「ここ、颯太と私が出会った場所なんですよ」
夜の道を、のぞみは志津とふたり歩いている。
兄家族と食卓を囲んだ後、父子で風呂に入るという颯太と太一に手を振って、のぞみは志津と家を出た。
少し冷たい空気が湯豆腐で火照った頬に心地いい。
志津の視線の先には、小さな赤い鳥居があった。
「私の実家です」
そう言いながら志津は鳥居をくぐる。ついて行くと、雑木林の中に古い祠があった。
住宅街から少し離れた場所にある、ひっそりとした稲荷神社。きちんと管理されていて地域の人たちに親しまれているのがよくわかる。
志津が参道の小石をじゃりっと鳴らして歩み寄り、そっと祠に触れた。
「ここに、颯太が毎日稲荷寿司を供えにきていたのです」
その稲荷寿司がヌエに子を食われて傷ついていた志津の心を慰めて、ふたりの絆を繋いだのだ。
志津が、雑木林を見上げて感慨深げにため息をついた。
「ここにこうやって来られるようになったのは本当に最近なんですよ」
「え……?」
呟いてから、そういえばとのぞみは紅から聞いた話を思い出していた。
紅への嫁入りが失敗して人間と結婚した彼女は一族から距離をおかれていたのだという話を。
志津がふふふと微笑んだ。
「私、ここ数年実家とは少し距離がありまして。でも最近になって、伊織が一族の年寄りたちに話をしてくれたんです。彼は一族の希望の星ですから、私への風あたりは随分柔らかくなりました。だからこうしてまた来られるようになったんです」
「伊織さんが?」
「そうです。まぁでも私は、勘当されたままでもどちらでもよかったんですよ、颯太と太一がいれば。のぞみ先生というかわいい義妹もできたことですし」
べつに強がっている風でもなく志津は言う。
のぞみはその彼女の綺麗な横顔をジッと見つめた。
夫を愛し、子を愛す。
それ以外はなにもいらないという強い姿がそこにあった。
「……志津さんは、どうしてお兄ちゃんと夫婦になったんですか」
気が付けば、のぞみはそう志津に問いかけていた。
志津がのぞみを振り返った。
「ご家族に反対されていたんですよね。それなのに……どうして? お兄ちゃんが、あやかし使いだったから?」
少し性急なその問いかけに、志津が驚いたように目を開いた。
その彼女の様子に、のぞみはしまったと思い唇を噛む。
少し不躾な質問だったかもしれない。
志津が、ふわりと微笑んだ。
「確かに。颯太がそうでなかったら私たちは夫婦になっておりませんでした」
そして祠に目をやった。
「そこの陰から、私こっそり颯太を見ているつもりだったんです。こんなに美味しい稲荷寿司を持ってくるのはどんな人間なんだろうって。こっそり、ふふふ、そしたら声をかけられてしまって、本当にびっくりしました」
志津は当時を思い出し、懐かしそうにころころ笑う。
颯太に声をかけられてびっくり仰天してしまっている狐の姿が目に浮かび、のぞみもつられて笑みを浮かべた。
「でもそれはきっかけにすぎません。そのあと彼と夫婦になりたいと願ったのは、やっぱり颯太自身を愛おしいと思ったから。ただこの人のそばに在りたいと、この人の隣が自分の居場所なのだと、そう思ったからなのです」
のぞみの脳裏に家で並んで湯豆腐を食べていた、ふたりの姿が浮かぶ。
"ただそばに在りたいと思った"
その言葉が胸に染み込んでくるようだった。
「私、わからなくなってしまったんです」
小さく息を吐いて、のぞみはゆっくりと口を開いた。
「夫婦ってなんなのか。どうして私と紅さまは夫婦になりたいと願ったのか」
志津が瞬きをして小さく首を傾げた。
「サケ子さんは藤吉さんがとても真面目でよく働くから夫婦になったって言ってました。ふぶきちゃんのお母さんのおゆきさんは、権力のある男性が絶対にいいっておっしゃっていて、鬼のお母さんは、夫婦は、か、身体の相性が一番大事だって……」
そこまで言って、のぞみはため息をついた。
「じゃあ、私と紅さまの間にはなにがあるの?って思ったら、全然わからなくなっちゃって……」
志津がまた微笑んだ。
「なにもなくていいんですよ。私と颯太の間にはなにもありません。……あるとすれば美味しい稲荷寿司を好きなだけ食べられるってことくらいかしら?」
そう言って志津はまたころころと笑う。
なにもなくても。
