もうすぐ肝試しだね、といのりちゃんから連絡があった。
七月の終わり。
家の窓から空を見上げると、大きな入道雲がむくむくと立ち上っている。
毎年この時期になると、この街では肝試し大会が行われる。
参加するのは主に子ども。
小学校低学年から中学年くらいが最も多い。
私はもう高校生だから参加することはないけれど、たまに準備をする側として手伝いに行くことはあった。
いのりちゃんは今年も手伝いに行くという。
よかったら一緒に行かないかと聞かれて、私は少し考えてから「行く」と返事をした。
(肝試し、か……)
まだ小学生だったときに、私も何度か参加した覚えがある。
舞台となる場所は、決まって街の端にある薄暗い森だった。
高い木々が鬱蒼と生い茂る、ひと気のない森の中。
そこを二人組で指定されたルートを進み、折り返し地点にお札を置いてくるというルールだ。
何度か参加して慣れている子はともかく、低学年で初めてという子は途中で泣いて動けなくなってしまうこともある。
そんなときのためにも、私たちのような手伝いの手は必要なのだった。
あの森の奥には、廃墟となった古い建物がいくつも存在する。
中にはやたらと雰囲気のある不気味な洋館もあって、子どもたちはそこで足がすくんでしまうことが多かった。
(私も、あの場所で泣いたんだっけ……)
初めて肝試しに参加したとき。
私もまた、あの場所にうずくまって泣いていた。
あのときは確か、ペアであるいのりちゃんとはぐれてしまったのだ。
あの暗い森の中で、ひとりぼっちになって。
怖くて怖くて仕方がなかった上に、そこへ追い討ちをかけるように雨が降ってきて。
怖い、寂しい。
誰か助けて――と、心の中で叫んでいたとき。
――大丈夫?
と、誰かが声をかけてくれたのだ。
「…………」
当時のことは、そこまでしか覚えていない。
もう何年も昔のことなので、きれいさっぱり忘れてしまっている。
あのとき声をかけてくれたのは、どんな人だったのだろう?
もう顔も覚えていないけれど、それでも、声をかけてもらったときの安堵感は今でも鮮明に覚えている。
穏やかで優しくて、恐怖に震えていた私の心を一瞬で包み込んでくれる――そんな声だった。
きっと、手伝いで来てくれた人のうちの誰かだったのだろう。
と、そこでスマホのバイブが震えて、私は我に返った。
見ると、いのりちゃんから新しいメッセージが入っていた。
肝試しの準備の日時と、必要なもの。
それから当日の意気込みなんかが軽く添えてある。
いつも元気で、明るいいのりちゃん。
彼女はいつだって、私を楽しい気分にさせてくれる。
そう、あたたかい気持ちでスマホから目を離したとき。
不意に、部屋の端に放り出していた学校のカバンの、小さなストラップが目に入った。
首元に赤いリボンを付けた、愛らしいテディベア。
私の誕生日に、いのりちゃんが贈ってくれたものだ。
それを目にしたとき、なぜだかわからないけれど、ちくりと胸の奥が痛んだような気がした。
「?」
何か、大切なことを忘れている――。
なぜだかわからないけれど、そんな気がした。
思えば最近、これの繰り返しだった。
何かを忘れているような気がするけれど、まったく思い出せない。
もやもやとした感情だけが、胸の中で渦を巻いている。
(……なんだろう)
喉に刺さった小骨のように、その違和感はじわじわと私の心を侵食する。
なんだか居心地が悪い。
早く思い出して頭をすっきりさせたいのだけれど、一体何を忘れたのか、今は見当もつかない。
どうせ思い出せないのなら、いっそ、あまり気にしない方がいいのだろうか?
でも――と、それについて考えれば考えるほど、私の思考は底なし沼のような、暗い深みにハマってしまうのだった。
〇
そして迎えた当日。
肝試しの準備は正午を過ぎた頃から始まった。
照明と道標の設置。
それから周辺のゴミ拾いなど。
昼間でも薄暗いその森は、夜になると一層闇に包まれる。
暗闇の中で子どもが転倒してしまわないよう、道の整備にはできる限り気を配る必要があった。
と、邪魔になりそうな石などをどける作業をしていたとき、
「……あれ?」
あるものが目に入って、私は一度手を止めた。
目の前には、ボロボロの洋館がそびえていた。
そしてその足元には小さな立て看板が添えられている。
(あんな看板、前からあったっけ?)
不思議に思って、私はそこへ近づいた。
この洋館は、森の中にいくつも存在する廃屋の中でも、一際不気味な雰囲気を放っている。
老朽化した壁一面には、伸び放題となった植物が絡み付いている。
通称・お化け屋敷。
誰もが怖れるその出で立ちは、肝試しの場に相応しい。
そんなおどろおどろしい洋館の足元に、ぽつんと立てられた見慣れない看板。
見たところ、それはまだ比較的新しいもののようだった。
『CLOSED』――と、黒板になっているその表面には、それだけ書いてある。
(何がクローズド……?)
まるで、何かのお店のようだった。
けれど、こんな場所にお店があるなんて今まで聞いたことがないし、たとえ聞いたとしても信じられない。
こんな鬱蒼とした森の中で、誰かがお店を開いているなんて。
「絵馬ちゃん、どうしたの?」
背後から、いのりちゃんの声が聞こえた。
私は看板の方を指差しながら、彼女の方を振り返った。
「ここ、お店とかあったっけ?」
「お店?」
いのりちゃんは不思議そうな顔をして、私の隣までやってきた。
「『閉店』……? って、何これ。こんなの前からあったっけ?」
彼女もまた、私と同じような反応をする。
けれどそれほど興味は湧かなかったようで、「誰かのイタズラじゃないの?」と言うと、再び作業へと戻っていった。
私は一人その場に残されて、ぼんやりと看板を見つめていた。
なんだか違和感がある。
また、あの感覚だった。
何かを思い出しそうになって、でも、何も思い出せない。
もやもやとした感情だけが、胸の内で渦を巻く。
(なんだっけ……)
私はわずかに視線を動かして、今度は洋館の正面を見た。
入り口の扉は、今にも崩れ落ちそうなほどボロボロになりながらも、しっかりとその空間を閉ざす役割を担っていた。
まるで、何か大切なものを隠しているかのように。
「…………」
「絵馬ちゃん?」
私がその扉に釘付けになっていると、後ろからいのちゃんの心配そうな声が届いた。
「どうしたの、絵馬ちゃん。何かあった?」
「私……」
あの看板に、かすかに見覚えがあるような気がした。
そして、あの扉も。
(私、あの扉を……開けたことがあるような気がする)
そんなはずはないと思いつつも、私はその予感めいたものを否定することができなかった。
靄のかかる曖昧な記憶の底で、確かな光が見え始める。
あともう少しで、私は何かを思い出せそうな気がする。
あの扉の向こうに、私の知らない何かがあるような気がする。
「絵馬ちゃんっ?」
背後からいのりちゃんの驚くような声が聞こえたけれど、私は、ほとんど無意識のうちに動き出した自分の身体を止めることができなかった。
今にも崩れ落ちてしまいそうなそのボロボロの扉に、私は思わず手をかけていた。