ふたりが山神神社へ帰ってきた頃には夜はもうすっかり更けていた。夜空を星たちに見守られながら紅に抱かれて飛ぶ間、のぞみはひと言も口をきかなかった。
 紅もなにも言わなかった。
 あやかし園はちょうど降園時間を迎えていて、子どもたちが親に手を引かれ帰っていくところだ。
 その上を誰にも気付かれないように通り過ぎて、アパートの前に紅はゆっくりと降り立った。
「……紅さまの、嘘つき」
 地面に足がついたと同時にのぞみはぽつりと呟いた。
「のぞみ……?」
「大神さまを納得させることができる切り札があるのに、どうして黙っていたんですか」
 問い詰めるような言葉が、のぞみの口をついて出る。
 頭の中は大好きな彼に裏切られていたという悲しみと怒りでいっぱいだった。
「いや……黙っていたというか……」
 苦しげに言い淀む彼に、のぞみは苛立ちを募らせる。言い訳もしてくれないなんて、もう本当にお終いだ。
 のぞみは彼に畳み掛ける。
「紅さまは、もう私と結婚する気がなくなったんでしょう? だから大神さまを説得してくれなかった。だったら……だったらそう言ってくれればよかったのに!」
 ずっと胸にしまっていた苦しい思いを吐き出して、のぞみは彼を睨みつける。
 熱い涙が頬を伝った。
「違う、のぞみ……違うんだ」
 紅が首を振って、のぞみの方へ手を伸ばす。その腕から逃れたくて、のぞみは反射的に彼の胸を力いっぱい押し返した。
「嫌っ!」
 力で負けたというよりは不意を突かれて、紅は一歩後ずさる。そしてそのままその場所で、切れ長の目を見開いている。
「のぞみ……?」
 傷ついたように揺れる赤い瞳が憎らしかった。
 彼はいつも優しくて、でも本当にそれだけで、けっしてのぞみには本心を見せてくれない。
 大事なことはなにもおしえてくれないのだ。
 もちろんそれは仕方がないことなのだろう。のぞみは所詮人間で、あやかしの長である彼にとってはなんの役にも立たない、弱い存在なのだから。
 そんな相手に、話すことなんかなにもない。
「のぞみ、本当に違うんだ。私が、大神と決着をつけるのを引き伸ばしていたのは……」
「聞きたくない!」
 紅の言葉から逃げるようにのぞみは激しく首を振る。眦から涙が夜の闇に散った。
 こづえは、もし紅がマリッジブルーなのだとしたら、きっとバカみたいで拍子抜けするようなことが理由だと予想した。
 でもそんな理由いくら考えても思いつかない。
 そんな理由、存在しないからだ。
 紅はのぞみとの結婚を先延ばしにしていた。その事実から導き出される答えはたったひとつ。
 のぞみは唇を噛んでから、その答えを口にした。
「……紅さまはもう私のこと、好きじゃなくなったんだ」
 そしてギュッと目を閉じた。
「のぞみ……本気で言っているのかい? 私が愛おしいと思うのは、今までもこれからもずっとずっとのぞみだけだ。いつもいつもそう言ってるだろう?」
 いつも穏やかな彼らしくない、どこか切実な響きを帯びたその言葉を、のぞみは乾いた心で聞いた。
 もうたくさんだという思いが頭の中を駆け巡る。
 今のふたりに必要なのはそんな優しい言葉じゃない。
 真実の言葉だけなのだ。
 そしてその言葉を、彼はくれない。
「……どうして紅さまは私を好きになったんですか」
 やけっぱちな気持ちになってのぞみは彼に問いかける。
 触れてはいけない核心に近づきつつあるのを感じながら。
「……え?」
 紅が掠れた声を漏らす。
 きっと彼にとっては思ってもみなかった質問なのだろう。眉を寄せたまま小さく首を傾げている。
 でものぞみにとってはずっと知りたかったことだった。
「私は人間で、こづえさんやサケ子さんみたいに力があるわけじゃありません。志津さんやおゆきさんみたいに美人で魅力的でもありません。それなのに紅さまが私を好きになったのは……好きになったのは……」
 のぞみはそこで言葉を切って、ごくりと喉を鳴らす。この先は本当は言うべきではない。
 言ってしまったらすべてが終わってしまう。
 でもその考えを振り切って、のぞみはまた口を開いた。
「紅さまが私を好きになったのは、ただ……ただ私が、あ、あやかし使いだったから……そうでしょう?」
 絞り出すようにそう言ってのぞみは小さく息を吐く。
「あやかし使いだったから……?」
 呟いたまま唖然として紅は言葉を失っている。
 のぞみはそこへたたみかけた。
「紅さまは、私があやかし使いだから惹かれただけで、本当は紅さまのお嫁さまに相応しくないって、最近になって気が付いたんでしょう? だから結婚を先延ばしにした」
「違う!」
 鋭い声で紅が叫ぶ。
 それにのぞみは異を唱えた。
「違わないっ! 違わないわ! だって、だって紅さまは私になにも言ってくれないじゃない! 縄張りが危険にさらされていることも、大神さまとのことも、それから……おゆきさんのことも。紅さまは大切なことはなにも私に話してくれない。心配しないでって言うだけじゃない! そうしていつもいつも私を守られているだけの役立たずにするのよ! こんな私が長さまのお嫁さまに相応しいわけがないじゃない!」
 胸の中に抱えていた不安と不満をすべてぶつけて、のぞみは肩で息をする。
 そしてくるりと向きをかえ、鳥居の方へ向かって走りだした。
「のぞみ‼︎」
 鋭く自分を呼ぶ声を確かに背中で聞いたけれど、振り返りはしなかった。