なにもなくてもただこの男性(ひと)のそばに在りたいと、思えるならばそれでいい。
「ふふふ、でもきっと皆さんもそうだと思いますよ。サケ子さんも鬼の奥さまもおゆきの方さまも。あれこれ理由をつけてはいても結局は、ただ夫婦になりたかった。それだけです」
志津の言葉にのぞみは少し考えてからゆっくりと頷いた。
「そう……なんですよね。きっと」
「まぁ、紅さまはああいう方ですから、のぞみさまが不安になるのは仕方がありません。それは紅さまが悪いのだと私は思います。女子の気持ちは繊細なのだともう少し学ばなくては。でもきっと紅さまののぞみさまを想う気持ちに嘘偽りはないはずですよ」
志津はにっこりとしてのぞみを見る。
のぞみは眉を下げてうつむいた。
「でも私、紅さまにひどいことを言ったんです。紅さまの話も聞かないで、逃げ出してきたんです。きっと紅さまは呆れたんじゃないかな」
「そうかしら?」
「そうです。だって追いかけても来てくれなかった……」
のぞみは首を振って涙ぐむ。
たとえのぞみが全力疾走したとしても、彼からしてみれば追いかけることなど朝メシ前のはず。
それなのに、そうしなかったのはもうのぞみと話しても無駄だと思ったのだろう。
「そうかしら?」
志津がまた首を傾げた。
その笑いを含んだ声音にのぞみが顔を上げると、志津は心底おかしいというように吹き出した。
「……?」
「ふふふ、はじめからずっとそばにいらっしゃいますよ」
「……え?」
志津はのぞみのすぐ後ろを見つめている。振り返ると、のぞみの後ろの茂みから、バツが悪そうに現れたのは、紅だった。
「紅さま……きゃっ!」
唖然とするのぞみに紅は素早く歩み寄り、軽々と抱き上げる。そして、静かな眼差しをのぞみに向けた。
「のぞみ、帰るよ」
のぞみはその赤い瞳をジッと見つめて、少し考えてから、素直に頷いた。
「……はい」
「紅さま、よいですか。のぞみさまを悲しませることはこの私がゆるしませんよ」
志津が目元を険しくして彼に言う。
紅が気まずそうに彼女から視線を逸らした。
「まぁ……なんにせよ、助かったよ」
それだけ言って夜の空に飛び立った。
夜の道を、のぞみは志津とふたり歩いている。
兄家族と食卓を囲んだ後、父子で風呂に入るという颯太と太一に手を振って、のぞみは志津と家を出た。
少し冷たい空気が湯豆腐で火照った頬に心地いい。
志津の視線の先には、小さな赤い鳥居があった。
「私の実家です」
そう言いながら志津は鳥居をくぐる。ついて行くと、雑木林の中に古い祠があった。
住宅街から少し離れた場所にある、ひっそりとした稲荷神社。きちんと管理されていて地域の人たちに親しまれているのがよくわかる。
志津が参道の小石をじゃりっと鳴らして歩み寄り、そっと祠に触れた。
「ここに、颯太が毎日稲荷寿司を供えにきていたのです」
その稲荷寿司がヌエに子を食われて傷ついていた志津の心を慰めて、ふたりの絆を繋いだのだ。
志津が、雑木林を見上げて感慨深げにため息をついた。
「ここにこうやって来られるようになったのは本当に最近なんですよ」
「え……?」
呟いてから、そういえばとのぞみは紅から聞いた話を思い出していた。
紅への嫁入りが失敗して人間と結婚した彼女は一族から距離をおかれていたのだという話を。
志津がふふふと微笑んだ。
「私、ここ数年実家とは少し距離がありまして。でも最近になって、伊織が一族の年寄りたちに話をしてくれたんです。彼は一族の希望の星ですから、私への風あたりは随分柔らかくなりました。だからこうしてまた来られるようになったんです」
「伊織さんが?」
「そうです。まぁでも私は、勘当されたままでもどちらでもよかったんですよ、颯太と太一がいれば。のぞみ先生というかわいい義妹もできたことですし」
べつに強がっている風でもなく志津は言う。
のぞみはその彼女の綺麗な横顔をジッと見つめた。
夫を愛し、子を愛す。
それ以外はなにもいらないという強い姿がそこにあった。
「……志津さんは、どうしてお兄ちゃんと夫婦になったんですか」
気が付けば、のぞみはそう志津に問いかけていた。
志津がのぞみを振り返った。
「ご家族に反対されていたんですよね。それなのに……どうして? お兄ちゃんが、あやかし使いだったから?」
