アパートの窓枠をガタガタと風が揺らしている。ざざざという木々の音を聞きながら、紅は窓際に立ち鋭い視線で夜の森を睨んでいる。
風呂から戻ってきたのぞみは、どこか近寄りがたい空気をまとう彼の横顔を、黙って見つめていた。
いつもは穏やかな彼がこんな目をしている時は、縄張りの中にあやしいものがいないどうか、全神経を集中させて感じとっている時なのだ。
のぞみは首にかけたタオルをギュッと握りしめた。
「……なにか、よくないことがあるんですか」
邪魔をしてはいけないと思いつつ、思わずのぞみは問いかける。
少し前の夜にサケ子が言っていた通り、最近の彼は以前よりも念入りに見回りをするようになった。
まるで、なにかを特別に警戒するかのように。
「ああ、のぞみ。お風呂は気持ちよかった?」
そう言って、振り返った彼はもういつもの彼だった。
のぞみはこくんと頷いて、窓際の彼の隣に立ち、窓の外を見つめた。
けれど夜の森にのぞみ自身はなにも特別なものは感じなかった。
「……最近、風が強いですね」
呟くと、大きな手が優しく頭を撫でてくれる。そして彼はのぞみを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、のぞみが心配するようなことはなにもないからね」
いつもの軽い調子でそう言って紅は肩をすくめる。それをどこかわざとらしく感じるのは、のぞみの気のせいではないはずだ。
「でも……」
なおものぞみ言いかける。するとひょいと抱き上げられて、すぐそばに敷いてある布団の上に寝かされた。
大きな手が、のぞみの頭を優しく撫でた。
「皆、私がもう紅さまのお嫁さまだと思っています。……なんだか騙しているみたいで、心苦しいんです」
ここのところずっと思っていたことを、のぞみはついに口にする。
紅がにっこりと微笑んだ。
「それは今すぐにでも本当の夫婦になりたいという誘いかい? 案外大胆なんだね、のぞみは」
わざとらしくそう言って、紅はのぞみの上に覆い被さる。
でもそのいつもの軽口に、今は応じる気になれなくて、のぞみは眉を下げて首を振った。
「……お許し、出てないじゃないですか」
その言葉に、至近距離にある彼の赤い目が瞬きを二回、三回。額と額をコツンと合わせて、小さくため息をつくとコロンと隣に寝そべった。
アパートの天井から下がるオレンジ色の古い電球を見つめたまま、ふたりはしばらくの間黙り込む。
先に口を開いたのは、紅だった。
「大神の許しなんて、本当にいらないよ」
うそだ、とのぞみは思う。
本当にそうなら、彼はもうとっくにそれを実行してるはず。
なのにそれをしないのは、やはりなにか不都合があるのだろう。
のぞみにはわからないなにかが。
「……もしもこのまま、結婚を許してもらえなかったら、紅さまはどうしますか。ずっとお許しが出なかったら……」
「……のぞみ?」
紅が眉を寄せて咎めるようにのぞみを見る。でも一度口にしてしまったら、もう止めることはできなかった。
「大神さま、すごく……すごく恐ろしい方でした。力で敵うとは思いません。本当に怒らせてしまったら、縄張りの皆も危険なんじゃないですか? それでも……皆を危険に晒しても結婚する必要があるんでしょうか。そもそも紅さまには人間の私なんかよりももっとふさわしい相手が……ん」
不安な思いが止めどなく溢れ出るその口を、紅の唇が少し強引に塞ぐ。温かい大きな腕が、のぞみをギュッと抱きしめた。
目を閉じて、彼の温もりだけを感じると、胸の中をぐるぐると吹き荒れていた不安の風が、少しだけ落ち着いてゆく。
「……いくらのぞみでも」
囁くように紅が言う。
その言葉に、のぞみはいつのまにか唇が離れていたことに気が付いた。
「いくらのぞみでも、その先を口にするのは許さない。……絶対に。のぞみはなにも心配しないで、私に任せていればいい。必ず私たちは夫婦になる。約束するよ」
彼にしては珍しい有無を言わせぬ強い言葉に安心して、のぞみはゆっくりと頷いた。
その一方で、小さな小さな疑問の芽が胸の中に芽生えるのを感じていた。
夫婦が、互いに互いを必要としてともに歩んでいくものならば、のぞみにとっては、相手は彼しかいないだろう。
彼はいつものぞみを守り大切にしてくれる。
……ではその逆はどうだろう。
彼にとって、のぞみでなくてはいけない理由。そんなもの、はたして存在するのだろうか。
「もうおやすみ」
優しく触れる彼の手がのぞみを夢の世界へと誘う。そこへ落ちる瞬間にのぞみの脳裏に浮かんだのは、大神に言われたあの言葉だった。
『おぬし、あやかし使いの血だな』
