鍵は開いていた。
 扉は軋んだ音を立てながらゆっくりと開き、その奥にある薄暗い部屋へと私を誘う。

 思った通り、中は荒れていた。
 汚れた床や壁は黒ずみ、天井に取り付けられた照明器具はすべて割れている。

 広々とした部屋の奥には、なぜかテーブルとイスがいくつも並べられていた。
 まるで飲食店のような内装だった。
 綺麗に掃除をすれば、お洒落なカフェに様変わりしないこともない。

 私はしばらくのあいだ部屋の中を見回していた。

 この空間で、何か思い出せることはないか――と期待したのだけれど。
 一通り視線を巡らせたところで、やはりそう簡単にヒントは得られそうにない、と悟った。

 どことなく懐かしい感じはするものの、やはり私は何も思い出すことができなかった。
 理由のわからない焦燥感だけが、私の心を責め立てる。

 何か、大事なことを忘れている。
 思い出さなければいけない何かを。

(私は……)

 部屋の中央に立ち尽くしながら、私は自分の胸に手を当てて、祈りを捧げるようにして頭を垂れた。

(思い出さなきゃいけない。何かのために……誰かのために)

 このままではいけない。

 どうか思い出して――と、爪を食い込ませる勢いで両手を握りしめたとき。
 ふと、どこからか光が差したのに気づいて、私は再び目を開けた。

 見ると、ガラス張りになっている窓の方から、ほんのりと夕日の色が漏れ始めていた。

(夕焼け……)

 どうやら日没が近いらしい。
 すかさずスマホで時刻を確認してみると、いつのまにか十八時を過ぎていた。

 肝試しの開始時間まで、あまり時間がない。
 もう少しこの場所を詮索したい気持ちもあるけれど、このまま肝試しの準備をほっぽり出すわけにもいかない。

 内心後ろ髪を引かれながらも、そろそろ戻らなければ――と、踵を返したそのとき。

 何かが、聞こえた。

「……?」

 泣き声だった。

 小さな子どもが、どこかで泣いている。

(女の子の声?)

 その声に誘われるようにして、私は建物の外に出た。
 すると、辺りはいつのまにか真っ暗になっていた。

(あれっ?)

 ついさっきまでは、空は夕焼け色に染まっていたはず。
 それが今は、日没後のように闇夜に包まれている。
 そしていつのまにか、雨も降っている。

 不思議に思って、私はもう一度スマホを取り出して時刻を確認した。

 そして、目を疑った。

「!」

 二十時三十五分――と、画面にはそう表示されていた。

「え……?」

 つい先ほど確認したときは、確か十八時過ぎだったはず。
 それがこの一瞬の間に、二時間以上が経過している。

 どうして――と頭の中が混乱したとき、私はさらに驚くべきことに気がついた。

 スマホのカレンダーに表示されている日付が、変わっていた。
 それも一日や二日程度のことではない。

 西暦の数字が、違う。

 そこに表示されていたのは、なんと今から九年も前の日付だった。

「…………」

 私は今度こそ絶句した。

 スマホの磁気が狂ってしまったのだろうか?

 いや、それにしても。

 辺りはすでに暗くなっていて、まるでスマホの時刻通りになっているのだ。
 これが何を意味するのか、私は胸の早鐘を聞きながら考える。
 まるで現実的ではない想像が、混乱する私の思考を支配する。

(まさか、九年前の世界に迷い込んじゃったとか? ……なんて、そんなわけ……)

 夢でも見ているのだろうか。

 けれど、試しに頬をつねってみると、普通に痛い。

 辺りは静かだった。
 さっきまで一緒にいた、いのりちゃんの姿はどこにもない。
 あれだけ晴れていた空も、今は雨模様となっている。

 周囲の様相が、あきらかに別のものへと変わっている。

 

 予感めいたものはいよいよ確信に変わり、私は頭を抱えた。

 そんなことがあるずはないと思いながらも、心のどこかで否定していない自分がいる。

(まさか、本当に……)

 いま私が見ているこの景色は、九年前のものなのだろうか。

(いや、でも……)

 未だ納得はいかなかった。

 仮にもし、これが本当に九年前の景色だったとしたら、その証拠として、当時の私がどこかにいるはずだ。

 九年前の夏。二十時三十五分。
 そのとき私は、何をしていた?

 九年前といえば、私はまだ小学一年生だったはずだ。

 そうだ。
 その年の夏、私は初めて、この森で肝試しに参加したのだ。
 そしてその途中で、ペアを組んでいたいのりちゃんとはぐれてしまった。

 暗い森の中で、ひとりぼっちになって。
 そこへ追い討ちをかけるように雨が降ってきて。

 怖い、寂しい。
 誰か助けて――と、心の中で叫びながら泣いていた。

 そのときの自分の泣き声が、いま、どこからか聞こえる女の子の声に重なる。

 私はふと我に返って、改めてその声の出所を探した。

 辺りはほとんど闇に包まれている。
 けれど部分的に、淡いオレンジの光がぽつりぽつりと灯されている。

 肝試しの照明だった。
 参加した子どもたちが誤って転倒しないように、足元を照らすための光。

 そんなささやかな光のそばで、小さな女の子が一人、そこにうずくまっていた。

 その姿に、私はハッとした。

(あれは……――私?)

