子どもたちが皆帰り、誰もいなくなったあやかし園の縁側に腰掛けて、のぞみは園庭を眺めている。
 森からはりーんりーん、コロコロコロと虫の鳴き声が聞こえてくる。
 まだまだ暑いけれど、どこか秋を感じさせる夜だった。
 少し湿った空気の香りを感じながら、のぞみは今日一日の出来事を思い出していた。
 見違えるほどに明るくなって楽しく一日を過ごしたふぶきは、嬉しそうに手を振って迎えの籠に乗り込んだ。
 伊織はその傍らで、丁寧に頭を下げて帰っていった。
 とりあえず、すぐにあやかし園がなくなることはなさそうだ。
 そのことに、のぞみは大きく安堵していた。
「待たせたね」
 声をかけられて振り返ると、誰もいない部屋に紅が立っていた。
 ついさっき帰っていったサケ子と入れ替わるようにして見回りから戻ってきたのだ。
 ふぶきが保育園に来るようになって、彼は以前ほどのぞみの周りを厳重に警戒することはなくなった。
「少し疲れたかい? 今日はよく頑張ってくれたね」
 紅の労い言葉にのぞみは首を振った。
「私はなにも。全部紅さまと皆さんのおかげです」
 本当に今日はいろいろなことがあった。
 事態はいい方向に向きつつあるように思うけれど、のぞみ自身は特になにもしていない。
 ふぶきの不調の原因に思いあたったのは紅だったし、対処してくれたのも彼だった。
 ふぶきが子どもたちの輪にすんなり入っていけたのは、かの子やこづえの力添えのおかげだ。
「それに、ふぶきちゃん自身もよく頑張ったと思います」
 そう言ってのぞみは、ふぶきが帰っていった後の夜空に浮かぶ月を見上げる。
 紅が縁側に歩み寄り、後ろから抱え込むようにそっとのぞみを抱きしめた。
 大好きな香りに包まれて、のぞみの頬が熱くなった。
「……のぞみは本当に子どもたちのことを一番に考えるいい先生だね」
 でも囁かれた言葉は、なぜか少し寂しげだった。
 のぞみは小さく首を傾げる。
「紅さま……?」
「あやかし園にはのぞみが必要だ。子どもたちはのぞみが大好きし、のぞみも皆が大好きだ」
 まるで確認するかのようにそう言って、紅は一旦言葉を切る。そしてのぞみの首に顔を埋めて小さくため息をついてから、もう一度口を開いた。
「……私たちの結婚は、もう少し時間をかけなくてはいけないようだ」
「……え?」
 のぞみは声を漏らして振り返る。
 唐突に話題を変えた彼の意図がわからなかった。
「大神が納得するまで待たなくてはならないからね」
 温かい彼の手が、なだめるようにのぞみの頭を撫でる。
 それはもうとっくにわかっているはずのその事実だった。
 でも彼の口から出たことに、得体の知れない不安を感じていた。
『大神の許しなんていらないよ。私たちは絶対に夫婦になる』
 あの春の夜に確かに彼はそう言った。
 もちろんそれが無理だというのはわかっている。
 けれどそれでもその言葉に、のぞみは勇気づけられていたのに……。
「まぁ、気長に待とう。どれだけ時間がかかっても私ののぞみへの気持ちは変わらない」
 いつもの気楽な口調でそう言って、紅はのぞみの額に口づける。そしてまた月を見上げた。
 その赤い瞳を見つめながら、のぞみは昼間電気屋と話をした時のことを思い出していた。
 あの時も紅が電気屋に言った言葉に、のぞみの胸は、今と同じような違和感を覚えた。
『私とのぞみは"ただ付き合っているだけ"じゃない。すでに……』
"すでに夫婦同然さ"
 いつもの彼ならそう言ったはず。
 そう言って、のぞみを少し困らせたはず。
『気長に待とう』なんて、どこか彼らしくない。
 思い過ごしかもしれないほんの少しの違和感。でものぞみの胸は、不安な色でいっぱいになった。

不安
 子どもたちの声が溢れるあやかし園のいつもの部屋をふわふわと漂う緑色のぞぞぞ。その中でえんがぎゃーと泣き出した。
 何人かの子どもたちがそれに気が付いて見上げている。
「せんせー、えんちゃんが泣いてるよー! せんせー! いーおーりせんせー」
「こらこら、私は先生ではありませんと何度言ったらわかるんですか」
 小言を言いながら、伊織はよいしょと立ち上がる。そして、慣れた手つきでえんを腕に抱いた。
「早く抱いてやらんからじゃ。泣いておるのに、かわいそうではないか」
 その伊織に、今度はふぶきが小言を言った。
「姫さま、赤子というのは泣くのが仕事でございます。姫さまがお遊びになられるのと同じですゆえ、かわいそうでないのですよ」
 もう何度も目にしたそのやり取りに、のぞみは目を細めて、くすくす笑った。
 ふぶきのお守り役のはずの伊織は、ここのところすっかりえんのお守り役のようになっている。
 そもそも園に馴染んでしまえば、ふぶきにお守りなど必要ないからだ。
『ぼーと突っ立てるなら、えんのオムツでも替とくれ。……まったく、エリートは潰しがきかないんだから』というサケ子の嫌味と、『せんせーのじゃまになるなら、もう伊織はついて来なくてよい』というふぶきの叱咤に、一念発起した彼は、今や子どもたちから"いおりせんせー"と呼ばれるほどになった。
