「あ、雪」
ざあざあと近くを流れる清流の音だけが聞こえる静かな夜。
真っ黒な空に白い息を吐いて、のぞみはとろりとした熱い湯にちゃぷんと浸かる。そしてゆっくりと目を閉じた。
山間にポツンと佇む温泉宿の露天風呂である。
天狗の故郷だというこの山に、のぞみは紅とともに今日到着した。ここからほど近い場所にあるというあやかしの都にいる大神に結婚の許しをもらうためである。
天狗の相棒カラスの女将が経営するというこの宿は、外からはどこからどう見てもただの廃墟。でも一歩中に入れば居心地のいい空間が広がっていて、各部屋には露天風呂まで付いているのだから驚きだった。
『まぁ、紅さま。お連れさまは人間さまでいらっしゃいますカァ』
カラスの女将は、玄関でのぞみと紅を出迎えるなり驚いた。
『うん、そうだよ。かわいいだろう? 明日大神に結婚の許しをもらいに行くんだ』
『……珍しいこともあるもんだ』
カラスの女将はそう言って、首をひねりながら最高級だというこの離れの部屋にふたりを案内してくれた。
その女将の反応に、のぞみは少し不安になった。
紅の縄張りのあやかしたちは、のぞみと紅の縁組を当たり前に受け入れてくれた。けれど、やはり普通のあやかしにとっては珍しいことのようだ。
それはきっと明日会いにいく大神も同じなのだろう。
すんなりと認めてもらえるといいけれど……のぞみがそう思った時。
「初雪だね」
不意に声をかけられて、のぞみは驚いて目を開ける。いつのまにかすぐそばで、紅が湯に浸かっていた。
「ぎゃっ!」
のぞみは目を丸くして色気のない声をあげてしまう。
全然気配を感じなかったというのに、いったいいつのまに入ってきていたのだ。
のぞみは真っ赤になって紅を睨んだ。
「ぜぜぜ絶対に、覗かないでくださいねって言ったじゃないですかっ!」
「覗いてはいないよ。ただ一緒に入ろうと思っただけさ。部屋に風呂が付いているのは、ふたりで入るためだろう? ふふふ、もう夫婦同然だと言うのに、いつまでものぞみは恥ずかしがり屋だなぁ」
屁理屈を言って、紅は銀色の髪をかきあげる。
のぞみは頬を膨らませたまま、彼からすすすと距離を取った。
「毎日お風呂に入るのは人間の習慣だけど、いいものだね」
そう言って頭にタオルを乗せて、紅は気持ちよさそうに目を閉じる。
その様子に、のぞみは思わず笑みを漏らした。
どうやら天狗も、風呂は気持ちいいらしい。
「それにしても、今日はたくさんの昔馴染みに会ったよ。のぞみを自慢することができて嬉しかったなぁ」
紅が満足そうに微笑んだ。
ここは遠い昔、人間の都が置かれていたこともあるという古い土地。あやかしたちにとって故郷のような場所なのだという。
「あやかしは古来から人間とともにある存在だからね。かつて人間の都でもあったこの土地から生まれたようなものなんだよ。ここは、私たちの街よりもあやかしと人間との距離が少し近い」
本当にそうだった。
昼間に観光地でもある街の中心部をのぞみは紅とふたり手を繋いで散策した。驚くべきことにメインストリートに立ち並ぶ土産物屋の中には、あやかしが経営している店もあって、堂々と人間相手に商売をしていた。
鏡娘(かがみむすめ)というそのあやかしは、土産にぴったりな小さな手鏡を売っていた。思わず手に取りたくなるようなかわいい千代紙柄の手鏡は、うっかり夜に覗くと鏡娘がひょっこりと顔を出して、ぞぞぞとさせられるのだという。
紅との婚約祝いにひとつやると言われたが、のぞみはそれを丁重にお断りした。
うっかり夜に覗いてしまってはたまらない。
「紅さまはあやかしの中でも有名なんですか。たくさんのあやかしに声をかけられていましたよね」
ふと思い出してのぞみは尋ねる。
紅がうーんと首を傾げた。
「まぁ、縄張りは田舎だとはいえ、まがりなりにも長だからね。天狗自体が少ないし」
「……それだけですか? 随分女性に人気みたいでしたけど。なんだか紅さまのお嫁さまが人間の私だなんて申し訳ないような気分でした」
昼間紅はいたるところで呼び止められ、声をかけられていた。
そしてそのあやかしたちは皆、紅が連れているのぞみにも興味深々だった。
嫁にするつもりだと、紅が自慢げに紹介すると大抵のあやかしたちは驚き、唖然とした。
