雨の日は好きだ。
コウイチロウのカフェでクリームソーダを飲む。長いストローですぅっと吸い込めば、冷たくて甘いメロンソーダが喉で弾ける。
ガラスに伝う雨粒越しに、色とりどりの傘が揺れている。
晴れの日よりも鮮明に見える世界を、コウイチロウの買ってくれた色鉛筆で描く。
窓に面したカウンター席がわたしの定位置。
スケッチブックを広げると、幸せな気分になる。コウイチロウのお仕事が終わっても雨が降っていたらいいな。
そしたらまた絵しりとりをするんだ。
それまでは描きかけの絵を完成させよう。わたしが絵を描けるのは雨が降っている間だけ。その幸せで特別な時間は、いつだってこのカフェで過ごす。ここにいればあのお兄さんに会えるから。
今描いているのはそのお兄さんの顔。時々カフェの前を通る。よく中を覗いているんだ。
白いシャツに紺のズボン、臙脂のネクタイは近くの高校の制服だってコウイチロウが言ってた。
黒い縁の眼鏡をかけてる。グレーのおっきなリュックを背負ってて、髪の毛はアヒルのお尻みたいにきゅっと前があがってる。
「それ、もしかして、僕?」
急に耳元で声がして、びっくりして振り返ると、そのお兄さんが立ってた。
わたしは慌ててスケッチブックの上に覆い被さった。
「ごめん、でも、すごく上手だね」
褒めてくれた。眼鏡の奥の目が優しく笑っている。
嬉しかったから、そっとスケッチブックから体を起こした。
お兄さんが「見てもいい?」と聞くから頷いた。
「う、こ? 名前うこちゃんっていうの?」
お兄さんの指が絵の下に書いたサインをなぞる。
コウイチロウに教えてもらった二つだけの文字。わたしの名前。
「僕ははると。晴れる人で晴人」
「わたしと反対だね。わたしは雨の子のうこ」
はるとがわたしを見ていた。お互いの名前を初めて知った。
少し前からはるとを見ていた。あの雨の日にわたしに傘をくれた人はこの人なんじゃないかなって。
今のわたしを見てもはるとは分からないだろう。
わたしたち、前に会ってるよ! わたし、はるとに助けてもらったんだよ。そう言いたいけど、言えない。
だってあの時のわたしは今の姿じゃなかったから。
とにかく、話をするのは初めてで、どうしていいか分からず、カウンターの奥でグラスを拭いているコウイチロウを見た。
肩をすくめるコウイチロウ。自分で考えろと言っているみたい。
はるとに目を戻す。
「絵しりとりやりたい」
わたしはスケッチブックを一枚めくり、白紙のページの左上に水色の傘の絵を描いた。
「え? 絵しりとりって、僕と? 僕、絵はあんまり得意じゃないっていうか」
「ちょっとだけ。お願い」
はるとは手に持っていたアイスティーの乗ったトレイをテーブルに置き、リュックを足下に下ろすと、わたしの描いた傘の横に魚を描いた。記号みたいな簡単な絵。でも魚だってすぐ分かる。
わたしはその横に赤い色鉛筆で長靴を描く。はるとがさらにその横につくしの絵を描いた。
しまりす、すいか、からす、すいとう、うぐいす、スニーカー、カンヅメ
「やっとすから抜けた」
気付けば、はるとの番は3回連続『す』で始まっていた。
「うこちゃん、意外と意地悪?」
ってはるとが笑う。
コウイチロウはこれが面白いんだよって言ってたから、意地悪じゃないよ。
「あ、しかもうこちゃんの負けだよ」
はるとの長い指がわたしの描いた大好物のまぐろの缶詰の絵を指してる。
「負けてないよ。次『め』だよ」
「え? あー、カンじゃなくてカンヅメか」
はるとはまた真剣に絵を描く。メガネ、ネコ、コップ。
真剣にスケッチブックに目を落とす横顔が、ちょっとかわいい。
あのくいっと上がった前髪はどうなってるんだろう。ツヤツヤしてて、崩れないのが不思議。ちょっと触ってみたい気がする。
じっと見ていたらはるとがこっちを見た。レンズの奥の瞳が澄んでいてとてもキレイ。
「なんか付いてる?」
あの日見た顔は朧げで、はるとがあの時の人かどうか分からない。でも優しそうな目。きっとはるとだよね?