少し性急なその問いかけに、志津が驚いたように目を開いた。
その彼女の様子に、のぞみはしまったと思い唇を噛む。
少し不躾な質問だったかもしれない。
志津が、ふわりと微笑んだ。
「確かに。颯太がそうでなかったら私たちは夫婦になっておりませんでした」
そして祠に目をやった。
「そこの陰から、私こっそり颯太を見ているつもりだったんです。こんなに美味しい稲荷寿司を持ってくるのはどんな人間なんだろうって。こっそり、ふふふ、そしたら声をかけられてしまって、本当にびっくりしました」
志津は当時を思い出し、懐かしそうにころころ笑う。
颯太に声をかけられてびっくり仰天してしまっている狐の姿が目に浮かび、のぞみもつられて笑みを浮かべた。
「でもそれはきっかけにすぎません。そのあと彼と夫婦になりたいと願ったのは、やっぱり颯太自身を愛おしいと思ったから。ただこの人のそばに在りたいと、この人の隣が自分の居場所なのだと、そう思ったからなのです」
のぞみの脳裏に家で並んで湯豆腐を食べていた、ふたりの姿が浮かぶ。
"ただそばに在りたいと思った"
その言葉が胸に染み込んでくるようだった。
「私、わからなくなってしまったんです」
小さく息を吐いて、のぞみはゆっくりと口を開いた。
「夫婦ってなんなのか。どうして私と紅さまは夫婦になりたいと願ったのか」
志津が瞬きをして小さく首を傾げた。
「サケ子さんは藤吉さんがとても真面目でよく働くから夫婦になったって言ってました。ふぶきちゃんのお母さんのおゆきさんは、権力のある男性が絶対にいいっておっしゃっていて、鬼のお母さんは、夫婦は、か、身体の相性が一番大事だって……」
そこまで言って、のぞみはため息をついた。
「じゃあ、私と紅さまの間にはなにがあるの?って思ったら、全然わからなくなっちゃって……」
志津がまた微笑んだ。
「なにもなくていいんですよ。私と颯太の間にはなにもありません。……あるとすれば美味しい稲荷寿司を好きなだけ食べられるってことくらいかしら?」
そう言って志津はまたころころと笑う。
なにもなくても。
なにもなくてもただこの男性(ひと)のそばに在りたいと、思えるならばそれでいい。
「ふふふ、でもきっと皆さんもそうだと思いますよ。サケ子さんも鬼の奥さまもおゆきの方さまも。あれこれ理由をつけてはいても結局は、ただ夫婦になりたかった。それだけです」
志津の言葉にのぞみは少し考えてからゆっくりと頷いた。
「そう……なんですよね。きっと」
「まぁ、紅さまはああいう方ですから、のぞみさまが不安になるのは仕方がありません。それは紅さまが悪いのだと私は思います。女子の気持ちは繊細なのだともう少し学ばなくては。でもきっと紅さまののぞみさまを想う気持ちに嘘偽りはないはずですよ」
志津はにっこりとしてのぞみを見る。
のぞみは眉を下げてうつむいた。
「でも私、紅さまにひどいことを言ったんです。紅さまの話も聞かないで、逃げ出してきたんです。きっと紅さまは呆れたんじゃないかな」
「そうかしら?」
「そうです。だって追いかけても来てくれなかった……」
のぞみは首を振って涙ぐむ。
たとえのぞみが全力疾走したとしても、彼からしてみれば追いかけることなど朝メシ前のはず。
それなのに、そうしなかったのはもうのぞみと話しても無駄だと思ったのだろう。
「そうかしら?」
志津がまた首を傾げた。
その笑いを含んだ声音にのぞみが顔を上げると、志津は心底おかしいというように吹き出した。
「……?」
「ふふふ、はじめからずっとそばにいらっしゃいますよ」
「……え?」
志津はのぞみのすぐ後ろを見つめている。振り返ると、のぞみの後ろの茂みから、バツが悪そうに現れたのは、紅だった。
「紅さま……きゃっ!」
唖然とするのぞみに紅は素早く歩み寄り、軽々と抱き上げる。そして、静かな眼差しをのぞみに向けた。
「のぞみ、帰るよ」
のぞみはその赤い瞳をジッと見つめて、少し考えてから、素直に頷いた。
「……はい」
「紅さま、よいですか。のぞみさまを悲しませることはこの私がゆるしませんよ」
志津が目元を険しくして彼に言う。
紅が気まずそうに彼女から視線を逸らした。
「まぁ……なんにせよ、助かったよ」
それだけ言って夜の空に飛び立った。