お願い、私を見つけないで 〜誰がお前を孕ませた?/何故君は僕から逃げた?〜

Side朔夜

人工的に作られたであろう池は、不自然な程に透き通った水を湛えている。

彼女はその池のふちに座っている。
水の中に、彼女は両足を入れている。

池の中心には、月がくっきりと映っており、彼女が水を蹴る度に、月が歪む。
今自分がいるところからは、彼女の顔がはっきり見えない。

声をかけようと、思った。
声をかけたかった。
その時、くるりと彼女が振り返った。

目が合う。
彼女の目が、僕を見ている。

……違う。
彼女は、彼女なはずだ。
と思っていた。

抱きしめた感触も温度も。
匂いも、声も。
確かに同一人物だ。
僕の身体がそう言っている。

でも……今僕を見ている彼女の顔が。
目が。
僕の記憶のものとずれがある。
その正体が何かは分からない。
ただ、違和感がある。

首をかしげる癖も、髪の毛をかきあげる動作も全部彼女のものだと知っているはずなのに。

「あの……」
彼女は、僕に語りかける。
「お帰りなさい」
と。
それは、ついこの間までは楽しみにしていた彼女の言葉だった。
でも違う。

今の彼女は18歳だと言っていた。
見た目はちっとも変わらないのに。
僕が知っているはずの彼女なのに。
でも今の彼女は僕を知らない。
彼女の中に、僕がいない。

だからなのだろうか。
今のおかえりなさいは、僕が欲しかった声ではなかった。

僕がじっと黙っているのを見ている彼女は、また僕から視線を逸らし、水に映る月を蹴り始めた。
子供のような、彼女のそんな行動を、僕は知らない。
僕が知ってる彼女は、そんなことで楽しそうになんか笑わなかったんだ。
Side朔夜

僕は、彼女の側に近づいた。
東京に連れてきた時は、支え無しで歩くのもやっとの状態だった。
出血していたのか、もしくは薬の影響なんかもあったのだろうが。
今は、包帯こそそのまま巻いてはいるものの、表情は何故か明るい。
水に映る月が、そう見せているのだろうか。

「あのさ……」
「はい」

僕が話しかける。
彼女から、今までに無いほどの、素直な返事がきた。
だから逆に、僕が言葉を続けることが、できな買った。

……今、僕は彼女に、一体……何を言えばいい?

部屋を抜け出したことを、咎めればいい?
だけど、部屋から出るなと、彼女に直接言ったわけではない。
かつての僕と彼女の関係ならば、そんなことすらも言い訳にして彼女を抱く言い訳にしたかもしれない。

でも、それが正解ではないことだけはわかる。
じゃあ、何が正解?

「何を……しているの?」
無難すぎる僕の言葉。
それに対して、彼女からの返事はない。
彼女は、ゴロンと背中を地面につけて、空と向かい合った。
僕は、一瞬彼女がまた倒れたのではないかとゾッとしたが、目をパチパチと瞬きさせていたので、少しだけホッとした。

僕は、彼女の横に座り、彼女の同じように足を水につけてみた。

「冷たい……」

僕がそう言うと、彼女はクスクスと笑う。
僕も、釣られて少しだけ笑い、そして彼女と同じように地面に背中をつけてみた。

そして、どちらからともかく、笑いが止まる。
空に意識が吸い寄せられそうに思えた。
月と、少しの星しかない夜。
あの日、彼女を捕まえた日の夜が記憶に蘇る。

「見たかった……」
無邪気な表情をした彼女は、ぽつりと言った。
「何を?」
「星……」
「……どうして?」

彼女は、しばらく黙ってしまった。
僕は、彼女の顔を見ようと、顔だけ彼女の方に向ける。
彼女は、右手を伸ばしていた。
まるで、星を掴もうとしているかのように。

僕は、その手が星に取られるのが怖くて、気がつけば彼女の手を僕の左手で握ろうと、体を動かした。

自然と、彼女に覆い被さる形になってしまった。
再び、彼女と目が合う。
その瞬間だった。
一気に彼女の顔から笑顔が消えた。
僕はその瞬間に、心が抉られるような痛みを与えられる。

「あの……」
彼女が、口を開く。
「何?」
僕は、動揺を隠すのに必死だった。
「……こう言うこと……本当にしていたんですか?私達……」
「どう言うこと?」
「ごめんなさい……私……わからないんです……。あなたのような人が……本当に私の恋人だったなんて……やっぱり信じられなくて……」

