夜の空を今度は山神神社の裏山に向かって飛ぶ。
 たどり着いたのは山の中にぽつん佇む古い平屋建ての建物だった。
 玄関先でぎゃーと泣く赤子をあやしているのは、サケ子だ。ちょうど夜泣きの時期らしい。
 ふたりは彼女の前に降り立った。
「のぞみじゃないか」
 サケ子が驚いて声をあげた。
「今日はどうしたんだい。心配したよ」
 彼女に抱かれて泣いていたえんも、のぞみと紅の登場に目をパチクリさせて一旦泣き止んだ。
「迷惑かけてすみませんでした」
 のぞみがぺこりと頭を下げると、サケ子は首を振った。
「いや、迷惑じゃないんだけど、突然だったから、とにかく心配したんだよ。その……なにかあったんじゃないかと思ってさ」
 そう言ってサケ子は紅をチラリと見る。
 その目はまるで紅がのぞみになにかしたのだろうと言っているようだった。
 のぞみは少し慌てて口を開いた。
「あ、あの今日はふぶきちゃんに会いに行っていたんです」
 言い訳のようにのぞみが事情を説明すると、サケ子は「へぇ」とまた驚いたように声を漏らした。
「かの子とのケンカのことで? ……そこまでしてやるんだね」
 のぞみは頷いた。
「ケンカはよくあることですから、本当なら放っておいても大丈夫かとも思ったんですけど、ふぶきちゃんの場合はお家がちょっと特殊ですから。もしかしたら仲なおりの仕方がわからないのかもしれないなぁと思いまして。話をしたらわかってもらえました。明日、元気に来てくれると思います」
 保育士として一緒に働くサケ子には、ふぶきの少し込み入ったところまで説明する。
 するとサケ子は感心したように頷いた。
「確かにふぶきにとっちゃあ、はじめてのケンカだからね。そうしてあげて正解だ。それにしても私はそこまで頭が回らなかったよ。……やっぱりのぞみは頼りになりますね、紅さま」
 サケ子が紅に同意を求める。
 紅が穏やかに微笑んで頷いた。
「そうだね」
 一方で、のぞみの方は少し意外なその言葉に驚いて声をあげてしまう。
「私がですか?」
「そうさ、子どもたちのことを本当によくみてくれている。私はどうもガサツというか考えが足りないというか、のぞみほどきめ細やかに子どもたちのことをみられないようだ。……やっぱりのぞみがいないとあやかし園はやっていけないよ」
 サケ子はそう言ってにっこり笑う。
 保育士としてはまだまだ未熟だし、そもそもあやかしのことをよく知らないのぞみは、どちらかというというとサケ子に頼りきりのような気がする。そんな風に言われるとは意外だった。
 サケ子の言葉をそのまま素直に受け取ることもできなくて、少し戸惑うのぞみに、サケ子がまた意外なことを言った。
「ふぶきのことだってそうだろ。園がふぶきにとって暑いんじゃないかっていうのに気が付けたのは、のぞみのおかげだ」
「え? あ、あれは、紅さまが……!」
 のぞみは慌てて訂正する。
 だがサケ子はそれに異を唱えた。
「いや、ふぶき自身は他の子に興味があるはずなのに、交ざれないなにかがあると言い出したのはのぞみだよ。のぞみがそう言わなきゃ、紅さまも気が付けなかった。そうですよね、紅さま?」
 紅が微笑んで頷いた。
「あんたは、ふぶきが部屋に閉じこもっている間もちょくちょく様子を見に行ってた。だから気が付けたんだ。あれは紛れもなくあんたのおかげだよ」
 きっぱりと言い切ってサケ子は満足そう微笑んだ。
 不思議な気分だった。
 サケ子は嘘は言わない。
 言わなくていいようなお世辞だって言わない。
 彼女がそう言うならば、少なくとも彼女はそう感じているということなのだ。
「……私、あやかし園の先生として少しはお役に立てているんですよね」
 確認するようにその言葉を口にすると、のぞみの胸に、ある自信が生まれた。
 そうだ。
 一生懸命やったことは何一つ無駄じゃない。
 サケ子が大きく頷いた。
「ああ、のぞみはいい先生だ、それは私が保証するよ。でもべつにそうじゃなくたって、私はあんたと働くのが楽しいんだけどね」
 のぞみも力強く頷いた。
「ありがとうございます。私もサケ子さんと働くのが大好きです」
 身体中に力がみなぎるような心地がした。
 今すぐに園に行って働きたい。そんな気になるくらいに
「しっかり者のサケ子と優しいのぞみがいればあやかし園は安泰だ。たとえ私が園長でもね」
 そう言って紅はカラカラ笑う。
 能天気なその彼にサケ子がため息をついた。
「だから紅さま。のぞみが元気に出勤できなくなるようなことはもう二度やめてくださいよ」
 今日の休みはふぶきの家庭訪問だったと、さっきのぞみは説明したはずなのに、サケ子はそう言って紅を睨む。
 彼女の頭の中では今回ののぞみの急な休みは、完全に紅のせいということになってしまっているようだ。
「……え?」
 紅が笑うのをやめてぴたりと止まり、真剣な表情のサケ子に目をやる。
 そしてなにも反論することなく、少し神妙な面持ちで頭を下げた。
「あー、うん、そうだね。わかった」