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 数日ぶりに立ち寄ったその森は、いつにも増して寂しい場所に思えた。

 鬱蒼と生い茂る高い木々。
 その隙間から、ぽたぽたと雨粒が落ちてくる。

 梅雨空の下で、人知れず『OPEN』の文字を掲げているカフェ。
 その外観はボロボロで、とても営業中のものだとは思えない。

 人を寄せ付けない、孤独なカフェ。
 それはまるで、まもりさんを閉じ込める檻のようでもあった。

「……まもりさん、いますか?」

 わずかに躊躇してから、私はその門扉を叩いた。
 入り口を開けると、いらっしゃいませ、と、奥からあの穏やかな声が聞こえてくる。

「やあ、絵馬ちゃん。来てくれたんだね」

 照明のないその部屋の奥に、まもりさんがいた。
 いつもと変わらない、優しい笑顔。

 店の壁や床は相変わらず汚れているけれど、キッチン周りだけは少しだけ綺麗になった気がする。
 流星さんのおかげだろうか。

「まもりさん、お久しぶりです。お身体の方はどうですか?」
「うん。おかげさまで、すっかり良くなったよ。あのときはありがとうね」

 まるで先日のことが嘘みたいに、彼は元気な様子を見せてくれた。

「あ、そうそう。ちょうど今、新作のケーキが出来たところなんだ」

 よかったら味見して、と言われて、私はここに来たことをちょっとだけ後悔した。
 と同時に、心の内で流星さんを呪う。

 予想通りの壮絶な甘味を堪能した後、私は持参した水筒のお茶で喉を潤した。

「それで、お店の方はどうですか。あれからお客さんは増えました?」

 他愛もない会話の中で、私はそれとなく尋ねてみた。

 本当は、『待っている相手は訪れたのか』と聞きたかったのだけれど、ピンポイントでそんなことを聞くと怪しまれるかもしれない。
 彼の失われた記憶について触れることは、流星さんに禁じられている。

「残念ながら見ての通りだよ。やっぱり、この店には入りにくい雰囲気があるみたいだね」

 まもりさんは自分で淹れた紅茶をすすりながら言った。
 茶葉の苦味をこれでもかと凝縮したその液体を吐き出さずにいられるのは、もはや正気の沙汰とは思えない。

「……どうして、こんな森の奥にカフェを開いたんですか?」

 少し際どい質問だったけれど、恐る恐る尋ねてみた。

 こんなひと気のない場所にお店を開いたって、そう簡単にお客さんが来てくれるはずはない。
 それはまもりさんだって最初からわかっていたはずだ。
 もともとは人との関わりを絶つために、流星さんが用意した場所なのだから。

 けれど、ここをただの家ではなくカフェにしたのには、何か意味があるような気がする。

「さあ、どうしてだろうね。別に明確な理由があるわけじゃないんだけれど、ただ――」

 彼はそう前置きしてから、薄明かりの差す窓の方を見つめて言った。

「ここで待っていれば、いつか会えるような気がするんだ。僕がずっと会いたかった人に」

 その返答に、私はどきりとした。

「それって……」

 この先はまずいとわかっていながらも、好奇心の方が勝ってしまった私は、あえて彼を止めようとしなかった。

「僕には昔、とても憧れていた人がいたんだ。……今ではもう、ほとんど覚えていないんだけれど」

 そこで彼は、僕は忘れっぽいからねと冗談っぽく笑った。

 その言葉の真意を知っている私は、どんな顔をすればいいのかわからなかった。

 やがて彼は静かに席を立つと、雨粒に覆われた窓辺に立って、いつもよりさらに暗い森の景色を見上げて言った。

「……でも一つだけ、確かなことがある。僕の会いたいと思っているその人は、正真正銘の『本当の魔法使い』だったんだよ」

「え……?」

 本当の魔法使い。

 それは、まもりさんとどう違うんだろう?

 私が黙っていると、彼はゆっくりとこちらを振り返り、その垂れ目がちな瞳にわずかな光を携えて言った。

「その人は僕と違って、魔法を使ってもその代償を受けることはなかった。なぜだかわかるかい?」

 聞かれて、私は以前彼から教わったことを思い出す。

 そのときの彼の言葉を借りるなら、それはつまり、

「『心が穢れていないから』、ですか?」
「その通り」

 彼は満足げに頷いてみせた。

「その人は僕と違って、見返りを求めたりしない。自分にとっての利益など考えもしない。ただ誰かのことを思って、その人のためだけに魔法を使う。……むしろ、自分が魔法を使っていることにさえ気づいていないのかもしれない」

「えっ?」

 魔法を使っていることにさえ、気づいていない。

 予想外の言葉に、私は首を傾げた。

「それって、なんだか変じゃないですか? 自分でも気づかないってことは、それが魔法かどうかも怪しいっていうか……」

 それが魔法であることを、誰も証明することはできない。

 それは果たして『魔法』なのだろうか?

「『魔法』という言い方をするから、違和感があるのかもしれないね。あれはもはや魔法じゃない。あれは魔法を超越した現象――『奇跡』だよ」

「奇跡?」

「そう」

 新しい言葉に言い換えられて、私はそれをどう受け止めるべきか悩んだ。

 奇跡と魔法は、似て非なるもの……らしい。
 その二つに対して、まもりさんは一体どんな違いを感じているのだろう?

 私がいまいちピンとこないでいると、彼は今度はおもむろに、自らの左腕の袖を捲り始めた。
 店の制服である白いシャツの下からは、彼の華奢な腕が姿を現す。

「!」

 そこで私は、目を見張った。

 彼の左腕の表面には、切り傷や打撲の痕のような、おびただしい数の古傷が残っていた。
 中には私にも見覚えのある、比較的新しい傷も含まれている。
 それらは紛うことなく、彼の魔法の代償によるものだった。

 まもりさんはその傷跡に目を向けながら、

「これは、僕が『偽りの魔法使い』である証だよ」

 と、どこか覇気のない声で言った。

「僕は……魔法というのは本来、誰かを幸せにするために存在するものだと思う。そして、それを自分の都合のために使おうとすると、こんな風に天罰が下る。……けれど、もしも何の意図もなく、突発的に、無意識のうちに使った場合はどうなると思う? 自分でも気づかないうちに不思議な力が働いて、不思議なことが起こる。それって、奇跡だと思わない?」

「あ……」

 そこまで聞いたとき、私はやっと彼の言う『奇跡』の意味を理解したような気がした。

 まもりさんはシャツの袖を元に戻すと、わずかに視線を下げ、どこか寂しげな笑みを浮かべて言った。

「僕がここで待っているのは、そんな『奇跡』を起こした人なんだよ。穢れのない心で、人のために無償の愛を捧げられる、そんな人だった。……もう、顔も覚えていないけれど。それでも僕は、もう一度その人に会いたい。もう一度会うために僕は、ここでずっと待ち続ける。……ここに来てくれるかどうかは、わからないけれど」

 そう彼が言い終えたとき、窓を打ちつける雨の音が急に激しさを増した。

 容赦なく降り注ぐ雨の音だけが、静寂を保つ店内に響いている。
 その寂しげな風景は、まるで彼の心を表しているかのように、私には見えた。

 彼がこんなにも寂しい思いをしているのに、私は何もできない。
 何もしてあげられない――そう思うと、悔しくて、悲しくて、段々と目頭の奥が熱くなって、鼻の奥がつんとする。

 私が泣いたって仕方がないのに。

 彼の姿を見ていると、相変わらず泣き虫な私は、込み上げる涙を抑えることができなかった。