湯気が立つ器を一生懸命ふうふうして、太一が湯豆腐を頬張る。
「うめぇ」
 途端ににっこり笑顔になった。その可愛らしい様子に、のぞみもつられて微笑んだ。
「美味しいね」
「もう……うめぇだなんて、太一はお父さんの真似ばっかり。ダメですよ、そんな言い方」
 颯太に熱燗を注ぎながら志津が小言を言っている。
 その酒を飲む兄は心底幸せそうだった。
 兄について突然家を訪れたのぞみに志津は少しだけ驚いて、でもなにも言わずに快く迎えてくれた。
 そして皆で兄が持って帰ってきた巻き寿司と、湯豆腐を囲んでいる。
「今日はのぞ先生お休みで、オイラがっかりだったけど、来てくれて嬉しいなぁ。六平に言ったらあいつ羨ましがるだろうな」
 太一の言葉に、のぞみの胸は温かくなる。
 自分なんてなんの価値もないとトゲトゲに尖っていた気持ちが少しだけ丸くなってゆく。
 志津がふわりと尻尾を揺らして、くすくすと笑った。
「ふふふ今日はのぞみ先生がお休みだったから子どもたち皆元気がなかったのよ。お迎えの時にサケ子さんが言ってたわ」
「あ……、すみませんでした。突然、なにも言わずに……」
 のぞみは頬を染めてうつむいた。
 後先考えずにまるで家出をするみたいに、アパートを飛び出した自分が今さらながら恥ずかしい。
「サケ子さんにも迷惑かけちゃった……ただでさえ忙しいのに」
「ふふふ、そうね。でもきっとそれだけじゃないわ」
「え?」
 志津の言葉にのぞみは顔を上げて、その優しい眼差しを見つめた。
「サケ子さん、のぞみ先生と一緒に働くのが好きなんですって。……サケ子さんがあやかし園で働くことになったいきさつをのぞみ先生はご存知でしょう?」
 のぞみはこくんと頷いた。
 サケ子はかつてこの辺りで好き放題にあやかしの子を食らっていた卑しいあやかしヌエに自分の子を食われた。
 そのつらい気持ちから抜け出すために、あやかし園で働いていたのだ。
「ヌエはもういないし、えんちゃんも産まれたでしょう? その必要があるならいつでも園を辞めていいって紅さまに言われたみたい」
「紅さまに……?」
「十分なぞぞぞを食べられなきゃ、あやかしは消えてしまいますから。でもサケ子さんはそれを断ったそうですよ。ずっとあやかし園で働きたいって」
 湯気の中で志津が穏やかに微笑んだ。
「保育士の仕事がすごく楽しいんですって。やりがいがあって、辞めたくないって。……それをのぞみ先生におしえてもらったって言ってましたよ」
「そんな……私はなにも……」
 知らなかった事実にのぞみは唖然としてしまう。
 いつも頼りになる先輩保育士サケ子にそんな風に思われていたなんて。
「だから、今日のお休みはとっても心配されていましたよ。急だった、なにも聞いていないって」
 そこで志津は言葉を切って、切れ長の目でキュッとのぞみを睨んだ。
「……お休みは仕方がないにしても、あまり心配をかけないようにしなくてはいけませんよ」
 まるで太一に言い聞かせるように志津は言う。
 のぞみは頬を染めて頷いた。
「はい、気をつけます」
 胸にじんわりと温かいものが広がって、泣いてしまいそうだった。
 サケ子の気持ちも、志津の言葉も、今ののぞみにとってはなによりもありがたい。
「あの泣き虫ののぞみが立派に先生をしてるなんて、俺はそれだけでびっくりだ」
 ほろ酔い颯太が朗らかに言う。
 志津が彼に微笑みかけた。
「のぞみ先生の方があなたよりしっかりしてるのではなくて?」
「ええ⁉︎ そうかなぁ」
「ふふふ、でもそういえばこの間商店街で大将にお会いしたのよ。あなたはきっといい寿司職人になるっておっしゃってたわ。私、とっても嬉しかった」
 しっかり者の妻の言葉に、颯太は満足そうに頷いて、また熱燗を飲んでいる。
 本当に、本当に幸せそうだった。
 もし叶うことならば、紅と自分もこの兄夫婦のような仲睦まじい夫婦になりたい、のぞみは心からそう思った。