……彼は、のぞみがそうでなかったとしても、結婚したいと思うのだろうか。
風呂から戻ってきたのぞみは、どこか近寄りがたい空気をまとう彼の横顔を、黙って見つめていた。
いつもは穏やかな彼がこんな目をしている時は、縄張りの中にあやしいものがいないどうか、全神経を集中させて感じとっている時なのだ。
のぞみは首にかけたタオルをギュッと握りしめた。
「……なにか、よくないことがあるんですか」
邪魔をしてはいけないと思いつつ、思わずのぞみは問いかける。
少し前の夜にサケ子が言っていた通り、最近の彼は以前よりも念入りに見回りをするようになった。
まるで、なにかを特別に警戒するかのように。
「ああ、のぞみ。お風呂は気持ちよかった?」
そう言って、振り返った彼はもういつもの彼だった。
のぞみはこくんと頷いて、窓際の彼の隣に立ち、窓の外を見つめた。
けれど夜の森にのぞみ自身はなにも特別なものは感じなかった。
「……最近、風が強いですね」
呟くと、大きな手が優しく頭を撫でてくれる。そして彼はのぞみを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、のぞみが心配するようなことはなにもないからね」
いつもの軽い調子でそう言って紅は肩をすくめる。それをどこかわざとらしく感じるのは、のぞみの気のせいではないはずだ。
「でも……」
なおものぞみ言いかける。するとひょいと抱き上げられて、すぐそばに敷いてある布団の上に寝かされた。
大きな手が、のぞみの頭を優しく撫でた。
「皆、私がもう紅さまのお嫁さまだと思っています。……なんだか騙しているみたいで、心苦しいんです」
ここのところずっと思っていたことを、のぞみはついに口にする。
紅がにっこりと微笑んだ。
「それは今すぐにでも本当の夫婦になりたいという誘いかい? 案外大胆なんだね、のぞみは」
わざとらしくそう言って、紅はのぞみの上に覆い被さる。
でもそのいつもの軽口に、今は応じる気になれなくて、のぞみは眉を下げて首を振った。
「……お許し、出てないじゃないですか」
その言葉に、至近距離にある彼の赤い目が瞬きを二回、三回。額と額をコツンと合わせて、小さくため息をつくとコロンと隣に寝そべった。
アパートの天井から下がるオレンジ色の古い電球を見つめたまま、ふたりはしばらくの間黙り込む。
先に口を開いたのは、紅だった。
「大神の許しなんて、本当にいらないよ」
うそだ、とのぞみは思う。
本当にそうなら、彼はもうとっくにそれを実行してるはず。
なのにそれをしないのは、やはりなにか不都合があるのだろう。
のぞみにはわからないなにかが。
「……もしもこのまま、結婚を許してもらえなかったら、紅さまはどうしますか。ずっとお許しが出なかったら……」
「……のぞみ?」
紅が眉を寄せて咎めるようにのぞみを見る。でも一度口にしてしまったら、もう止めることはできなかった。
「大神さま、すごく……すごく恐ろしい方でした。力で敵うとは思いません。本当に怒らせてしまったら、縄張りの皆も危険なんじゃないですか? それでも……皆を危険に晒しても結婚する必要があるんでしょうか。そもそも紅さまには人間の私なんかよりももっとふさわしい相手が……ん」
不安な思いが止めどなく溢れ出るその口を、紅の唇が少し強引に塞ぐ。温かい大きな腕が、のぞみをギュッと抱きしめた。
目を閉じて、彼の温もりだけを感じると、胸の中をぐるぐると吹き荒れていた不安の風が、少しだけ落ち着いてゆく。
「……いくらのぞみでも」
囁くように紅が言う。
その言葉に、のぞみはいつのまにか唇が離れていたことに気が付いた。
「いくらのぞみでも、その先を口にするのは許さない。……絶対に。のぞみはなにも心配しないで、私に任せていればいい。必ず私たちは夫婦になる。約束するよ」
彼にしては珍しい有無を言わせぬ強い言葉に安心して、のぞみはゆっくりと頷いた。
その一方で、小さな小さな疑問の芽が胸の中に芽生えるのを感じていた。
夫婦が、互いに互いを必要としてともに歩んでいくものならば、のぞみにとっては、相手は彼しかいないだろう。
彼はいつものぞみを守り大切にしてくれる。
……ではその逆はどうだろう。
彼にとって、のぞみでなくてはいけない理由。そんなもの、はたして存在するのだろうか。
「もうおやすみ」
優しく触れる彼の手がのぞみを夢の世界へと誘う。そこへ落ちる瞬間にのぞみの脳裏に浮かんだのは、大神に言われたあの言葉だった。
『おぬし、あやかし使いの血だな』
……彼は、のぞみがそうでなかったとしても、結婚したいと思うのだろうか。