「ふふふ、またお会いできるなんて、嬉しいですわ紅さま」
 蛇娘がスルスルと長い長い廊下を進む。
 のぞみと紅はその後ろをついて歩いていた。
「でも来られることがわかっていましたら、私もっと綺麗にしておりましたのに、残念ですわ」
 そう言って流し目をくれる蛇娘を、紅が嫌そうに睨んだ。
「よくもそんなことが言えるもんだ。前回お前が私たちにしたことを忘れたのかい。これだから蛇は……」
「あらまぁ、紅さま。あれは親切でございます。大神さまに結婚の許しをもらいにくるカップルが本当に愛し合っているのかを私は試して差し上げてるのですよ。本当の幸せは困難を乗り越えてこそ訪れるものです」
「とにかく、今度はなにもしないでくれよ。私たちは今日はふぶきの先生として来たんだから」
 紅が蛇娘に釘を刺すと、彼女は手に持っている白い袋を大切そうに見つめて頷いた。
「はい、もちろんでございます」
 さっき御殿に到着した時に紅が彼女に渡した袋である。
 中には蛇娘の大好物、"男のあやかし使いのぞぞぞ"が入っているという。
 それがなければ、おそらくは今頃のぞみたちは蛇娘によって大神に引き渡されていたことだろう。
 のぞみはつくづく自分の甘さを思い知った。
 紅が一緒に来てくれなければ、いったいどうなっていたことか。
「ふふふ、ほんに食べるのが楽しみですこと」
 蛇娘はそう言って、ちろちろと長い舌を出す。
 それを見て、紅がのぞみに囁いた。
「のぞみ、颯太に感謝するのだよ」
 ということは、やっぱりあの袋の中のぞぞぞは……。
「ですが大神さまをごまかすことができるのは、半刻が限界でございます。それ以上はご容赦を」
 蛇娘はそう言って歩みを止める。
 その少し先、廊下の突き当たりに水色のキラキラのラメで飾られたかわいらしい扉があった。
「私が行けるのはここまででございます。この先は……寒くて寒くて、眠ってしまいそうになるのです。まったくなんであんなところにいられるのか」
 眉を寄せて口元を袖で覆って蛇娘が言う。
 紅が頷いた。
「蛇は寒いのは苦手だからね。ここでいいよ。ありがとう」
「ほほほほほほ! ではまた、次こそはお相手してくださいまし、紅さま」
 蛇娘は下がっていった。
 ふたりはひんやりと冷気が漂う廊下の先の扉にゆっくりと近づいた。
 扉は少し開いていて、中から賑やかな声が漏れている。
「あら姫さま、一番にあがりでございます~」
「おめでとうございます~」
 どうやら中で、すごろくをしているようだ。
 姫さまというのはふぶきだろう。一番にあがったようだ。
 皆すごいすごいと手を叩いている。
 だがそれにふぶきらしき子どもの声が不機嫌に答えた。
「皆わらわに、手加減したであろう。それじゃあおもしろくない。手加減なしの真剣勝負をするのじゃ!」
「ええっ! そ、そんなこと、姫さま相手にできませぬ」
「やるのじゃ、やるのじゃ!」
 地団駄を踏むような音がして、のぞみは思わず笑みを浮かべた。
 その時。
「姫さま、そろそろ昼食を食べてくださいまし」
 別の召使いが言う。
 それにもふぶきは不機嫌に答えた。
「……嫌じゃ」
「あら、なぜでございますか?」
「ぞぞぞばかりではないか」
 その言葉に召使いが声をあげた。
「あたりまえじゃないですか! 私たちの食べ物はぞぞぞだと決まっております。……それ以外になにがあるというのです?」
「ハンバーグかオムライスが食べたいのじゃ‼︎」
「オム……なんです?」
 そのかわいいわがままに、のぞみはついに吹き出して、くすくす笑い出してしまう。
 それに部屋の中のあやかしたちが気が付いた。
