必ず私たちは夫婦になると断言した紅の言葉を疑うわけではないけれど、のぞみの心は完全には晴れなかった。どこか掴みどころのない彼だけれど、いざという時は頼りになるのは確かなのに。
もし彼が、のぞみの中のあやかし使いの血のみに惹かれて夫婦になるというならば、本当にそれでいいのだろうかと、のぞみは思いはじめていた。
天気は相変わらず不安定で、紅の見回りの時間は日に日に増えていく。子を迎えに来る親たちからも不安を訴える声を漏れ聞くようになっていた。
そしてある日とうとう異変は起きた。
降園時間のことだった。
その日は昼間からずっと曇り空が続いていた。もくもくとした灰色の厚い雲からは今にも雨が落ちてきそうなのに、夜になっても雨は降らない、変な天気だった。
「太一くん、今日も楽しかったね。さようなら」
狐の子太一に向かってのぞみはにっこりと笑いかける。
太一が白い尻尾をフリフリとした。
「うん楽しかった。のぞ先生バイバイ!」
太一と手を繋いでいる彼の母親志津が上品な仕草で頭を下げた。
「先生、今日もありがとうございました」
そして親しげに微笑んで、紫色の風呂敷で包まれたお弁当箱を差し出した。
「これ、また颯太が作ったんです。よかったら……」
「わあ、ありがとうございます」
のぞみはそれをいそいそと受け取る。
彼女の夫はのぞみの実の兄。駅前の商店街で寿司職人をしている彼は、時々こんな風にして、のぞみにいなり寿司を届けてくれるのだ。
狐のあやかしである妻の好物だというそのいなり寿司は、ほんのり甘い優しい味で、毎日食べても全然飽きない。
のぞみもこのいなり寿司が大好きだ。
「のぞ先生、またうちに遊びにきてくれよな」
ニカッと笑って太一が言う。
のぞみはにっこりして頷いた。
最近は隣町で家族三人で暮らしている兄夫婦とのぞみは頻繁に交流している。
志津のおかげだった。
彼女は、あやかしと夫婦になったことでのぞみと縁を切る決断をした兄を心配し、また家族の絆を結び直してくれた。
美しくて心優しい白い狐は、いつものぞみの憧れだ。
「ふふふ、またのぞみ先生がお休みの日にね」
志津が太一の頭を撫でる。
その姿にのぞみの胸がチクリと痛んだ。
彼女自身も人間と夫婦になったことで自分の家族とは距離ができたままなのだということを図らずものぞみは都で知った。
それが狐の一族の掟ならば、のぞみが口を出す問題ではないだろう。
でも……。
「……のぞみ先生?」
急に黙り込んでしまったのぞみに、志津が小さく首を傾げる。のぞみはハッして首を振った。
「なんでもありません。じゃあ、また次のお休みにでもお邪魔させてもらってもいいですか?」
のぞみの言葉に、志津は微笑んで頷いた。
太一がやったぁと飛び跳ねる。
その時。
次々に親が迎えに来て、少し騒がしいあやかし園に、びゅーと強い風が吹き抜ける。厚い厚い雲の隙間から、月がぼんやりと姿を見せた。
その月に皆、吸い寄せられるように視線を奪われる。
青白い、どこかきみが悪いその光は、まっすぐにあやかし園を照らしている。
「あれは、なんだ……?」
訝しむような誰かの声。
光の中に黒い点が現れた。
それはどんどん近づいて、次第に形を成してゆく。
「あれは……」
狐たちの行列だった。
皆いい服を着て、澄ました顔で歩いている。
黒い漆に金箔の飾りが付いた、豪華な籠を背負っていた。
先頭を行く一際上品な狐は都で出会ったあの伊織だった。
「まさか……」
形のいい眉を寄せて志津が呟いた。
まるで大名行列のようなその一行は、どんどんこちらに近づいてくる。
なにやら不吉な予感がして、のぞみの身体がふるりと震えた。
「のぞみ先生、紅さまは?」
長を求める志津の言葉が、のぞみをまた不安にさせる。
のぞみはふるふると首を振った。
「山へ行かれています。……志津さんあれは?」
志津が行列に視線を送り、低い声で囁いた。
「都からの……大神さまからの使者です。こんなこと滅多にあることじゃないのに……いったいどうしたのでしょう」
大神という言葉に、のぞみは震えあがってしまう。
思わず森を振り返るが、紅はまだ帰ってこない。