だが中には、それだけではない反応をする者もいた。
『紅さまがまたお嫁さまを迎えられるお気持ちになられたのはようございました。ぜひ私もお嫁さまのアパートに入りたいものですわ』
そう言って、紅にしなだれ掛かるように絡みついていた猫又の尻尾は、のぞみの脛をピシリと叩いた。
『かわいらしい方ですわね、紅さま』
にっこり微笑む女天狗の視線は、鋭くのぞみを突き刺した。
不意にそれらを思い出し、のぞみは膨れっ面になってしまう。その頬を紅が嬉しそうにつついた。
「やきもちだね、かわいいなぁ。そんな心配しなくても大丈夫。私はずっとのぞみだけだと、皆の前で約束しただろう?」
そんな呑気な……とのぞみは思う。
のぞみにとってはどんな理由であれ"あやかしに睨まれる"というだけでも大問題だというのに。
アゴまで湯に浸かったまま、のぞみは紅をジロリと睨む。
紅が機嫌よくふふふと笑って、のぞみに手を伸ばした。
「なんなら大神の許しなんかいらないから、のぞみが不安にならないように、今ここで夫婦になってしまおうか」
「あ……! お、大神さまはっ!」
言いながら、のぞみは紅のその手から、あと少しのところで逃れることに成功する。
彼はいつもこうやって、ところかまわずいきなりのぞみを抱きしめる。それが嫌だというわけではないけれど、今は少し具合が悪い。
なにせここは露天風呂で……ふたりは服を着ていないのだから。
「お、大神さまは、結婚をお許しくださるでしょうか」
のぞみの言葉に、紅は伸ばした手をそのままに、口を尖らせた。
「べつにいらないんだよ、大神の許しなんて。まったくサケ子は頭が固いんだから……でもあんな風に大々的に言ってしまったら、許しをもらわないわけにいかないじゃないか。縄張りのあやかしたちが不安になってしまう」
いい加減なことを言いつつも、長らしいところを見せて紅はつまらなそうにため息をついた。
「長さまのお嫁さまが、人間の私でも大丈夫なんでしょうか」
のぞみはここにきて不安に思っていたことを口にする。
「大丈夫、大丈夫」
紅が請け負った。
「大神は、私のことになんて興味ないよ。明日の面会も一瞬で終わるからね。そしたらついに私たちは……」
そう言って、ふふふと笑う紅の手がまたのぞみの方へ伸びてくる。
のぞみは再びそれをかわした。
「な、縄張りの皆は元気でしょうか。保育園は、大丈夫かなぁ……?」
「また、のぞみは……」
紅が呆れたような声を出した。
「保育園はサケ子に任せてきただろう? 私たちが出発したのは今朝なんだから、なにも心配はいらないよ」
「それは、そうですけど……」
ヌエの脅威がなくなった今、紅がいなくても大丈夫だとサケ子はふたりを心よく送り出してくれた。
だから当然保育園は大丈夫に違いない。
のぞみだって本当にそれを心配しているわけではないのだ。
「でも、なんだか皆と一緒にいないのが、落ち着かないっていうか……」
今ごろあやかし園は夜ご飯の時間だ。
鬼三兄弟が弁当をひっくり返したり、大きく裂けた口で弁当を食べるサケ子を見て子供たちが泣いたりと、大騒ぎに違いない。
それがなんだか妙に恋しかった。
「たった一日離れただけなのに、もう皆に会いたくなっちゃった……」
のぞみはそう呟いて、ちらほらと舞い降りる白い雪の結晶を、手のひらで受け止める。
そして小さくため息をついた。
そこへ……。
「のぞみ‼︎」
「ぎゃあ!」
三度(みたび)手が伸びてきて、ついにのぞみは捕まってしまう。お湯は白く濁っているが、どこを見ていいやらわからない。
「こ、こ、紅さまっ‼︎」
「のぞ先生がいなくて子どもたちはきっと寂しがっているよ! ああ、なんてかわいい先生なんだ」
のぞみはジタバタ暴れるが、紅の腕はびくともしない。
それどころかますますぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、のぞみは頭から茹で上がってしまうような心地がした。
紅が意味深な笑みを浮かべて、のぞみの頬にちゅっと口づけた。
「でもこの旅の間は、私がのぞみをひとりじめだ。大神の面会が終わったら今度こそ私は待てないよ。カラスの女将にはもう一泊部屋を空けておくようにお願いしておこう」
