まもりさんが、そこに立っていた。
一瞬、幻かと思った。
私がぼうっと突っ立っていると、彼はやっとこちらに気づいたようで、
「……絵馬ちゃん」
と、いつになく掠れた声で言った。
数日ぶりに見た彼の顔は、どことなく青白い。
ほんのりと垂れ下がった目尻からは、どこか疲れたような印象を受ける。
「まもりさん。どうしたんですか、そんな所で……」
私が駆け寄ると、彼は疲れた表情のまま、ふっと頬を緩ませた。
「君のことを待ってたんだよ」
「え?」
いきなり冗談のようなことを言われて、私は面食らった。
「最近来てくれないから、寂しくてね。ここで待っていれば会えるかなと思って」
「……そんな」
たとえ冗談でも、嬉しいと思った。
まもりさんがそんなことを言ってくれるなんて。
でも、彼がずっと待っている相手は、私ではない――それを思い出して、私は浮かれそうになっていた思考を慌てて振り払う。
彼が待っているのは私ではなく、私の知らない、彼にとって特別な人なのだ。
こうして珍しく森の外に立っているのもきっと、たまたま外の空気を吸いに出てきただけだろう。
けれどまもりさんはそんなことをおくびにも出さず、まるで本当に私のことを待ってくれていたかのように話を続けた。
「本当に寂しかったんだよ。少し前までは毎日ここへ寄ってくれていたのに、いきなり来なくなっちゃったから」
「す、すみません……」
思わず謝ると、まもりさんは穏やかな笑みを浮かべたままゆっくりと頭を振る。
「君が謝ることじゃないよ。だって君は……僕のためを思って、ここに来なかったんでしょ?」
「え?」
どうやらその件については、すでに流星さんから聞き出していたらしい。
あの日、車の中で私と流星さんがどんな会話をしたのかはすべて筒抜けのようだった。
「謝るのは僕の方だよ。君に余計な気を遣わせてしまったからね」
「そんな。私は別に……」
まもりさんが謝ることなんてない。私はただ、怖くなって逃げ出しただけだ。
私のせいで、彼が死んでしまうかもしれない――それが怖くて、私は自らこの店を離れようとした。
それはただ私が楽になるためだけの、勝手な行動だった。
けれどまもりさんは、まるですべての責任が自分の方にあったかのように言う。
「本当に、自分が情けないよ。僕の魔法が未熟でなければ……――僕の心が『穢れて』さえいなければ……最初から、こんな風に君を不安にさせることもなかったのに」
「え……?」
彼の口から漏れたその言葉の意味を、私はすぐに理解することができなかった。
(心が、穢れている……?)
思いがけない言葉だった。
一体どういう意味だろう?
「穢れている……って、どういうことですか?」
思わず聞き返していた。
「文字通りの意味だよ。僕の心は穢れている。だからこそ、僕の魔法は未熟なんだ」
「未熟? って、何言ってるんですか。まもりさんの魔法は、全然失敗したりしないじゃないですか」
私は反論した。
彼の魔法は完璧だった。
私のストラップを探してくれたときも、あの小さな男の子の人形を直したときも。
まもりさんのおかげでストラップは見つかったし、人形の腕も元通りになった。
けれどまもりさんはどこか暗い顔をしたまま、
「ごめんね。実は……僕は君に、一つ嘘を吐いたんだ」
「嘘?」
どくん、と心臓が跳ねた。
まもりさんが嘘を吐いた?
いつ、何を?
思わず身構える私に、彼は寂しそうな目を向けて言った。
「前に僕は、魔法はタダじゃないと言ったね。魔法を使えばその分だけ、何かしらの代償があると。けれど本当は……魔法を使うときに、僕の心が『穢れて』さえいなければ、報いを受けることなんてないんだ」
「え……?」
心が穢れてさえいなければ、報いを受けることはない。
「どういう、ことですか? それってつまり……魔法がちゃんと成功すれば、報いを受けなくて済むってことですか?」
魔法の代償を受けなくて済む方法が、あるかもしれない。
今までまもりさんが魔法による報いを受けてきたのは、彼の言うように、彼の魔法が『未熟』だったから……なのか?
