「黙っててごめんなさい……」
 しょんぼりとして頭を下げるのぞみに、こづえが神妙な表情で首を振った。
「いや、おいそれと口にできる話じゃないからね。仕方がないよ」
 いつもの時間のいつもののぞみの部屋である。
 昨夜伊織が引き上げた後、集まっていた縄張り中のあやかしたちに、紅はことの経緯を説明した。
 その上で、大神の要求には応えないが、縄張りは必ず守ると宣言したのだ。
 その彼の話に、納得したあやかしはのぞみが思うに半分ほど。残りの半分は首をひねりながら、どこか釈然としないまま、不安そうに帰っていった。
 伊織が言っていた通り大神からの要求は実は頻繁にあったのだという。
 少々乱暴な方法で突きつけられる要求から縄張りを守るため、紅はしょっちゅう山へ行っていた。そうして少々疲労が溜まっていたところに術をかけられてしまい、昨夜は駆けつけるのが遅くなったのだという。
 伊織が去った後、紅はサケ子とこづえ、それから志津を集めた。そして、今後しばらくは、紅が山へ行っている間は必ず誰かがのぞみのそばにいるようにしてほしいと彼女たちに頭を下げた。園が開く前はこづえが、保育時間中はサケ子が、休みの日は志津が、といった具合だった。
 三人はその紅の頼みをふたつ返事で快諾した。
 それをありがたいと思いつつ、のぞみの胸は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 大神うんぬんは関係なく、今までだってのぞみの生活は大体そんな感じだったのだから特別になにかが変わるというわけではない。
 それでも、誰かに守られていなければ紅のそばにもいられない弱い存在である自分がもどかしくて、悔しかった。
「それに、紅さまのやり方は正しかったと思う」
 うつむいたままの顔を上げられないでいるのぞみに、こづえが難しい表情で口を開いた。
「のぞみを渡せない以上、大神さまが諦めるまでのらりくらりするしかないだろう。小競り合いはともかくとして、龍と天狗が本気で戦ったりしたら、大変なことになっちまう」
「大変なことに……?」
 のぞみは顔を上げた。
「そう、天変地異が起きるんだ。他のあやかしたちも無傷ではいられないはずだよ。まさかのぞみを妃に欲しいからってそこまでなさらないとは思うけど……。でも、紅さまとしては慎重に、のらりくらりするしかないのさ。大神さまが諦めてくださるまで」
 天変地異という恐ろしい言葉にのぞみはぶるりと身体を震わせた。
「……大神さま、諦めてくださるでしょうか」
 こづえがうーんと唸って首を傾げた。
「紅さまがおっしゃった通りはじめはほんの気まぐれだったと思うんだ。大神さまはあらゆる種類のあやかしを妃に迎えておられるけど、そういえば人間はいなかったからね。でもあっさり断られたから、メンツを潰されて意地になっていらっしゃるのかも……」
 都でのふたりのやり取りを見ているのぞみにはどこか納得のいく話だった。
「もともと大神さまは特別力が強い紅さまを疎ましく思っていらっしゃったから、なおさら許せないんだろう。近ごろ紅さまの縄張りの評判がいいのも気に食わなかったのかもしれない」
 少し意外なこづえの話にのぞみは首を傾げて問いかける。
「紅さまの縄張りって評判がいいんですか?」
 こづえは深く頷いた。
「うんいいよ。紅さま自身は縄張りのあやかしたちに対しては来るもの拒まず去る者追わずなんだけど、ここは田舎なのに、あやかしたちがたくさん集まる縄張りさ。なにせ居心地がいいからね」
 ずずずと茶をすすってから、こづえはまた話し始めた。
「紅さまは他の長に比べても圧倒的に力が強いんだ。強い長の縄張りでは揉め事は起きにくい。安全だ。しかも保育園がある」
「保育園が?」
「そう、子育てするには最適さ」
 こづえがにっこり笑って頷いた。
「普通のあやかしはぞぞぞ稼ぎの時間は子はほったらかしにするより他にないからね。ヌエ以外にも危険なことはたくさんある。長さまが預かってくださるなら、こんなにありがたいことはないんだよ。私がかの子の父親と夫婦別れをした後ここへやってきたのは、保育園があったからなんだ」
 そう言ってこづえは隣で金平糖をカリコリかじるかの子のおかっぱ頭を撫でた。
「私と同じように子育てのためにここに移ってきた奴らは結構いるはずだ。保育園も随分園児の数が増えたんじゃないかい?」
 そういえばそうだった。
 のぞみが入った時は二十人ほどだった子どもたちは徐々に増えて今や二十五人。新しく入った子たちすべてが別の場所から来た子たちだった。
「知らなかった……」
「今回の騒動でこの縄張りを離れるあやかしもいるだろう。この先どうなるかはわからないけど、保育園があるのはここだけだから、少なくともあやかし園の親子は簡単によそへは行かないだろう」
 こづえの言葉にのぞみはホッと息を吐く。なんだか少し嬉しかった。
 あやかし園があるから紅の縄張りに住みたいと思うあやかしたちがいる。
 もちろんあやかし園を始めたのは紅だ。紅が園長先生だから、皆安心して子を預けに来るのだろう。
 それでもそこで働く自分も少しは役に立っているはず。
 思いがけないこづえの話にのぞみは口を綻ばせる。
 こづえが頬杖をついてにっこりとした。
「危なくないように預かってくれるだけでも十分なのに、子どもたちが楽しんで行ってくれるんだ。簡単には離れられない。紅さまも思った以上にしっかりとここを守ってくださっていることだしね。正直言ってここまで紅さまの力が強いとは思わなかったけど」
 大神からあったという再三の要求にはのぞみだけでなくあやかしたちも気が付かなかったという。
 だったら、彼は完璧に縄張りを守ってくれていたということになる。
「このまま、引き下がってくれるといいんですけど……」
 のぞみの言葉にこづえはまた難しい表情になった、
「正攻法でいっても難しいのは向こうはよくわかったはずだ。でもこのまま諦めるとも思えない。……次は伊織らしい姑息な手を使ってくるのかも」
「伊織さんらしい……」
 丸い眼鏡の奥の鋭い目が脳裏に浮かび、のぞみはぶるりと身体を震わせた。