「のぞみ、それはいわゆるマリッジブルーってやつじゃないかい?」
 夏の盛りはとうに過ぎて、少し涼しい風を感じられるようになったある日のこと、いつもの時間、いつもののぞみの部屋で温かい茶をすすりながらこづえが言う。
「マリッジブルー……」
 彼女から出た少し意外なその言葉をのぞみは湯呑みを手に繰り返した。
 のぞみの中の紅に対する不安は、日に日に大きくなるばかりだった。
 彼はあいかわらず優しくて、のぞみを大切にしてくれている。それだけ見ればいつもとなにも変わらない。でも結婚の話となると話は別だった。
 のぞみのぞぞぞと引き換えに結婚の許しをもらうという伊織の案を、紅は結局受け入れなかった。
 諦めきれないのぞみは、そのあとも何度か彼に提案したが、いつもはぐらかされて、さりげなく話題を変えられる。
 かといって他になにかいい案を考えているようにも思えない。本当に許しが出るまで待つつもりのようだった。
『私たちはもう夫婦同然だろう?』
 以前はよく言っていたその言葉を聞くこともなくなった。
 その彼の姿に、のぞみは疑念を抱くようになっていた。
 ……もしかしたらもう彼は結婚する気がなくなってしまったでは?
 気のせいだ、考えてすぎだといくら自分に言い聞かせてもその思いはのぞみの頭から離れなかった。
 そしてそれは、ついさっきこづえがなにげなく口にしたある言葉をきっかけに溢れ出してしまったのである。
『のぞみ、人間は結婚する時に皆を集めて宴会をするんだろう? その時、花嫁以外もいい服を着ていくっていうのは本当かい? どんな服がいいんだろう。のぞみの結婚なら私はとびきりいい服を着ていきたいよ。この前ふぶきのドレスを見に行った時にさ……』
『こづえさん、紅さまと私、結婚なんて、できないと思います』
 そしてそのまま、せきを切ったように、ここ最近の不安な思いを吐露してしまったのである。
 いつもそばにいて、のぞみにあやかしのことをおしえてくれるありがたい友人は、黙ってのぞみの思いを聞いてくれた。
 そして感想を漏らしたのである。
「マリッジブルーだよ、きっと」
「こづえさん、そんな言葉も知ってるんですね」
「あたりまえさ、私は毎日合コンに行ってるんだよ」
 こづえが得意そうに言う。そしてちゃぶ台に身を乗り出して話し始めた。
「マリッジブルーって結婚を前にいろいろ不安になることだろ。普通のあやかしの結婚はビビッときたらすぐその日にくっつくから、そんなことありえないんだけど。のぞみと紅さまの場合は、大神さまにストップをかけられちまったからね。いろいろ考える時間があればそういう不安も出てくるんだろう」
「マリッジブルー……」
 のぞみはまた呟いた。
 知識としては知っていても自分に関係があるとは思っていなかった言葉だった。
 そもそものぞみの結婚は普通の結婚ではない。
「のぞみは不安になってしまっているんだ。紅さまは立派な方には違いないけど、……まぁ、ああいう方だから、本当に夫婦としてやっていけるだろうかってね。……かわいそうに」
 そう言ってこづえは、憐れむようにのぞみを見た。
「夫婦としてやっていけるか不安に……?」
 呟いて、のぞみは慌てて首を振った。
「ち、違います! 私はそういう意味で不安になってるわけではありません。
……でも」
「でも?」
「でももしそうなら……私じゃなくて、紅さまがそうなのかも」
「え? 紅さまが?」
 こづえが目をパチクリさせる。
 のぞみは頷いた。
「……きっとそうです。紅さまの方がマリッジブルーなんですよ。大神さまに反対されて、ちょっと冷静になったて、このまま私と結婚してしまっていいのかなって思って……」
 いいながらのぞみは考えを巡らせる。
 ついさっき指摘されたばかりの、思いつきのようなその言葉、でも口に出してしまえば、悲しいくらいにぴったりとつじつまが合う。
 一方でこづえの方はそうでもないようだ。
「紅さまが、マリッジブルー……?」と呟いて、首を捻っている。
 そこへのぞみはたたみかけた。
「だって変わってしまったのは紅さまなんです。気のせいじゃないと思います。前はあんなに結婚結婚って騒いでたのに、今は私が結婚の話をすると、待とう待とうってそればっかり……」
「でもあいかわらずのぞみのことが大好きじゃないか。この間も伊織が話しかけただけで、ぷんぷん怒ってたってかの子が言ってたよ」
 そう言ってこづえは隣で煎餅にかぶりつくかの子の頭を撫でる。かの子がにっこり頷いた。
 のぞみの頬が熱くなった。
「そ、それは……! そうですけど……。でももしかしたら結婚となると話は別だって思ったのかも……。そう、きっとそう」
 のぞみは自分自身の言葉に頷いた。
 そして都から帰ってきてずっと、不安に思っていたことを口にした。
「私、人間だから……紅さまには相応しくないのかも」
「のぞみ」
 こづえが眉を寄せた。
「そういう言い方をするもんじゃないよ」
「でも……! でも都ではそう言われました。長さまなのにって。もしかした紅さまも、……そう思ったのかも」
「他のあやかしが言うことなんか気にすることはないんだよ。紅さまは昔から女からの人気だけはあったから、やっかまれているだけなんだから」
 優しいこづえの言葉にも、のぞみは頷くことはできなかった。
「でも私が人間で紅さまのお役に立てないのは本当です。それなのに、紅さまが私を好きになったのは……私があやかし使いだから……」
 その言葉にこづえが反応した。
「え? あやかし使い? のぞみが?」
「……大神さまに言われました」
「そうなんだ……」
 のぞみは眉を下げた。
「紅さまはきっと、私を好きになったんじゃなくて、私の血筋に惹かれたんです。それで……、そのことに紅さま自身が気が付いたんじゃないでしょうか。それで私じゃなくて、あやかし使いが好きなのに、私とこのまま結婚してもいいのかって思って……」
「だー! ストップ、ストップ!」
 ぐるぐるとすべて悪い方向に向いてしまうのぞみの思考に、こづえが待ったをかける。
 そしてちゃぶ台を回り込み、のぞみの肩をがしっと掴んだ。
「いいかい、のぞみ。確かに私たちはあやかし使いに惹かれる。でもそんなに珍しいものでもないんだ。子孫は散り散りになってそこら中にいるからね。私も何回か見たことがある。合コンで妙に馬が合う男がいてさ、お持ち帰りされそうになったんだ。でもまさか、結婚しようなんて思わない」
「でもどうしてこの人を好きなんだろうって、ふと疑問に思うことだってあるでしょう? その時に相手があやかし使いだったら、あれ? これでいいのかなって思いません?」
 こづえがため息をついた。
「のぞみ、男なんてもんは、のぞみが思うほど複雑じゃないよ。特に紅さまは……好きなものは好き、それだけさ。のぞみが言うように本当に紅さまが結婚に後ろ向きになっているとしても、きっとのぞみが思うようなことが原因じゃない。もっとバカみたいな、聞いたら拍子抜けするようなことが理由さ。そう思い詰めないで」
 こづえの言葉にのぞみは納得できなかった。
 聞いたら拍子抜けするようなバカみたいな理由なんて全然見当もつかない。それに、万が一そんな理由だったとしても、ことは他でもない結婚に関する話なのだ。
 どんな理由だとしても彼が結婚したくないと思うなら、のぞみから気持ちが離れてしまっていることには変わりない。
 でもこづえの気持ちを無下にすることもできなくて、のぞみはこくんと頷いた。