「伊織は昔から一族の中でもずば抜けて頭がよかったんです。だから、御殿でも他の者たちよりも早く出世した。役場の手続きなんて朝飯前ですわ」
 ぷりぷりしながらそう言って、志津は持参したいなり寿司を食べている。
 その隣でこづえが茶をずずずとすすった。
 心なしかいつもより小さくなって座っているようにも思えるその姿に、のぞみは以前彼女が『狐は怖い』と言っていたのを思い出してくすりと笑った。
 午後三時ののぞみのアパートの部屋である。
 いつものように、かの子を連れてこづえが来たそのすぐ後に、志津も太一を連れてやって来たのである。
 今日から来る新入園児について話しておきたいことがあるという。
 志津の主張はこうだった。
「大神さまは、あやかし園のおかげで紅さまの縄張りの評判がいいことを前々から苦々しく思ってらしたんです。きっとのぞみ先生があやかし園で働いていると知って、一石二鳥だから、つぶしてしまおうと思われたんですわ。伊織は頭がいいですから、園が拒否できないような手段を考えたのでしょう。ふぶき内親王がどのような方か私は存じ上げませんけれど、ただ預けるだけが目的ではないはずです」
 綺麗な眉を寄せて、志津はいなり寿司を食べ続ける。白い尻尾がピンと立っていた。
 隣でこづえが頷いた。
「まぁ、そんなところだろうね」
「まったく、やっかいなことになってしまったよ」
 声がして三人が振り返ると、ドアのところに紅がいて、やれやれとため息をついている。
「紅さま‼︎」
 子どもふたりが嬉しそうに彼に飛びつくと、紅はふたりをひょいと抱き上げて、のぞみたちの方へやってきた。
「だいたいどう考えても、ふぶきに保育の必要があるとは思えない。おゆきが、出張中だなんて嘘っぱちさ。あのおゆきが仕事なんかするわけがないだろう」
 ぶつぶつ言いながら紅はちゃぶ台の前に座り、いなり寿司を口に放り込む。
 その言葉に、のぞみは彼に問いかけた。
「紅さま、ふぶきちゃんのお母さんのこと知ってるんですか」
「……え?」
 紅が不意を突かれたように言葉に詰まり、目をパチパチとさせた。そしてそのまま皆をぐるりと見回した。
「そりゃあ……もちろん知ってるよ。大神の妃だからさ。妃のことはだいたいのあやかしは知ってるものだ。それに妃が働く必要なんてない。そうだろう? ……志津?」
「……えぇ、まぁ」
 志津が曖昧に頷いて、こづえが胡散くさそうに彼を見ている。
 のぞみはまた口を開いた。
「でもさっき、おゆきって……」
「と、とにかく、なにか企んでるのには間違いないんだから。来たとしても追い返そう!」
 遮るようにそう言って、彼にしては珍しく少し早急に結論を出そうとする。
 その言葉に、のぞみは慌てて首を振った。
「そんな! ダメです!」
「どうして? 役場への苦情なんか怖くないよ。向こうだって役場を騙してるんだからこっちだって……」
「でもその大人の事情と、ふぶきちゃん自身は関係ないじゃないですか」
 のぞみはきっぱりと言い切った。
「伊織さんがなにか企んでるという話は理解できました。でもお預かりした子は皆平等です。どんな理由であれお母さんが遠方へ行かれていて、お父さんも仕事で忙しいなら、その時間を園で楽しく過ごしてもらいたいと思います」
「でも大神の子だよ?」
 紅が確認するように言う。
 のぞみは頷いた。
「誰の子でも関係ありません」
「のぞみらしいね」
 こづえが苦笑した。
「本当に」
 志津が微笑む。
 のぞみは少し前に聞いたこづえの話を思い出していた。
 子育て世代のあやかしたちにとって、あやかし園はありがたい場所なのだという。あやかし園があるからここに住もうと思うくらいに。
 子を大切に思う気持ちはあやかしも人間も同じなのだ。
 だったらあやかし園をなんとしても守りたい。
 もちろん紅の言うようにふぶきを門前払いにして、力で守るという方法もあるだろう。彼女の入園は皆が言うように、伊織の作戦のうちなのだろうから。
 でもあやかし園は保育園なのだ。園児を拒否するという行為はできればしたくないとのぞみは思う。
 どんな理由があるにせよ、簡単にそれをしてしまったら本末転倒だ。
 一方で、ふぶきという子自体にものぞみは興味を引かれていた。
 母親は遠方にいて父親は仕事で忙しいなら、たとえ面倒をみてくれる大人がそばにいたとしても寂しくないはずがない。だったらせめて少しの時間だけでも、あやかし園で楽しく過ごしてはどうだろう。
 子ども同士で遊ぶ時間は、大人が思うよりも子どもにとっては楽しい時間だ。
 もしかしたらのぞみがこう思うことさえも伊織の思惑通りなのかもしれないけれど……。
「まぁ、仕方がないね」
 紅がにっこりと微笑んでグイッとのぞみの肩を抱き寄せる。そしてそのまま嬉しそうに頬ずりをした。
「私ののぞみは誰よりも子どもたちを思う優しい先生だから」
「ちょっ……! こ、紅さま! かの子ちゃんと太一君がいるのに……!」
 のぞみは真っ赤になって声をあげる。
 かの子と太一が喜んで、「らぶらぶだー! らぶらぶだー!」と言いながら、畳の上をぴょんぴょんと飛び跳ねた。
 のぞみは両手で紅を押して、頬を膨らませて彼を睨んだ。
「もう、紅さまはいつもふざけて邪魔ばかり」
「え? 邪魔?」
「そうです! この前だって、せっかく私の抱っこでえんちゃんが寝てくれそうになってたのに、紅さまが後ろから抱きついてきたから泣いちゃったじゃないですか!」
 とぼけたように首を傾げるのが憎らしくて、のぞみはつい最近の出来事を口にする。
 その言葉に紅が口を尖らせた。
「赤子は泣くのが仕事じゃないか。それにあの時は仕方がなかったんだよ。のぞみが……」
「私が?」
 のぞみが眉を上げて聞き返すと、紅がしれっとして支離滅裂な言葉を口にした。
「あの日はのぞみがかわいいお団子頭だったから、どうしても抱きつかずにはいられなかったんだ。ぴょこんと出た後毛がたまらなくかわいくて……」
「もう!」
 意味不明な理由をあげる紅に、のぞみは目を釣り上げて立ち上がった。
 彼がこうやってふざけるのはいつものこと。
 決して悪気はないとわかっていてもなんだか無性に腹立たしかった。
 のぞみは所詮人間で、あやかしの世界ではいつも誰かに守られていなくてはならない弱い存在だ。それはとても歯がゆいけれど、どうすることもできない。
 それでもあやかし園の保育士としてなら少しは誰かの役に立てるのだとそう思っていたかった。
 だから頑張っているのに……!
「とにかくこれからは私がえんちゃんを抱っこしている時は、私に触らないでくださいね!」
 のぞみはそう言い放ち、紅を睨む。
 紅が愕然として、「そんな……のぞみここのところしょっちゅうえんを抱いているじゃないか……」と呟いた。
「紅さま、かわいそう。でもえんちゃんのためですから、こらえてくださいね」
 うなだれる紅の頭を小さい手でよしよしとして、かの子が彼を慰める。
「のぞみは毎日えんと過ごしているから、もうすっかり母親の気持ちなんだろう。母親になれば女は強くなって、時に旦那がうっとおしく感じるもんなんだよ」
 訳知り顔でそう言って、こづえが忍笑いを漏らした。