聞いてみようか。あの時……
突然、足下からペコペコって音が聞こえた。はるとが慌ててリュックからスマホを取り出す。
長い指が画面を滑って、画面が明るくなる。あっという間に時間が経っていた。
「そろそろ帰らなきゃ。またね」
はるとはリュックを持って立ち上がる。
外はまだ雨が降っている。
「雨、止むまでやろうよ」
「ごめん。今から塾なんだ。絵しりとり楽しかった。またね、雨子ちゃん」
はるとは慌ただしく帰ってしまった。
もっと遊びたかったな。
コウイチロウは相変わらずグラスを磨いている。
スケッチブックを閉じて、散らばった色鉛筆を布製のケースに戻してくるくると巻く。
クリームソーダのグラスも返却口に置いた。はると、また来るといいな。
コウイチロウの仕事はまだ終わってない。
コウイチロウのいるカウンターの中へ入っていくと、足元にお水とカリカリの入った器が置かれている。
いつもは気付かなかったけど、器にお魚の絵が描いてあった。はるとが描いた記号みたいな絵に似てる。
コウイチロウの足の下には緑のマット。
そこには猫の絵が付いてる。
雨の日、わたしの目に普段は見えないたくさんの色が見える。
長い手。長い足。そして何でも持てる長い指。
素敵なこの時間はあっという間に過ぎていく。
そうだ。外も見に行ってみよう。もっとたくさんの色があるはず。
雨粒がいっぱい付いたガラス窓を見上げて、わたしは喉を鳴らす。
足取りも軽くカフェを出ていこうとすると、コウイチロウがわたしを腕に抱き上げて言った。
「雨やんでるよ」
わたしは自分の白い毛に覆われた前足に目を落とす。さっきまでは肌色の長い指があったそこには、小さな肉球と尖った爪をしまい込んだ小さな前足。
もう色鉛筆は握れない。次の雨の日までは。
鮮やかに見えていた景色も、すっかりいつもの色褪せた世界に戻っていた。
コウイチロウのカフェでクリームソーダを飲む。長いストローですぅっと吸い込めば、冷たくて甘いメロンソーダが喉で弾ける。
ガラスに伝う雨粒越しに、色とりどりの傘が揺れている。
晴れの日よりも鮮明に見える世界を、コウイチロウの買ってくれた色鉛筆で描く。
窓に面したカウンター席がわたしの定位置。
スケッチブックを広げると、幸せな気分になる。コウイチロウのお仕事が終わっても雨が降っていたらいいな。
そしたらまた絵しりとりをするんだ。
それまでは描きかけの絵を完成させよう。わたしが絵を描けるのは雨が降っている間だけ。その幸せで特別な時間は、いつだってこのカフェで過ごす。ここにいればあのお兄さんに会えるから。
今描いているのはそのお兄さんの顔。時々カフェの前を通る。よく中を覗いているんだ。
白いシャツに紺のズボン、臙脂のネクタイは近くの高校の制服だってコウイチロウが言ってた。
黒い縁の眼鏡をかけてる。グレーのおっきなリュックを背負ってて、髪の毛はアヒルのお尻みたいにきゅっと前があがってる。
「それ、もしかして、僕?」
急に耳元で声がして、びっくりして振り返ると、そのお兄さんが立ってた。
わたしは慌ててスケッチブックの上に覆い被さった。
「ごめん、でも、すごく上手だね」
褒めてくれた。眼鏡の奥の目が優しく笑っている。
嬉しかったから、そっとスケッチブックから体を起こした。
お兄さんが「見てもいい?」と聞くから頷いた。
「う、こ? 名前うこちゃんっていうの?」
お兄さんの指が絵の下に書いたサインをなぞる。
コウイチロウに教えてもらった二つだけの文字。わたしの名前。
「僕ははると。晴れる人で晴人」
「わたしと反対だね。わたしは雨の子のうこ」
はるとがわたしを見ていた。お互いの名前を初めて知った。
少し前からはるとを見ていた。あの雨の日にわたしに傘をくれた人はこの人なんじゃないかなって。
今のわたしを見てもはるとは分からないだろう。