ざあざあと近くを流れる清流の音だけが聞こえる静かな夜。
真っ黒な空に白い息を吐いて、のぞみはとろりとした熱い湯にちゃぷんと浸かる。そしてゆっくりと目を閉じた。
山間にポツンと佇む温泉宿の露天風呂である。
天狗の故郷だというこの山に、のぞみは紅とともに今日到着した。ここからほど近い場所にあるというあやかしの都にいる大神に結婚の許しをもらうためである。
天狗の相棒カラスの女将が経営するというこの宿は、外からはどこからどう見てもただの廃墟。でも一歩中に入れば居心地のいい空間が広がっていて、各部屋には露天風呂まで付いているのだから驚きだった。
『まぁ、紅さま。お連れさまは人間さまでいらっしゃいますカァ』
カラスの女将は、玄関でのぞみと紅を出迎えるなり驚いた。
『うん、そうだよ。かわいいだろう? 明日大神に結婚の許しをもらいに行くんだ』
『……珍しいこともあるもんだ』
カラスの女将はそう言って、首をひねりながら最高級だというこの離れの部屋にふたりを案内してくれた。
その女将の反応に、のぞみは少し不安になった。
紅の縄張りのあやかしたちは、のぞみと紅の縁組を当たり前に受け入れてくれた。けれど、やはり普通のあやかしにとっては珍しいことのようだ。
それはきっと明日会いにいく大神も同じなのだろう。
すんなりと認めてもらえるといいけれど……のぞみがそう思った時。
「初雪だね」
不意に声をかけられて、のぞみは驚いて目を開ける。いつのまにかすぐそばで、紅が湯に浸かっていた。
「ぎゃっ!」
のぞみは目を丸くして色気のない声をあげてしまう。
全然気配を感じなかったというのに、いったいいつのまに入ってきていたのだ。
のぞみは真っ赤になって紅を睨んだ。
「ぜぜぜ絶対に、覗かないでくださいねって言ったじゃないですかっ!」
「覗いてはいないよ。ただ一緒に入ろうと思っただけさ。部屋に風呂が付いているのは、ふたりで入るためだろう? ふふふ、もう夫婦同然だと言うのに、いつまでものぞみは恥ずかしがり屋だなぁ」
屁理屈を言って、紅は銀色の髪をかきあげる。
のぞみは頬を膨らませたまま、彼からすすすと距離を取った。
「毎日お風呂に入るのは人間の習慣だけど、いいものだね」
そう言って頭にタオルを乗せて、紅は気持ちよさそうに目を閉じる。
その様子に、のぞみは思わず笑みを漏らした。
どうやら天狗も、風呂は気持ちいいらしい。
「それにしても、今日はたくさんの昔馴染みに会ったよ。のぞみを自慢することができて嬉しかったなぁ」
紅が満足そうに微笑んだ。
ここは遠い昔、人間の都が置かれていたこともあるという古い土地。あやかしたちにとって故郷のような場所なのだという。
「あやかしは古来から人間とともにある存在だからね。かつて人間の都でもあったこの土地から生まれたようなものなんだよ。ここは、私たちの街よりもあやかしと人間との距離が少し近い」
本当にそうだった。
昼間に観光地でもある街の中心部をのぞみは紅とふたり手を繋いで散策した。驚くべきことにメインストリートに立ち並ぶ土産物屋の中には、あやかしが経営している店もあって、堂々と人間相手に商売をしていた。
鏡娘(かがみむすめ)というそのあやかしは、土産にぴったりな小さな手鏡を売っていた。思わず手に取りたくなるようなかわいい千代紙柄の手鏡は、うっかり夜に覗くと鏡娘がひょっこりと顔を出して、ぞぞぞとさせられるのだという。
紅との婚約祝いにひとつやると言われたが、のぞみはそれを丁重にお断りした。
うっかり夜に覗いてしまってはたまらない。
「紅さまはあやかしの中でも有名なんですか。たくさんのあやかしに声をかけられていましたよね」
ふと思い出してのぞみは尋ねる。
紅がうーんと首を傾げた。
「まぁ、縄張りは田舎だとはいえ、まがりなりにも長だからね。天狗自体が少ないし」
「……それだけですか? 随分女性に人気みたいでしたけど。なんだか紅さまのお嫁さまが人間の私だなんて申し訳ないような気分でした」
昼間紅はいたるところで呼び止められ、声をかけられていた。
そしてそのあやかしたちは皆、紅が連れているのぞみにも興味深々だった。
嫁にするつもりだと、紅が自慢げに紹介すると大抵のあやかしたちは驚き、唖然とした。
