お願い、私を見つけないで 〜誰がお前を孕ませた?/何故君は僕から逃げた?〜

Side朝陽

おばさんと俺の母親は、高校時代の同級生ということで、いつも何かある度に互いの家を行き来していた。俺は、よく母と一緒に凪波の家に行っていた。

凪波の家は、駅の近くにある。
田んぼに囲まれて、虫や蛇、蛙だらけの家で育った俺にとって、凪波の家に行くことは、まるで冒険に出かけるような、ワクワクする出来事だった。

最初に凪波と会ったのは、生まれて間もない頃……らしい。
さすがに赤ん坊の頃の記憶はないが、横並びに二人で同じ布団に寝かせられている写真が証拠として残っている。

物心ついてからの最初の記憶は、凪波の家に遊びに行った時のこと。

「いらっしゃい」
そう言って笑顔で俺と母を迎えてくれたおばさんの後ろにかくれて、ちょっと顔をだしてる凪波の仕草が印象的だった。
「こら、ちゃんとご挨拶しなさい」
とおばさんが言うと、凪波がちょっと顔を出して、にこ〜と笑ってくれたのが、嬉しいと思ったのか、可愛いと思ったのか……今となっては何が本当の感情だったのかはわからない。

ただ、この日から、凪波に会うのがいつも楽しみになった。
二人で遊んでる時が、何よりも大事だと思えるようになった。
凪波が怒っている時は、何故だか俺も怒りたくなったし、泣いている時は慰めてあげたいと思った。

親たちは、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、「朝陽くんと凪波ちゃんが結婚したら、私たち家族になれるわね」なんて、よく電話で話していた。

凪波と俺は、ずっと側にいられると、なんの保証もない、正体不明の自信だけが妙にあった。
それは俺たちが高校を卒業する日まで、変わることはなかった。
自分だけが、凪波を1番知っている存在であると本気で信じていた。

誰にも行き先を告げずに、凪波は忽然と姿を消したその日、俺は凪波のことを、一切何も知らなかったのだと、思い知らされた。


今考えると、別に彼氏彼女になったわけでも……好きという言葉さえ一度も言わなかったのだから、何を思い上がっていたんだと分かるものだけれど……。


そんなことをぼーっと考えていると、1名の看護師がこちらに近づいてくるのがわかった。
「畑野凪波さんの、ご家族の方でしょうか?」
Side凪波
それはまるで、ドラマのようで、私はこの世界の物語の登場人物ではないように思えた。

病室でベッドに寝かされている私を見ている彼ら……母、父、そして幼馴染は確かに彼らであるとは分かるのだが、記憶の中と目の前の景色があまりにもギャップがありすぎる。

かつての母は、ふっくらした……けっして似たいとは思わなかった体型の持ち主だった。
今の母は、疲れ切ったように背中を丸め、ぴんっと張られた顔の皮がしわしわになっている。

かつての父は、髭をしっかりそり、おしゃれなメガネが自慢の人だった。
今の父は、サイズの合っていないメガネを何度もかけなおし、無精髭に顔を支配されている。

そしてかつての幼馴染は、お調子者で、テレビで知ったギャグを次の日には狂ったように連発する……虫や蛙を捕まえてきては嫌がる私に見せにくるような……どうしようもない子供で、一緒に扱われるのが嫌になることも多かった。

でも、幼馴染だと名乗るこの人は、笑った時に日に焼けた顔からのぞく白い歯がとても綺麗で、体もずっと大きくなっていた。
短く刈り揃えられた髪型、そして昔よりずっと低く落ち着いた声で「大丈夫か?」と私を心配する言葉を繰り返す。

知っているようで、知らない人たち。
知らないことを、寂しいと思ってしまう人たち。

そういえば、高校1年の頃。
かつて好きだったアイドルを久々にテレビで見た時に
「あー昔はもっとかっこよかったのに」
と嘆いたことを思い出した。
あの気持ちと、今の気持ちは、少し似ている。
Side凪波