「誰です?」
「やぁ、ふぶき。元気そうじゃないか。この分だと明日からは保育園に来れそうだね」
 扉を開けて紅が言うとふぶきは目を丸くして、恥ずかしそうに頬を染めた。
 のぞみは彼女に歩みより、小さな冷たい手を取ってぎゅっと握った。
「ふぶきちゃん、元気そうで安心した。先生たち、心配で来ちゃったんだ」
 ふぶきはバツが悪そうにもじもじしている。
 のぞみは優しく語りかけた。
「明日のお弁当は確かオムライスだったよ。来てくれる?」
 その問いかけにふぶきは少し考えてから小さな声で呟いた。
「でもかの子は怒っているであろう?」
 のぞみはホッと息を吐く。
 思った通り、彼女自身はもうかの子に怒ってはいない。この分だと仲直りはすぐにできそうだった。
 のぞみはふぶきの水色の瞳を見つめて、ゆっくりと首を振った。
「大丈夫、もうかの子ちゃん怒ってないよ。でもふぶきちゃんが保育園に来なくてすっごく寂しいみたい。元気がないの」
「……本当か?」
「本当よ」
 それでもふぶきはまだ不安なようだった。
「またケンカしてしまうかも……」
 眉を下げて、しょんぼりとしてしまっている。
 御殿で大人に囲まれて育った彼女にとってはかの子ははじめてできた友だちで、今回ははじめてのケンカだった。どうしていいかわからずに不安だったに違いない。
 のぞみは彼女を安心させるように語りかけた。
「ふぶきちゃん、お友達とケンカしたっていいんだよ。ちゃんと仲直りすれば」
「……そうなのか?」
「そう。でも保育園に来てくれなきゃ、仲直りできないから。……明日は来てくれる?」
 その問いかけにふぶきは目をパチパチさせて、また少し考えてからこくんと頷いた。
「わかった」
「よかったぁ」
 のぞみはホッと息を吐いた。一悶着あったけれど、ちょっと無理をしてでも遠くまで来たかいがあったというものだ。
「一件落着だね」
 紅がやれやれというように肩をすくめてからぶるり小さく震えた。
 そしてのぞみに呼びかける。
「では私たちは帰ろう。……ふぶきまた明日」
 紅の言葉に、のぞみは急にここが御殿だということを思い出す。そうだ自分たちにはあまり時間がない。なるべく早く立ち去る方がいいのは確かだった。
「じゃあね、ふぶきちゃん。また明日」
 のぞみはふぶきに向かって声をかける。
 ふぶきが、眉を下げてのぞみを見た。
「もう行っちゃうのか? のぞ先生」
「ふぶきちゃん……」
 小さな手でのぞみのシャツの裾を引っ張ってキラキラの瞳で見上げるふぶきに、のぞみの胸がきゅーんと鳴る。
 彼女に"のぞ先生"と呼ばれるのは、はじめてだった。
「もう少しわらわと一緒にいてはくれぬか」
 その言葉に、のぞみは思わず頷きそうになってしまう。どうせ今日は保育園は休みなのだ。少しくらい帰りが遅くなってもかまわない。
 だがそれを紅が止めた。
「残念だけどふぶき、私たちには時間がないんだ。御殿にいられる時間は限られていてね」
「でも紅さま、ここへ来てまだ三十分も経っていないように思います。すごろく一回くらいなら……」
 のぞみはそう提案する。
 すると紅は、もう一度ぶるりと震えてから、どこかそわそわとして周りを見回した。
「いやまぁ、それはそうなんだけど……なんだか嫌な予感がするよ。さっきよりもこの部屋寒くないかい? この感じ、まさか……」
 ぶつぶつとひとり言のような言葉を口にする紅をのぞみは首を傾げて見つめた。
「紅さま?」
 その時、ふぶきがなにかに気が付いて声をあげた。
「あ! 母上じゃ!」
 のぞみと紅は振り返る。
 水色の扉の内側に、スーツケースを持った若い女性が立っていた。