だが中には、それだけではない反応をする者もいた。
『紅さまがまたお嫁さまを迎えられるお気持ちになられたのはようございました。ぜひ私もお嫁さまのアパートに入りたいものですわ』
そう言って、紅にしなだれ掛かるように絡みついていた猫又の尻尾は、のぞみの脛をピシリと叩いた。
『かわいらしい方ですわね、紅さま』
にっこり微笑む女天狗の視線は、鋭くのぞみを突き刺した。
不意にそれらを思い出し、のぞみは膨れっ面になってしまう。その頬を紅が嬉しそうにつついた。
「やきもちだね、かわいいなぁ。そんな心配しなくても大丈夫。私はずっとのぞみだけだと、皆の前で約束しただろう?」
そんな呑気な……とのぞみは思う。
のぞみにとってはどんな理由であれ"あやかしに睨まれる"というだけでも大問題だというのに。
アゴまで湯に浸かったまま、のぞみは紅をジロリと睨む。
紅が機嫌よくふふふと笑って、のぞみに手を伸ばした。
「なんなら大神の許しなんかいらないから、のぞみが不安にならないように、今ここで夫婦になってしまおうか」
「あ……! お、大神さまはっ!」
言いながら、のぞみは紅のその手から、あと少しのところで逃れることに成功する。
彼はいつもこうやって、ところかまわずいきなりのぞみを抱きしめる。それが嫌だというわけではないけれど、今は少し具合が悪い。
なにせここは露天風呂で……ふたりは服を着ていないのだから。
「お、大神さまは、結婚をお許しくださるでしょうか」
のぞみの言葉に、紅は伸ばした手をそのままに、口を尖らせた。
「べつにいらないんだよ、大神の許しなんて。まったくサケ子は頭が固いんだから……でもあんな風に大々的に言ってしまったら、許しをもらわないわけにいかないじゃないか。縄張りのあやかしたちが不安になってしまう」
いい加減なことを言いつつも、長らしいところを見せて紅はつまらなそうにため息をついた。
「長さまのお嫁さまが、人間の私でも大丈夫なんでしょうか」
のぞみはここにきて不安に思っていたことを口にする。
「大丈夫、大丈夫」
紅が請け負った。
「大神は、私のことになんて興味ないよ。明日の面会も一瞬で終わるからね。そしたらついに私たちは……」
そう言って、ふふふと笑う紅の手がまたのぞみの方へ伸びてくる。
のぞみは再びそれをかわした。
「な、縄張りの皆は元気でしょうか。保育園は、大丈夫かなぁ……?」
「また、のぞみは……」
紅が呆れたような声を出した。
「保育園はサケ子に任せてきただろう? 私たちが出発したのは今朝なんだから、なにも心配はいらないよ」
「それは、そうですけど……」
ヌエの脅威がなくなった今、紅がいなくても大丈夫だとサケ子はふたりを心よく送り出してくれた。
だから当然保育園は大丈夫に違いない。
のぞみだって本当にそれを心配しているわけではないのだ。
「でも、なんだか皆と一緒にいないのが、落ち着かないっていうか……」
今ごろあやかし園は夜ご飯の時間だ。
鬼三兄弟が弁当をひっくり返したり、大きく裂けた口で弁当を食べるサケ子を見て子供たちが泣いたりと、大騒ぎに違いない。
それがなんだか妙に恋しかった。
「たった一日離れただけなのに、もう皆に会いたくなっちゃった……」
のぞみはそう呟いて、ちらほらと舞い降りる白い雪の結晶を、手のひらで受け止める。
そして小さくため息をついた。
そこへ……。
「のぞみ‼︎」
「ぎゃあ!」
三度(みたび)手が伸びてきて、ついにのぞみは捕まってしまう。お湯は白く濁っているが、どこを見ていいやらわからない。
「こ、こ、紅さまっ‼︎」
「のぞ先生がいなくて子どもたちはきっと寂しがっているよ! ああ、なんてかわいい先生なんだ」
のぞみはジタバタ暴れるが、紅の腕はびくともしない。
それどころかますますぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、のぞみは頭から茹で上がってしまうような心地がした。
紅が意味深な笑みを浮かべて、のぞみの頬にちゅっと口づけた。
「でもこの旅の間は、私がのぞみをひとりじめだ。大神の面会が終わったら今度こそ私は待てないよ。カラスの女将にはもう一泊部屋を空けておくようにお願いしておこう」