わたしは名前も家もない、家族もいない一匹猫だった。

もう長いこと生きたし、そろそろ目覚めない眠りにつく日が近いことも分かっていた。

わたしがいた辺りは古い家が立ち並ぶ通りで、中でもコウイチロウの店が一番のお気に入りだった。

コウイチロウはわたしと話しができた。

その店の前の主人もそうだったからそういうものなのだろう。

他の家の人たちにはわたしの声はきこえていないみたいだ。たいていの家では最近は食べ物をくれない。

コウイチロウは行けば食べ物をくれるし、店の中をうろついても追い出したりしない。

ある日、家々の屋根を渡り歩いていると、急に雨が降ってきた。

急いで屋根から降りようとして、古い傷んだ瓦が外れてわたしは地面に落ちた。

しかも上からさらに瓦が降ってくる。

幸い大した怪我はしていない。なのに体が動かない。

おかしいと思いながらも、眠くて目を閉じた。

とてもとても眠かった。雨が毛を濡らすのが冷たくて嫌なのに。

起き上がって屋根の下に入りたい。もう一度瞼を上げて空を見た。鈍色の空から真直ぐに矢のように落ちてくる雨粒。曇ってるのに眩しくて、目を開けていられない。

もう死んじゃうのかな。

もっとおいしいものを食べたかったなぁ。コウイチロウにも鼠でも持っていけば良かった。

そしたらきっと、おいしいマグロの缶詰を仕方ないなぁって言いながら開けてくれるはずだ。

パタパタと雨がビニールを叩く音。薄っすらと見えたのは白いシャツ、黒っぽいズボンとネクタイ。それにメガネ。

誰かが傘を差してくれたみたいだ。

コウイチロウ?

ううん、コウイチロウなら笑ってわたしを抱き上げるはず。

雨粒に混じって温かい雫が一つ落ちてきた。

傘をわたしに置いて行ってくれるの?

優しい手がわたしの頭と背を撫でて、離れて行く。

その温もりが離れていくのが淋しくて。

あぁ、でも雨が当たらない。もう痛くないよ。ありがとう。

お兄さんにもお礼しなきゃ。コウイチロウの鼠はまた今度ね。

目を閉じると傘に当たる雨の音が大きくなった。

そしてまた誰かがやってくる。

あぁ、誰だったかな。

良く知ってるのに思い出せない。

誰だったかな……。

どんどん空に吸い込まれていく意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。



どれくらい経っただろう。

やっぱり雨が降ってる。でもなんだか変。

目が痛いくらいに飛び込んでくる景色。

これは何?

全く世界が違って見える。

音や匂いが薄らいだ分、目から世界を感じるよ。

何だろう。

ぶるりと体が震える。

ゆっくりと立ち上がった。少しふらふらする。二本足で立ってる。

水たまりに映る姿を覗き込んだけど、雨粒が作る波紋でよく見えない。

辺りを見回して、ガラスに映る自分の姿を見た。

それから真っ先にコウイチロウのお店に向かった。

コウイチロウは驚いて目を見開いている。

わたしも驚いてるよ。

だって、だってわたし、人間になってる!

女の子だよ!



コウイチロウがふわふわのタオルで髪を拭いてくれる。

長い髪の毛。猫の毛よりもっと太くてさらさらしてて綺麗。

腕まくりした袖から伸びるコウイチロウの腕と同じ毛に覆われていない自分の腕を見てた。ちょっとすーすーするね。

「なんで人間になったんだ?」

そんなこと聞かれてもわからない。

きっと神様がわたしのお願い聞いてくれたんだよ。

せっかく人間になったんだから、やりたいこといっぱいあるんだよ。

コウイチロウ、凄いね。人間て素敵!

これ飲んでみたかったんだよ。しゅわしゅわ泡の出るキレイな飲み物。上に乗ってるのがこんなに甘くて冷たいなんて思わなかったよ。

壁に貼ってあるのは何?
下からだとよく見えなかったんだ。

いろんな色のついた長い棒。それをコウイチロウが白い紙に滑らせると浮かび上がるいろんな形。

不思議でいつまでも見ていたくなる。これが絵を描くってことなんだね。

コウイチロウの描いた絵に、肉球スタンプを押すのもいいけど、わたしも描きたい!

だってわたしにも長い指があるもん!

それに人間になると、世界がすごく色鮮やかだってわかった。

特に好きなのは赤。

コウイチロウのエプロンも赤。

わたしの傘も赤。

赤は素敵。女の子たちが唇に塗ってるリップも赤。

はるとのリュックも赤なら素敵なのにね。

コウイチロウがわたしにくれた色鉛筆は、虹よりもっと素敵。

クリームソーダはもっともっと素敵。

「うこ、ちゃんと片付けろよ」

コウイチロウは時々口うるさい。でも好き。

ずっと雨が降ってたらいいのに。

前は雨なんか嫌いだったけど、今は雨が大好き。