 夜の海で漁船を驚かしていた海坊主はそう言って、けっして漁船を沈めないと約束をした。
「ふふふ。紅さまがそうおっしゃるなら」
 路地裏にいた猫又はそう言って、妖艶に微笑んだ。
「でも紅さま、珍しいですね。見回りにお嫁さまを連れているなんて」
 彼らは皆、のぞみが隣にいることを不思議がり珍しがった。
「これからは、ちょくちょく連れてくるからさ。よろしく頼むよ」
 その言葉にのぞみの胸が温かくなる。
 ずっと知りたくて、でも自分には知る資格はないのだと諦めていた。長として、彼が負うものとその役割を、少しだけ垣間見ることができた。
 そして今、山神神社に戻ってきて、あやかし園裏の大木の上に肩を並べて座っている。
 胸がいっぱいだった。
 志津やサケ子、こづえがくれたありがくて温かい言葉、鬼三兄弟のかわいい笑顔、それからずっと自分を抱いていた紅の腕の力強さが、空っぽになってしおしおにしぼんでいたのぞみの心に、また命を吹き込んだ。
 潤んだ瞳で海を見つめると、月はもうだいぶ傾いて、沈みかけていた。
 長い長いのぞみの夜が終わろうとしていた。
「……理由は、どうしても必要かい?」
 ぽつりと呟くように紅が言う。
 のぞみは首を傾げて彼を見た。
「のぞみを愛おしいと想うこの気持ちに、理由なんて、いくら考えても見つからないよ。……ただ愛おしいんだ。のぞみのそばにいたいんだよ」
 のぞみが感情的に彼にぶつけた、あのひどい言葉の答えだった。
"紅さまはどうして私を好きになったの? 私があやかし使いだからでしょう?"
「紅さま……。あ」
 のぞみの腕を紅がやや強引に引く。あっという間に、のぞみは彼の腕の中にすっぽりと収まった。
 のぞみの髪に顔を埋めて、紅がぐぐもった声を出した。
「理由なんてない、なにもないよ。それでも私はのぞみが好きなんだ。妻にしたいのはのぞみだけだ。……たとえのぞみがそれに納得しなくても、離してやることはできないからね」
 自分を抱く強い力と強い言葉がのぞみの心に染み込んでゆく。さっき命を吹き込まれたばかりののぞみの心を包み込む。
 なにもなくても、そばにいたいならば、それでいい。
 のぞみは彼の背中に腕を回した。
「はい、私も……。私もそうです。ただ紅さまが好きなだけなんです。それなのに、……ひどいことを言って、ごめんなさい」
 紅の手がのぞみのアゴに添えられる。その手に優しく促されるままに顔を上げると、唇に柔らかい口づけが下りてきた。
「ん……」
 そしてまた強く抱き合う。
 ぴったりとくっついて互いに互いの存在をしっかりと確かめ合うふたりを、静まり返った森だけが見守っていた。
 先に口を開いたのは紅だった。
「のぞみが……役立たずで私に守られているだけの存在ならどんなにいいかと、何度思ったかしれないよ」
「紅さま……?」
 ゆっくりと顔を上げると、すぐそばで、のぞみの大好きな赤い瞳が少し切なげに揺れていた。
「のぞみ、私は迷っていたんだ」
「……迷っていた?」
「そう」
 頷いて、少し遠い目になって彼は静かに話し始めた。
「のぞみをよこせと大神が要求してくるようになったのは、都から帰ってすぐだった。縄張りを守りながら、私はずっと迷っていた。縄張りもあやかし園もなにもかもを捨て去って、のぞみとふたり逃げてしまおうかと」
 意外すぎる彼の告白に、のぞみは目を見開いた。
「大神は恐ろしくプライドが高い。いつも私に対抗意識を燃やしていて、ことあるごとに張り合ってきた。だから私は無用な争いを避けるために、都から遠く離れたこの辺りに縄張りを持ったんだ」
「……そうだったんですか」
「うん、だから奴はのぞみが奴ではなくて私を選んだことがどうしても許せないんだろう。私に負けたような気がしてさ。でものぞみだけなら私は絶対に守ってやれる。縄張りから離れてふたりだけで流れるように暮らせるなら、私たちは今すぐにでも夫婦になれる」
 いつかの春の夜に彼が口にした言葉をのぞみは思い出していた。
『大神の許しなんていらないよ』
 あれは本当の話だった。
 縄張りを離れふたりだけで暮らせるなら、大神の許しなどいらない。
 額と額をコツンと合わせて、紅は目を閉じる。そしてまたため息をついた。
「私は自分勝手な天狗だ。のぞみだけが大切で、のぞみがそばにいてくれればなんだっていいんだよ」
 大神の許しを得ることなく、夫婦になれる道。そんな道は確かにあった。
 ……でも彼はそれを選ばなかった。
 紅がゆっくりと目を開いた。
「のぞみは、役立たずなんかじゃない。ここのあやかしたちは皆のぞみが大好きじゃないか。皆に愛されて、頼りにされて、大切にされている。あやかし園の子どもたちからのぞ先生を奪うなんて、私にはできないよ。そしてなにより、のぞみからも皆を奪うことはできなかった」
 その赤い瞳を見つめながら、のぞみは虫の鳴き声に包まれた、夏の夜のことを思い出していた。
『私たちの結婚は、もう少し時間をかけなくてはいけないようだ』
 ふたりだけで、逃げるわけにはいかないから。
 自分勝手だと彼は言う。
 縄張りを捨ててふたりだけで逃げようとした、自分勝手な天狗だと。
 でも彼はそうしなかった。
「紅さま、私……」
 のぞみの胸が痛いくらいに締め付けられる。
 なにも知らないで彼を詰った自分が、恥ずかしくて情けない。
「私……、私、紅さまがそんな風に思っていたなんて、なんにも知らなくて……それなのに、ひどいことばかり言って、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「私が言わなかったからだ」
 紅が被りを振って、低い声で囁いた。
「私はのぞみになにも言わなかった。それが優しさだと思っていたんだよ。のぞみの世界からすべての心配ごとを取り除いて真綿で包むように守ってやる。それが愛情だと思っていた」
「紅さま」
「でものぞみは知りたかったのだな、私が抱えているものを。話してほしかったのだな」
 紅が確認するように言う。
 のぞみはこくりと頷いた。
「できることなら話してもらって一緒に解決していきたいです」
 それが夫婦というものだから。
「わかった」
 紅がしっかり頷いて、のぞみの頬に手をあてた。
「これからはそうするよ」
 真っ直ぐな視線が、真摯な言葉が、のぞみの心を貫いた。
 今この瞬間に、ようやくふたりは夫婦になる準備ができた。