「こっちへ来る……」
志津が呟いたその時。
シャンシャーンと大きな鈴の音が響き渡り、辺りはしーんと静まり返る。
皆が固唾を呑んで見守る中、一行はのぞみの前に降り立った。
先頭の伊織が、一歩前に歩み出て、のぞみに向かって頭を下げた。
「お久しぶりでございます、のぞみさま」
のぞみはそれに応えられない。
都での出来事が頭に浮かんでいたからだ。あんなことがあったのに平然としていられるわけがないだろう。
「伊織、いったいこれは……?」
尋ねる志津に、のぞみは彼女が伊織の親戚だということを思い出す。
だが伊織は彼女からの問いかけを、あっさりと黙殺した。
そして鋭い切れ長の瞳でのぞみをジッと見つめてから、驚くべき言葉を口にした。
「おめでとうございます、のぞみさま。この程、あなたさまを大神さまのお妃さまとしてお迎えするための準備が御殿にて整いましてございます。大神さまが都にてお待ちかねでございますよ。どうぞご準備くださいませ」
静まり返っていたその場に、伊織の声はよく響いた。
だがあまりにも突拍子のないその言葉の内容に、すぐには誰も反応しない。
都での一件を知っているのぞみでさえも飲み込めないのだから、皆はなおさらそうだろう。
志津が「まさか」と呟いた。
伊織だけが、冷静だった。にっこりと微笑んで、のぞみに向かって口を開く。
「のぞみさま、必要なものはすべてこちらで整えさせていただきます。御身ひとつでお越しくだされば結構なのですよ。どうぞこちらにお乗りください」
伊織の言葉に、籠の御簾がふわりと上がり、そこからするりと梯子が下りる。
ふわりと香る高貴な香りは、都の御殿を彷彿とさせた。
「あの……私……」
のぞみは思わず後ずさる。このままでは有無を言わせず籠に乗せられてしまう。
すると志津が歩み出て、籠とのぞみの間に立った。
「伊織、なにかの間違いでありませんか。のぞみさまは、この縄張りの長である紅さまのお嫁さまなのですよ」
伊織が眉を寄せて志津を睨んだ。
「姉さん、間違いなんかじゃありません」
「でも、そんなことありえないわ。とにかく紅さまがお帰りになるまでは……」
「その必要はありません!」
びりりとその場を緊張させる鋭い声で言い放ち、伊織はさっと右手を上げる。するとそれに従うように緑色の巻物がふわふわと伊織の隣までやってきた。
彼は一同を見回して、最後に志津をじろりと睨む。
そしてここが肝心とばかりに大きな声を張り上げた。
「これは、大神さまからの勅命にございます!」
慇懃に頭を下げる彼の隣で、巻物の紐がするりと解けて皆の前に広がった。
晒された白い和紙の上、黒い墨のぐにゃぐにゃ文字に、事態を見守るあやかしたちからおおっ!という声があがる。
「そんな……まさか……」
志津が掠れた声を漏らした。
間髪入れずたくさんの狐たちがのぞみと志津を取り囲む。
「ひっ……!」
喉の奥から引き攣った声が出て、のぞみは志津と手を取り合った。
志津が切羽詰まった声をあげる。
「ま、待って……! 伊織……!」
伊織がスッと目を細め、無情なことを言い放つ。
「捕らえよ!」
周りを取り囲む狐たちが、のぞみ目がけて飛び上がる。
のぞみが思わず目を閉じた。
——その時。
びゅーと風が強く吹いた。
ぎゃ!という叫び声とばたばたとなにかが倒れるような音、恐る恐る目を開けると、紅の背中がそこにあった。
吹き飛ばされた狐たちは、あちらこちらに散らばって、うめき声をあげている。
「紅さま‼︎」
のぞみと志津は声をあげる。紅が振り返って、微笑んだ。
「遅くなってすまなかった。もう大丈夫。志津、ありがとう」
志津が頷いて下がっていった。
パチパチパチと手を叩く音がして皆がそちらに注目する。伊織だった。
「さすがでございます、紅さま。大神さまの術をこの短時間で見破るとは。やはりあなただけは他の長たちとは違いますね」
わざとらしく称賛の言葉を口にして、冷淡な眼差しで紅を睨んでいる。
紅が彼に向き直った。
「以前私はのぞみには触るなと言ったはずだ。いくらお前でも容赦しない。次は命をかける覚悟をしろ」