 顔は両手に覆われて見えないけれど、間違いなかった。
 見覚えのある服装に身を包んだその子どもは、九年前の私だった。

 あの日、この洋館の前で、私は足がすくんで動けなくなってしまったのだ。
 そして、そんな私に優しく手を差し伸べてくれたのは。

 中学生くらいの、一人の男の子だった。

「……大丈夫?」

 私の視線の先で――九年前の私の方へ一人の男の子が手を差し伸べた。

 その懐かしい姿に、私は目を見開く。

 線の細い、中性的な顔立ちをした男の子だった。
 まるで女の子のように綺麗な子。
 彼は手にした傘を小さな私の方に差し出して、にこりと笑いかけてくれる。

(そうだ、私は……――)

 九年前の自分自身を見つめながら、私は思い出していた。

 あの人は、肝試しの準備をする側として手伝いに来てくれた人だ。
 参加者に何かがあったときに、助けに来てくれる人。

「泣かないで。もう大丈夫だから。一緒にいのりの所まで行こう」

 彼はそう言って、小さな私を立ち上がらせるようにして腕を引っ張った。

 彼の手に引かれて、私は再び立ち上がる。

 そうだ。
 あのときの安堵感といったら、なかった。
 まるで神様が私を助けに来てくれたかのようだった。

 それまで顔を真っ赤にして泣いていた私は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 けれど、そんな私たちのもとへ突然、

「……うーらーめーしーやあぁ……」

「!」

 まるでゾンビの呻き声のようなものが、背後から届いた。

 途端、私は全身を凍りつかせて、その場にしゃがみ込んで耳を塞いだ。

「やだやだ! こわい! こわいよおっ……!」

 再び泣き出した私の隣で、男の子は呆れたような声を出した。

「ちょっと流星。今はやめてあげなよ。また泣いちゃったじゃないか」
「けっ。これくらいで泣くなんてビビりすぎなんだよ」

 うずくまった私の頭上で、新しい声が聞こえた。

 その声の主は、さっきの呻き声の人のものだった。
 そのことに私はすぐに気づいたけれど、あまりの恐怖に涙が止まらなくなって、なかなか顔を上げることができなかった。

「ほんと、毎年この洋館の前でチビどもが泣くんだよなあ」

 呻き声の人は、そう不機嫌な声で言った。

「確かにそうだね。この洋館、そんなに怖いのかな?」

 優しげな声は不思議そうに返す。

 そのやり取りを聞く限り、どうやらこの二人はお互いに知り合いのようだった。
 彼らの会話を耳にしながら、幼い私は少しずつ心を落ち着かせていった。

 涙でぐしゃぐしゃになってしまった顔を、手の甲で乱暴に拭う。
 そうして再び顔を上げようとした、ちょうどそのとき。

「って、おい。やめろ、まもりっ……!」

 それまで不機嫌そうだった声が突如、焦りの色を見せた。

 一体どうしたのだろう、と不思議に思って私が目を開けると、

「……ふわぁ……」

 その目に飛び込んできた光景に、思わず溜め息が漏れた。

 暗い森の中で、一際不気味な雰囲気を放っていた古い洋館。
 それがいつのまにか、色とりどりの明るい電飾に包まれていた。

 まるでクリスマスのイルミネーションのようだった。
 明るい光に包まれたそこは、ともすればどこか遠い国の、幻想的なカフェのようにも見える。
 その楽しげな雰囲気に、私は目を輝かせていた。

「おまっ……。こんなことで簡単に魔法を使ってんじゃねーよ!」

 その声に気づいて私が隣を見ると、それまで声だけでしか認識できなかった男の子の姿が目に入った。

 さっきの中性的な男の子よりも、少しだけ背の高い、やはり中学生くらいの男の子。
 髪の色は明るく、唇にピアスを付けている。

 なんだか変わった格好の子だな――と考えていると。

 その子の隣で優しげな笑みを浮かべていた男の子は、急に胸の辺りを押さえて苦しみ始めたのだった。

「? おにいちゃん、どうしたの?」

 私は心配になって、その子に問いかけた。

 前のめりになって胸を押さえるその姿は、とてもつらそうだった。
 何か、堪え難い激痛に耐えている――そんな仕草だった。

「ど、どうしよう。えっと、こういうときは、えっと……」

 私はぐるぐると頭を働かせた後、男の子の胸にそっと手を当てて、

「痛いの痛いの、とんでけーっ!」

 自分の母親がそうしていたように、呪文を唱えてみせた。

 子ども騙しのおまじない。

 ピアスを付けた男の子は「そんなんで治るわけねーだろ!」と怒っていたけれど、

「……あれ?」

 それまで胸を押さえていた男の子は、ふっと顔を上げて、ゆっくりと身体を起こした。

「……痛みが、おさまった」
「はあッ!? ……まじでっ?」

 ピアスの男の子は納得がいかないようだったけれど、優しい男の子は静かにこちらを見下ろして、

「君は、一体……」

 不思議そうな目で、私のことを見つめていたのだった。