 もう随分身体がしっかりしてきたえんは、大きな目をきょろきょろさせて、周りの子どもたちに興味深々だ。
 伊織は庭を走り回る鬼三兄弟や太一がよく見えるようにえんを縁側に連れてゆく。
 彼女はそうされるのが大好きなのだ。
 伊織の腕の中できゃっきゃっと嬉しそうに声をあげるえんを覗き込んで、のぞみは微笑んだ。
「ふふふ、えんちゃんすぐご機嫌になった。もうすっかり伊織さんが大好きですね」
 伊織が得意そうに胸を張る。
「狐の一族は集まって子育てをします。年上の子どもが下の子どもの面倒をみるのがあたりまえなのですよ。私だって本気になればこれくらい」
「子どもたちが増えて、私もサケ子さんもここのところ忙しかったんです。助かっちゃった」
 のぞみがそう言うと、伊織は照れ臭そうに尻尾をパタパタさせた。
「そ、それはよかった」
 するとその白い毛が一本舞い上がり、はらりとのぞみの髪に着地する。
「あ、申し訳ありません」
 それを掴もうと伊織がのぞみに手を伸ばした、その時。
「のぞみに触るなと言っただろう。次は命をかけろと言ったはずなのに、お前は本当に命知らずだね」
 ふたりの間にぐいっと割り込む人物がいた。
「こ、紅さま⁉︎」
「まったく油断も隙もないんだから」
 ぷりぷりしながら、紅が伊織からのぞみを庇うように抱きしめる。
「きゃっ! は、はなしてください‼︎」
 のぞみはジタバタと暴れるが、その腕はびくともしない。
 伊織が呆れたような声を出した。
「……紅さまは長さまなのに、のぞみさまのことに関してはここの子たちよりもずっと我慢がきかないですね。大神さまとの仲がここまでこじれるのも納得です」
「その件は、どこからどう考えても大神が悪いんだ。なにせ私たちは相思相愛なのに横恋慕したのあっちなんだから。そうだろう?」
 紅が口を尖らせる。
 伊織がしぶしぶ頷いた。
「まぁ、それは、そうかもしれませんが……」
「わかっているなら、さっさと大神を説得してきておくれ。主人の間違いを正すのも召使いの役目だろう」
 紅がめちゃくちゃなことを要求する。
 伊織が青ざめて首を振った。
「そ、そんなことできるわけがないじゃないですか。そんなまるでスパイみたいこと……!」
 白い狐はあわあわ言う。
 最近はふぶきとともにすっかり保育園に馴染んでしまっている伊織だが、未だ大神からの使命を負ってここにいることには変わりない。
 きっと御殿ではのぞみが思うよりもずっと、複雑な立場なのだろう。
 それを気の毒に思いながらも、のぞみは藁にも縋るような気持ちで口を開いた。
「……伊織さん、私どうしても大神さまのお妃さまになることはできません。なんとか大神さまが、諦めてくださるような方法はないでしょうか。そもそも大神さまと私は一度しかお会いしていないんです。それなのにどうしてここまで執着なさるのか……伊織さんに心あたりはありませんか。それがわかればもしかしたら説得できるかも」
「説得なんて、大神には無駄だよ、のぞみ。どうせ奴は聞く耳を持たない」
「でも……」
 紅の言葉に、のぞみは悲しい気持ちになった。
 大神が諦めるまで待ち続ける、それが今のところ最善な策なのは確かだ。
 でもそれじゃあ、いつ結婚できるか全然わからないじゃない。
 紅はそれで平気なのだろうか。
 眉を下げるのぞみを、伊織が気の毒そうに見つめている。そして少し迷いながら口を開いた。
「……これは私のひとり言ですが」
 紅が眉を上げた。
「……おそらく、大神さまはのぞみさまのぞぞぞを特に気に入られたのだと思います。"あのぞぞぞが忘れられない、また食べたい"と思い出したようにおっしゃっておいでですから」
「自分勝手な奴だ。話にならないよ」
 紅が呆れたようにため息をつく。
 それをチラリと見てから、伊織がまた口を開いた。
「これもまたひとり言ですが……、たとえばのぞみさまのぞぞぞを時々大神さまに献上するとお約束すれば、もしかしたら……」
「そんなことできるわけがないじゃないか!」
 伊織の言葉を遮って、にべもなく紅が言う。
 でものぞみの考えは違っていた。
「どうしてですか⁉︎ それでお許しが出るなら私はそれでもいいと思います」
「ダメだ。のぞみのぞぞぞは誰にもやらないよ」
「そんな……!」
 ふたりの間に少し険悪な空気が漂う。
 でもその時。
「せんせー、おむかえきたー!」
 子どもたちの声がふたりのやり取りを遮った。
 のぞみはハッとして口を噤む。
 伊織の話に夢中になるあまり、仕事中だということをすっかり忘れてしまっていた。
「い、今行くね」
 無理やり笑顔を作り、子どもたちに応えてからチラリと見ると、紅は腕を組んでそっぽを向いている。
 その姿に、のぞみの胸がキリリと締め付けられた。
 結婚を認めてもらうための足がかりがようやく見つかったかもしれないのに、どうしてそう頑ななのだろう。
 ぞぞぞなんて、いくらあげたってのぞみ自身は痛くも痒くもないものだ。
 だったら、あげてしまえばいいじゃないか。
 のぞみはなによりも結婚を最優先に考えたいのに……。
『気長に待とう』
 少し前の夜の彼の言葉が頭に浮かんで、のぞみの胸はまた不安でいっぱいになった。