静かな怒りを帯びた低い声、目尻が赤く光っている。
だが伊織は怯むことはなかった。
「ですが他でもない大神さまの命にございます」
平然として言葉を返し、よく響く声でとうとうと語り始めた。
「そもそも都にて大神さまはあなた方の結婚をお許しにはならなかった。のぞみさまは大神さまの妃にするとおっしゃったのに、それを無視して都を脱出された。それからも、のぞみさまを引き渡すよう再三要求しておりましたのに、それらもすべて退けておしまいになられた。……大神さまに背くとは、いくら紅さまでも許されることではありませんよ」
「再三の要求……」
のぞみは眉を寄せて頷いた。初耳だが、心当たりがないわけでもない。
都から帰ってきてからずっと天気は不安定で、紅の見回りは頻繁だ。
一方で、都での出来事が暴露されて、周りで事態を見守っているあやかしたちに動揺が広がってゆく。
「そんな、まさか……」
「許しを得られていなかったなんて……」
「知らなかった」
ヒソヒソと囁き合う声が、あちらこちらから聞こえてきて、のぞみの胸がズキンと痛む。
皆がのぞみをお嫁さまだと思い込んでいるのをのぞみは否定しなかった。裏切られたと思われても仕方がない。
「あの話は断ったはずだ。のぞみは大神の妃なんかにしない」
きっぱりとした紅の言葉に、あやかしたちがなんともいえない空気になる。
いくら長の決断でも勅命に逆らって大丈夫なのかと不安を感じているのだろう。
「……では、お考えは変わらない、と」
伊織の眼鏡がキラリと光る。
紅が呆れたようにため息をついた。
「どうして私の考えが変わると思うんだ。……もう一度言う。のぞみは私と夫婦になる。誰にも渡さない」
そしてゆっくりと腕を上げて、手のひらを伊織に向ける。銀髪がふわりと浮かび上がり、赤い風が紅とのぞみの周りをぐるぐると回り出した。
「仕方がありませんね」
伊織がため息をついた。
「今この場でやり合ってあなたに勝てる見込みはありませんから、本日はこれにて失礼させていただきます」
だが帰り際に、釘を刺すのも忘れてはいなかった。
「大神さまのお心に背いたこと、くれぐれも後悔なさいませんように……」
もし彼が、のぞみの中のあやかし使いの血のみに惹かれて夫婦になるというならば、本当にそれでいいのだろうかと、のぞみは思いはじめていた。
天気は相変わらず不安定で、紅の見回りの時間は日に日に増えていく。子を迎えに来る親たちからも不安を訴える声を漏れ聞くようになっていた。
そしてある日とうとう異変は起きた。
降園時間のことだった。
その日は昼間からずっと曇り空が続いていた。もくもくとした灰色の厚い雲からは今にも雨が落ちてきそうなのに、夜になっても雨は降らない、変な天気だった。
「太一くん、今日も楽しかったね。さようなら」
狐の子太一に向かってのぞみはにっこりと笑いかける。
太一が白い尻尾をフリフリとした。
「うん楽しかった。のぞ先生バイバイ!」
太一と手を繋いでいる彼の母親志津が上品な仕草で頭を下げた。
「先生、今日もありがとうございました」
そして親しげに微笑んで、紫色の風呂敷で包まれたお弁当箱を差し出した。
「これ、また颯太が作ったんです。よかったら……」
「わあ、ありがとうございます」
のぞみはそれをいそいそと受け取る。
彼女の夫はのぞみの実の兄。駅前の商店街で寿司職人をしている彼は、時々こんな風にして、のぞみにいなり寿司を届けてくれるのだ。
狐のあやかしである妻の好物だというそのいなり寿司は、ほんのり甘い優しい味で、毎日食べても全然飽きない。
のぞみもこのいなり寿司が大好きだ。
「のぞ先生、またうちに遊びにきてくれよな」
ニカッと笑って太一が言う。
のぞみはにっこりして頷いた。
最近は隣町で家族三人で暮らしている兄夫婦とのぞみは頻繁に交流している。
志津のおかげだった。
彼女は、あやかしと夫婦になったことでのぞみと縁を切る決断をした兄を心配し、また家族の絆を結び直してくれた。
美しくて心優しい白い狐は、いつものぞみの憧れだ。
「ふふふ、またのぞみ先生がお休みの日にね」
志津が太一の頭を撫でる。