わたしたち、前に会ってるよ! わたし、はるとに助けてもらったんだよ。そう言いたいけど、言えない。
だってあの時のわたしは今の姿じゃなかったから。
とにかく、話をするのは初めてで、どうしていいか分からず、カウンターの奥でグラスを拭いているコウイチロウを見た。
肩をすくめるコウイチロウ。自分で考えろと言っているみたい。
はるとに目を戻す。
「絵しりとりやりたい」
わたしはスケッチブックを一枚めくり、白紙のページの左上に水色の傘の絵を描いた。
「え? 絵しりとりって、僕と? 僕、絵はあんまり得意じゃないっていうか」
「ちょっとだけ。お願い」
はるとは手に持っていたアイスティーの乗ったトレイをテーブルに置き、リュックを足下に下ろすと、わたしの描いた傘の横に魚を描いた。記号みたいな簡単な絵。でも魚だってすぐ分かる。
わたしはその横に赤い色鉛筆で長靴を描く。はるとがさらにその横につくしの絵を描いた。
しまりす、すいか、からす、すいとう、うぐいす、スニーカー、カンヅメ
「やっとすから抜けた」
気付けば、はるとの番は3回連続『す』で始まっていた。
「うこちゃん、意外と意地悪?」
ってはるとが笑う。
コウイチロウはこれが面白いんだよって言ってたから、意地悪じゃないよ。
「あ、しかもうこちゃんの負けだよ」
はるとの長い指がわたしの描いた大好物のまぐろの缶詰の絵を指してる。
「負けてないよ。次『め』だよ」
「え? あー、カンじゃなくてカンヅメか」
はるとはまた真剣に絵を描く。メガネ、ネコ、コップ。
真剣にスケッチブックに目を落とす横顔が、ちょっとかわいい。
あのくいっと上がった前髪はどうなってるんだろう。ツヤツヤしてて、崩れないのが不思議。ちょっと触ってみたい気がする。
じっと見ていたらはるとがこっちを見た。レンズの奥の瞳が澄んでいてとてもキレイ。
「なんか付いてる?」
あの日見た顔は朧げで、はるとがあの時の人かどうか分からない。でも優しそうな目。きっとはるとだよね?
聞いてみようか。あの時……
突然、足下からペコペコって音が聞こえた。はるとが慌ててリュックからスマホを取り出す。
長い指が画面を滑って、画面が明るくなる。あっという間に時間が経っていた。
「そろそろ帰らなきゃ。またね」
はるとはリュックを持って立ち上がる。
外はまだ雨が降っている。
「雨、止むまでやろうよ」
「ごめん。今から塾なんだ。絵しりとり楽しかった。またね、雨子ちゃん」
はるとは慌ただしく帰ってしまった。
もっと遊びたかったな。
コウイチロウは相変わらずグラスを磨いている。
スケッチブックを閉じて、散らばった色鉛筆を布製のケースに戻してくるくると巻く。
クリームソーダのグラスも返却口に置いた。はると、また来るといいな。
コウイチロウの仕事はまだ終わってない。
コウイチロウのいるカウンターの中へ入っていくと、足元にお水とカリカリの入った器が置かれている。
いつもは気付かなかったけど、器にお魚の絵が描いてあった。はるとが描いた記号みたいな絵に似てる。
コウイチロウの足の下には緑のマット。
そこには猫の絵が付いてる。
雨の日、わたしの目に普段は見えないたくさんの色が見える。
長い手。長い足。そして何でも持てる長い指。
素敵なこの時間はあっという間に過ぎていく。
そうだ。外も見に行ってみよう。もっとたくさんの色があるはず。
雨粒がいっぱい付いたガラス窓を見上げて、わたしは喉を鳴らす。
足取りも軽くカフェを出ていこうとすると、コウイチロウがわたしを腕に抱き上げて言った。
「雨やんでるよ」
わたしは自分の白い毛に覆われた前足に目を落とす。さっきまでは肌色の長い指があったそこには、小さな肉球と尖った爪をしまい込んだ小さな前足。
もう色鉛筆は握れない。次の雨の日までは。
鮮やかに見えていた景色も、すっかりいつもの色褪せた世界に戻っていた。