「あんた、何でこんなことに……」
母が、聞く。動揺を隠さない声で。
「わかりません」
私は答える。淡々と。

「一体どこにいたんだい?」
父が、聞く。動揺を無理に抑えようと、落ち着いた、でも震えた声で。
「わかりません」
私は答える。淡々と。

何を、誰が、どのように聞いたとしても、
たったそれしか、言葉が出て来ない。

私が持つ、最後の記憶の私。
その後に「記憶に存在しない」私から彼らに連絡があったという事実も、「そうなんですか?」としか言えない。

両親は泣いた。
どうせ馬鹿なことをしたんでしょう、と母は罵った。
看護師さんが母を押さえてくれなければ、私は打撲の手当を受けなくてはならなかっただろう。
人に言えないことをしたんじゃないよな、と父はおそるおそる確認をする。

そんなの、私が1番知りたい。
今の私の気持ちをわかる人は、世界中にどれだけいるのだろうか。
心当たりもないことを推測され、責められる。
体と心のバランスが一致しない不安定さが、どれ程苦痛なことか。

そんな私に、なにも聞かず、ただ冷静に事実だけを教えてくれ、私がこの世界に慣れる手助けをしてくれたのはたった一人……朝、太陽が昇る時間に生まれたからというのが名前の由来になった朝陽だけ。

太陽は暗い闇を照らすことで光を取り戻してくれる。
私のことも、暗闇から救い出してくれる……。
病院での再会から、毎日欠かさず側で支えてくれる朝陽だけが、不安定な私を支えくれる。
だから、1ヶ月しか経っていないにも関わらず

「俺があんたのことを支えるから、結婚しないか?」

と言われた時は、かつての私が見たら信じられないと思うスピードで了承をした。
かつては自分を縛る言葉だと思っていたはずの結婚が、自分を守ってくれるのだと、この時の私はそう信じるしか、もう道が残されていないと思っていた。


心の奥の、ずっと奥で、なにかが痛むのは、自分の気のせいだと思うことにした。
Side朝陽

10年ぶりの再会は病室……しかも片一方はベッドで眠っている。
俺が知っている凪波よりも、ガリガリに痩せていて、俺は言葉を失った。

おじさんとおばさんは、凪波の手をしっかり握り
「凪波!目を覚まして……!」
と呼びかけている。

「少し、よろしいですか?」
と初老の医師が看護師を伴って病室に入ってきた。
「はい、なんでしょう」
俺が代表で答える。
医師は、一瞬話すのを躊躇った様子だったが、1回咳払いをして
「大変申し上げにくいことなんですが……」
「はい」
「その……」
医師は俺の方をちらと見て
「あなたは……旦那様……ですか?」
「…………いえ」
残念ながら、と心の中で付け加えた。
「そうですか……では……凪波さんのお父様お母様は、凪波さんのパートナーの方はご存知ですか?」
「いえ……娘は10年間、1度も帰ってきませんでしたし……」
そう言ったきり、嗚咽でしゃべれなくなったおばさんに代わり
「連絡もたった1度しかしてきませんでしたので……私たちは、娘が一体どこで何をしていたのか、まるでわからないのです……」
とおじさんが答えた。
「そうですか……そうしましたら……」
医師が俺の方を見ながら
「ご家族の方だけに、ここから先はお話いたしますので……その……」
「……」
つまり、家族でもなんでもない俺は、ここから出て行ってほしいということなのだろう。

わかりました。

そう言って出て行こうとした時

「家族です!」
とおばさんが言った。
「おばさん……?」
「家族です!朝陽くんは……婚約者ですから」
医師が怪訝な顔で
「しかし、パートナーではないと……」
「婚約者ったら、婚約者なんです!親が決めたんですから!」
「はぁ……」
ちらりと俺を見る医師。
俺はどんな表情で、どんな言葉を言うのが正しいのかわからず、中途半端な苦笑いをするしかできなかった。
「わかりました。そうしましたら、ここにいる皆様を、凪波さんの家族と考えてお伝えいたします」

何か病気が見つかったのだろうか。
それもだいぶ重い……下手をすると、死んでしまうほどの。
おじさんとおばさんも同じことを考えたのだろう。二人とも肩を震わせている。


「凪波さんは、ご妊娠していらっしゃいました」
別の意味で、ショックな話だった。
Side???