その姿にのぞみの胸がチクリと痛んだ。
彼女自身も人間と夫婦になったことで自分の家族とは距離ができたままなのだということを図らずものぞみは都で知った。
それが狐の一族の掟ならば、のぞみが口を出す問題ではないだろう。
でも……。
「……のぞみ先生?」
急に黙り込んでしまったのぞみに、志津が小さく首を傾げる。のぞみはハッして首を振った。
「なんでもありません。じゃあ、また次のお休みにでもお邪魔させてもらってもいいですか?」
のぞみの言葉に、志津は微笑んで頷いた。
太一がやったぁと飛び跳ねる。
その時。
次々に親が迎えに来て、少し騒がしいあやかし園に、びゅーと強い風が吹き抜ける。厚い厚い雲の隙間から、月がぼんやりと姿を見せた。
その月に皆、吸い寄せられるように視線を奪われる。
青白い、どこかきみが悪いその光は、まっすぐにあやかし園を照らしている。
「あれは、なんだ……?」
訝しむような誰かの声。
光の中に黒い点が現れた。
それはどんどん近づいて、次第に形を成してゆく。
「あれは……」
狐たちの行列だった。
皆いい服を着て、澄ました顔で歩いている。
黒い漆に金箔の飾りが付いた、豪華な籠を背負っていた。
先頭を行く一際上品な狐は都で出会ったあの伊織だった。
「まさか……」
形のいい眉を寄せて志津が呟いた。
まるで大名行列のようなその一行は、どんどんこちらに近づいてくる。
なにやら不吉な予感がして、のぞみの身体がふるりと震えた。
「のぞみ先生、紅さまは?」
長を求める志津の言葉が、のぞみをまた不安にさせる。
のぞみはふるふると首を振った。
「山へ行かれています。……志津さんあれは?」
志津が行列に視線を送り、低い声で囁いた。
「都からの……大神さまからの使者です。こんなこと滅多にあることじゃないのに……いったいどうしたのでしょう」
大神という言葉に、のぞみは震えあがってしまう。
思わず森を振り返るが、紅はまだ帰ってこない。
「こっちへ来る……」
志津が呟いたその時。
シャンシャーンと大きな鈴の音が響き渡り、辺りはしーんと静まり返る。
皆が固唾を呑んで見守る中、一行はのぞみの前に降り立った。
先頭の伊織が、一歩前に歩み出て、のぞみに向かって頭を下げた。
「お久しぶりでございます、のぞみさま」
のぞみはそれに応えられない。
都での出来事が頭に浮かんでいたからだ。あんなことがあったのに平然としていられるわけがないだろう。
「伊織、いったいこれは……?」
尋ねる志津に、のぞみは彼女が伊織の親戚だということを思い出す。
だが伊織は彼女からの問いかけを、あっさりと黙殺した。
そして鋭い切れ長の瞳でのぞみをジッと見つめてから、驚くべき言葉を口にした。
「おめでとうございます、のぞみさま。この程、あなたさまを大神さまのお妃さまとしてお迎えするための準備が御殿にて整いましてございます。大神さまが都にてお待ちかねでございますよ。どうぞご準備くださいませ」
静まり返っていたその場に、伊織の声はよく響いた。
だがあまりにも突拍子のないその言葉の内容に、すぐには誰も反応しない。
都での一件を知っているのぞみでさえも飲み込めないのだから、皆はなおさらそうだろう。
志津が「まさか」と呟いた。
伊織だけが、冷静だった。にっこりと微笑んで、のぞみに向かって口を開く。
「のぞみさま、必要なものはすべてこちらで整えさせていただきます。御身ひとつでお越しくだされば結構なのですよ。どうぞこちらにお乗りください」
伊織の言葉に、籠の御簾がふわりと上がり、そこからするりと梯子が下りる。
ふわりと香る高貴な香りは、都の御殿を彷彿とさせた。
「あの……私……」
のぞみは思わず後ずさる。このままでは有無を言わせず籠に乗せられてしまう。
すると志津が歩み出て、籠とのぞみの間に立った。
「伊織、なにかの間違いでありませんか。のぞみさまは、この縄張りの長である紅さまのお嫁さまなのですよ」
伊織が眉を寄せて志津を睨んだ。
「姉さん、間違いなんかじゃありません」
「でも、そんなことありえないわ。とにかく紅さまがお帰りになるまでは……」