「そう。僕が報いを受けてしまうのは、それだけ僕の心が穢れていて未熟だからなんだよ」
『未熟』というのがどの程度のことをいうのかはわからない。
けれど、『穢れている』という言葉には、私は納得がいかなかった。
心が穢れている人というのは、自分のことばかり考えて、私利私欲のために他人を蔑ろにするような人のことではないだろうか。
「……何かの、間違いじゃないですか? まもりさんの心が穢れているだなんて、そんな風には思えません。だってまもりさんは、いつも自分のためじゃなくて、人のために魔法を使っているじゃないですか」
魔法を使う人の心が穢れていたら、その報いを受けてしまう――それが本当なら、なぜ、まもりさんは報いを受けてしまうのだろう?
彼は常に自分のことよりも、他人のことを優先する。
魔法を使うときだって、彼は自分のためではなく人のために尽くしているのだ。
そんな思いやりのある人の心が穢れているだなんて、私には到底思えない。
「……確かに、魔法を使うのは『誰かの願いを聞き入れたとき』だけだよ。もともと魔法というのは、自分のために使うことはできないものだからね。でも、『誰かのため』というのはただのきっかけにすぎない。僕が魔法を使うのは『誰かのため』でもあり、同時に、『僕自身のため』でもある。僕は胸の内で、見返りを求めているんだよ」
「見返り? ……って、何かお礼をもらうってことですか?」
「そう」
「で、でも私、まもりさんに魔法で助けてもらったとき、何もあげていませんよ?」
「物理的なものは関係ないんだ。僕が求めてしまう見返りは……――『自己満足』のことだよ」
その返答に、私はますます訳が分からなくなった。
まもりさんはわずかに視線を落とすと、どこか自嘲するような笑みを浮かべて言った。
「魔法を使って、誰かを救うことができた。だから僕は幸せだ……――そう感じることで、僕は満足する。それはまぎれもない『自己満足』だよ」
「自己満足……? わかりません。どういうことですか?」
「エゴなんだよ。僕はその人を救ったつもりで満足しているけれど、実際には本当にその人のためになったかどうかなんてわからない。僕は僕の厚意を、無理やり相手に押し付けているだけなんだ」
「それは……」
難しい話だった。
少なくとも私にとっては。
誰かのために何かをすることで、満足感を得る――それは、いけないことなのだろうか?
私が頭を悩ませているうちに、まもりさんはふっと視線を逸らすと、今度は車道の方へと目をやった。
釣られて私もそちらを見ると、車道を挟んだ向かい側から、一人の男の子が手を振っているのがわかった。
小さな子。
小学校の低学年くらいだろうか。
例の、あの男の子だった。
彼はまもりさんの顔をまっすぐに見つめたまま、嬉しそうにこちらへ走ってくる。
私は嫌な予感がした。
あの子に会うたびに、まもりさんは魔法を使っている。
今回もまた、何かを修理してほしいと頼みに来たのだろうか。
見たところ、今は何も手に持っていないようだけれど。
と、男の子が車道へと差し掛かったとき、私は気づいた。
「!」
道の先からは、一台の車が接近していた。
男の子はそれに気づいていない様子で、勢いよく車道へと飛び出した。
「! あぶな――」
私が制止の声をかけるよりも早く、まもりさんは胸の前で両手を組み、祈りを捧げるようにして頭を垂れた。
(……まもりさん)
この仕草は、いつも彼が魔法を使うときに見せるものだった。
瞬間。
車の前へ飛び出した男の子の身体は、まるで強風に煽られたときのように、不自然に後ろへと押し戻された。
「わっ……!」
男の子の短い悲鳴と、車の甲高いブレーキ音とが重なる。
よろめいた男の子の身体は、歩道の上まで押し戻され、勢いよく仰向けに転がった。
車は戸惑うように一度減速したけれど、やがて男の子の無事を確認したのか、再びスピードを上げてその場を走り去っていった。
「まもりさん……!」
私はすかさず彼を見た。
それまで胸の前で両手を組んでいた彼は、ゆっくりと顔を上げると、男の子の方を見てホッと息を吐く。
いま、彼はあきらかに魔法を使った。
このままでは魔法の報いを受けてしまう――と、不安になる私を落ち着かせるように、彼は穏やかな声で私に語りかけた。
「……絵馬ちゃん。君は、前に言ったね。僕の優しさは『本当の優しさ』じゃないって……。僕もそう思う。だから……こうして魔法の報いを受けてしまうのは、仕方がないことなんだ」
そう言い終えるのと同時に、彼は胸の辺りを両手で押さえた。
そうして苦しそうに小さく呻きながら、ゆっくりとその場に崩れ落ちたのだった。