君の声が聞こえない。
君の匂いがしない。
君の足音が聞こえない。
君の存在が見えない。

君がいない。


ねえ、約束したよね?
何があっても、どんなことしてでも
君と僕のことは、絶対に守るって。

……でも、君はいなくなってしまった。
僕が与えた指輪だけを残して。

君がくれた手紙も
君が買った僕へのプレゼントも
君が生きていたとわかる全てのものも
あっという間に消えてしまった。


ねえ、知ってる?
僕はね、とっても諦めが悪いんだ。
だからね……凪波?





絶対見つけるからね。
Side朝陽

妊娠していた。
それは、俺たちの想像を遥かに超えていた。

「うちの子が……まさかそんな……」
おばさんは困惑して医師に詰め寄った。
「一体どういうことなんですか!」
おばさんが医師に掴み掛かろうとしたので

「おばさん!落ち着いてください!」
と俺は宥めた。

……もしおばさんが叫んでくれなかったら、俺が叫んでいたかもしれない。

「先生?」
今度はおじさんが静かに問いかける。
「それでは、娘のお腹には、今子供がいる……ということですか?」
医師は首を振る。
「いえ、どうやら流産された直後みたいでした」
「そんな……流産って……!」
「おばさん、しっかり!」
倒れそうになったおばさんを支えながら、俺も1つ気になっていたことを聞く。
「あの……彼女はどこにいたんですか?」
「救急隊員の話だと、駅のホームにいたそうだ」
「ホーム?」
「始発から終電まで、ずっとホームの椅子に座っていたとのことです。凪波さんが、いつまでも動かないことが気になり、駅員が声をかけたところ、何かを言いかけて気を失った……ということだそうです」
「何かを言いかけたって……どんな言葉かまでは聞き取れなかったんですか?」
「さあ、そこまでは。私も救急隊員から話を伺ったくらいですので」
「……先生……」
少し落ち着いたのか、おばさんが少し低めの声のトーンで話し始める。
「私の方からもう1つ質問してもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
「なぜ、家に……電話をかけていただけたのでしょうか?」
続けておじさんも
「そうです!何か持ち物とかあったんでしょうか?見せていただけませんか?」
医師はまたもや首をふり
「身元を証明するものは、これだけでした」
医師がポケットからメモを取り出して、おばさんに渡した。
俺とおじさんも、そのメモに視線をむける。しわくちゃで、丸められたものであることがわかった。

はたの ななみ

ひらがなで書かれた凪波の名前と、凪波の家の電話番号だけが書かれていた。

「これ……凪波が書いたってことですか?」
おばさんが聞くと医師は淡々と
「そこまでは分かりかねます」

そう言うと、医師は腕時計をさっと見ると「では、一度失礼します」とだけ言うと踵を返して表紙を出ていく。
看護師は焦った様子で深くお辞儀を俺たちに向けてすると、「何かありましたらナースコールでお呼びください」と早口で言うと、走って医師を追いかけて行った。

残された俺たちは、もう1度そのメモを見る。
「おじさんおばさん……これ……凪波の字ですか?」
おじさんは「わからんなぁ」と言い、おばさんも
「あの子の字かどうかなんてわからないわよ!」
と混乱していた。


荷物はこれ以外はない。
意識不明になるまで駅のホームにいたという凪波。


俺は、凪波が何かの事件に巻き込まれているんじゃないかと考え、背筋が凍る思いがした。
Side朝陽

本当は、10年前になんで、俺に何も言わずにいなくなったのか、理由を聞きたかった。
本当は、お前なんかいなくたって俺は平気だったんだって、強がりたかった。
それが、お前に勝手に置いていかれた俺にできる、ちょっとした意地だと思っていた。