「その必要はありません!」
びりりとその場を緊張させる鋭い声で言い放ち、伊織はさっと右手を上げる。するとそれに従うように緑色の巻物がふわふわと伊織の隣までやってきた。
彼は一同を見回して、最後に志津をじろりと睨む。
そしてここが肝心とばかりに大きな声を張り上げた。
「これは、大神さまからの勅命にございます!」
慇懃に頭を下げる彼の隣で、巻物の紐がするりと解けて皆の前に広がった。
晒された白い和紙の上、黒い墨のぐにゃぐにゃ文字に、事態を見守るあやかしたちからおおっ!という声があがる。
「そんな……まさか……」
志津が掠れた声を漏らした。
間髪入れずたくさんの狐たちがのぞみと志津を取り囲む。
「ひっ……!」
喉の奥から引き攣った声が出て、のぞみは志津と手を取り合った。
志津が切羽詰まった声をあげる。
「ま、待って……! 伊織……!」
伊織がスッと目を細め、無情なことを言い放つ。
「捕らえよ!」
周りを取り囲む狐たちが、のぞみ目がけて飛び上がる。
のぞみが思わず目を閉じた。
——その時。
びゅーと風が強く吹いた。
ぎゃ!という叫び声とばたばたとなにかが倒れるような音、恐る恐る目を開けると、紅の背中がそこにあった。
吹き飛ばされた狐たちは、あちらこちらに散らばって、うめき声をあげている。
「紅さま‼︎」
のぞみと志津は声をあげる。紅が振り返って、微笑んだ。
「遅くなってすまなかった。もう大丈夫。志津、ありがとう」
志津が頷いて下がっていった。
パチパチパチと手を叩く音がして皆がそちらに注目する。伊織だった。
「さすがでございます、紅さま。大神さまの術をこの短時間で見破るとは。やはりあなただけは他の長たちとは違いますね」
わざとらしく称賛の言葉を口にして、冷淡な眼差しで紅を睨んでいる。
紅が彼に向き直った。
「以前私はのぞみには触るなと言ったはずだ。いくらお前でも容赦しない。次は命をかける覚悟をしろ」
静かな怒りを帯びた低い声、目尻が赤く光っている。
だが伊織は怯むことはなかった。
「ですが他でもない大神さまの命にございます」
平然として言葉を返し、よく響く声でとうとうと語り始めた。
「そもそも都にて大神さまはあなた方の結婚をお許しにはならなかった。のぞみさまは大神さまの妃にするとおっしゃったのに、それを無視して都を脱出された。それからも、のぞみさまを引き渡すよう再三要求しておりましたのに、それらもすべて退けておしまいになられた。……大神さまに背くとは、いくら紅さまでも許されることではありませんよ」
「再三の要求……」
のぞみは眉を寄せて頷いた。初耳だが、心当たりがないわけでもない。
都から帰ってきてからずっと天気は不安定で、紅の見回りは頻繁だ。
一方で、都での出来事が暴露されて、周りで事態を見守っているあやかしたちに動揺が広がってゆく。
「そんな、まさか……」
「許しを得られていなかったなんて……」
「知らなかった」
ヒソヒソと囁き合う声が、あちらこちらから聞こえてきて、のぞみの胸がズキンと痛む。
皆がのぞみをお嫁さまだと思い込んでいるのをのぞみは否定しなかった。裏切られたと思われても仕方がない。
「あの話は断ったはずだ。のぞみは大神の妃なんかにしない」
きっぱりとした紅の言葉に、あやかしたちがなんともいえない空気になる。
いくら長の決断でも勅命に逆らって大丈夫なのかと不安を感じているのだろう。
「……では、お考えは変わらない、と」
伊織の眼鏡がキラリと光る。
紅が呆れたようにため息をついた。
「どうして私の考えが変わると思うんだ。……もう一度言う。のぞみは私と夫婦になる。誰にも渡さない」
そしてゆっくりと腕を上げて、手のひらを伊織に向ける。銀髪がふわりと浮かび上がり、赤い風が紅とのぞみの周りをぐるぐると回り出した。
「仕方がありませんね」
伊織がため息をついた。
「今この場でやり合ってあなたに勝てる見込みはありませんから、本日はこれにて失礼させていただきます」
だが帰り際に、釘を刺すのも忘れてはいなかった。
「大神さまのお心に背いたこと、くれぐれも後悔なさいませんように……」