なんでだよ。
凪波。お前さあ、夢を追いかけるために行ったんじゃないのかよ。
幸せになるためにここを出たんじゃないのかよ。

なんでだよ。
なんでこんなに痩せてんだよ。
なんでこんなに苦しそうなんだよ。

……妊娠して……まして流産だと?
……ふざけるな。
誰だよ。凪波をそんな目に合わせたのは。


……万が一そいつが凪波のところに現れてみろ。
俺は、絶対そいつを許さない。
そいつに凪波を渡すくらいなら……



「おばさん、おじさん」
凪波はまだ眠っている。
もう3日は経っていた。

おばさんとおじさん、そして俺は1度それぞれの家に帰った。
おばさんはそのまま凪波が高校時代に着ていた着替えを複数持って、また病院に戻っていった。
おじさんと俺は、仕事が終わった後に顔を出し、ギリギリまで目覚めるのを待つ……そんなことを繰り返していた。

「朝陽くん……ここまで付き合わなくてもいいのよ?」
おばさんはそう言ってくれたが
「何言ってるんですか。こういう時は男手も必要ですから。任せてください」
と返した。

それは、単なる自分のエゴ。
ただ、目が覚めた凪波に少しでも早く会いたいと思ったから。


それほどまでに、まだ俺は凪波が好きだったのだと……
10年間で忘れていたふりをしていただけだったのだと……
思い知らされた。
Side 朝陽
そろそろ麻酔が切れる頃だ……と看護師が言った。
俺は、1つの決意を固めていた。

「おじさん、おばさん、話をしてもいいですか?」
この話をしながら凪波が目覚めるのを待ちたいと思った。

「もちろんいいわよ」
「なんだい?」

二人は、疲れた顔と声色をしている。

「凪波が目が覚めたら……どうしますか?」
二人は怪訝そうな顔で
「どうする、とは?」
「凪波を妊娠させた男、探しますか?」

一瞬の沈黙。そして

「……探してどうなるっていうの?」
おばさんが先に口を開く。
「………もし、その男が現れたら……凪波をその男に返しますか」
「返すわけないじゃない!」
おばさんが叫ぶ。
「きっと、その男のせいで、凪波がこんな……こんな……」

妊娠という言葉を無理に避けるかのように「こんな」を連発するおばさんを、おじさんが背中をさすって落ち着かせる。
ああ、やっぱりこの二人はいいな。
俺も、この二人のように凪波と……。


そう思った俺は意を決して
「お二人さえ良ければ……」

凪波と正式に結婚させてほしい。
俺に、その男から凪波を守らせてほしい。
そう言おうと思った、その時。







「ん……」
高く、小さなか細い声がする。
はっと全員がベッドを見る。
身じろぎをしながら、ゆっくり凪波が目を覚ましていく。


「凪波……!凪波聞こえる!お母さんよ!」
「父さんもいるぞ!」
「…………」

ぱっちりの目を開けた凪波は、ゆっくりと目線を俺たちの方に向ける。
俺はたまらなくなり、「凪波!」と叫んでベッドに覆い被さってしまった。

凪波の匂いが近い。
凪波の、ただ眠っている以外の吐息がする。
それだけでこんなに幸せ……

「あの……」

と、思ったのも束の間……


「すみません……初めまして……ですよね?」
と凪波が小さく、震えるように言ったのを聞いた瞬間、俺は目の前が真っ暗になった。
Side ???


どうしてだろうね。
僕はこんなにも君を愛しているのに。
君は、あんなにも僕を愛してくれたはずなのに。
僕がこんな仕事に着いてなければ、僕たちはもっと幸せになれたのかな。

「あなたが、世の中の女性を幸せにするの!自覚を持ちなさい!」

と言われた時は、正直興味もなかったよ。
だって、あの時から僕は君に夢中だったんだ。
でも、僕が頷くと君が褒めてくれるから……。
僕が1つずつ、君が望む僕になることで、君が笑顔になってくれるから……。
だからここまで来れたんだ。


それを……今更君は、なかったことにするの?
そんなの許さないからね。