やめてくれ。
凪波の顔をして。
凪波の声をして。
凪波の香りをする君が。
僕を拒絶しないで。
どうか。

彼女の唇に自分の唇を強く押し当てるキスを、僕はする。
彼女は僕の胸をどんどんと叩いている。
薄めで彼女の表情を見ると、とても苦しそうな顔で、つぶった目の端から涙が溢れる。
僕は、彼女の涙を舌で拭ってから、唇を開かせようと、舌で彼女の唇を舐める。

僕が知っている、甘くておかしくなりそうな味がする。
彼女が苦しそうに唇を薄く開いた瞬間に、僕は彼女の口の中に入り込む。
その行為は、かつての、愛を伝えるためのものではなく、愛を思い出してもらうためのもの。

どうか、どうか応えて。
どうか思い出して。
僕を。
Side朔夜

ゆっくりと、唇を離していく。
絹のような柔らかさを惜しむように、そっと。
閉じていた目は、恐る恐る開けていく。
彼女の瞳に映る、僕が見えた。

すると、突然凪波が
「……記憶を無くした私でも、あなたは愛せるのですか? 」
と言った。
「……え?」

この声。
この目。
……間違いない。
そこにいたのは、僕が知っている凪波だった。

「凪波……!?」
「あの……?」
「どうしたの!凪波!?」
「今……何か、言いました?」
「……覚えて……ないの!?」

彼女は視線をキョロキョロと動かす。
苦痛に顔を歪めながら、包帯をしている頭を抑える。

彼女に何が起きているのか全く分からない僕は、ただただ混乱していた。
「凪波、大丈夫?」
と、彼女の手に自分の手を伸ばそうとした。
しかし凪波は僕の体を跳ね除ける。
バランスを崩した僕は、そのまま横に倒れた。

凪波はうつ伏せの状態で、唸り声をあげながら……頭をかきむしり始める。
「あ……私……ここ……記憶……」
かきむしり方が、どんどん激しくなる。
包帯が、徐々に解けていく。
それからすぐ、ぶつぶつと何かを言い始めた。
けれど僕には、凪波の言葉が届いてくれない。

僕が彼女を捕まえようとしたら、彼女は僕の手を払い除ける。
それから、自分の頭を押さえながら、悶え苦しむ。



そして。
もう一度、僕を見た彼女は……。

「…………さく……や……?」

それは、ずっと恋しかった声。

「……凪波!!!」
嬉しさのあまり、力一杯抱きしめようとした。
彼女は、許してはくれない。
震える手で、彼女は僕をもう一度突き放す。

「どうして……!?」
僕を思い出したはずの凪波が、僕を拒絶した。

「……お願い……私を………………」
凪波は頭を押さえながら、息絶え絶えに何かを言っていた。
でも、僕の耳には、それが入ってこない。

凪波の目からは、涙が溢れている。
僕の頬にも、涙が流れる。

「ごめんなさい……」

今度は、凪波の言葉がはっきりと、僕に届いた。

「何が、ごめん……なの?」

僕の声は、震えている。
凪波は何も言わず、首を横に振った。
自分のお腹に手を当てて。

そして僕が言葉を探す前に、凪波は立ち上がろうとした。
まるで、僕から逃げるように。


逃がさない。



凪波を、今度こそ掴もうと僕が手を伸ばす。
でも……。




「残念だ、凪波さん」



その声は、僕の後から聞こえた。
反射的に声の方に振り返ろうとした時、もう二度と見たくないと思っていた光景を、僕は目にしてしまう。

凪波が、頭から堕ちていく。
透明な水の中へと。

「凪波!!」

凪波の頭から包帯がこぼれる。
隠されていた傷が開き、血色の花が広がる。

その姿は、かつて2人で見た絵画、死へと溶けていく乙女……ハムレットのヒロイン、オフィーリア。

急いで駆け寄ろうと思った。
凪波を死神から救おうと。
だけど……。






「実験は、失敗だ」

その声を最後に、僕の目の前には急速闇が広がった。


next memory……
Just a little while ago・・・

Side凪波

昔から、朝陽の家に行くのが嫌だった。

ニコニコと、年齢相応の可愛さをまとう朝陽のお母さん。
私のお母さんの親友だという人。
何故、こんな人が、あの人の親友になれたのだろうという程、おおらかで、少し抜けている人。

完璧を好むあの母が、1番嫌いであろう人種なはずなのに。

深夜の急な来訪にも関わらず、よりによっておもてなしにと、手間がかかるご自慢のアップルパイを本当に作り始めた。
真横で鼻歌を歌いながら、りんごの花まで作り始めている朝陽のお母さんを見ながら、私はとても複雑な気持ちになった。

「ねえ、凪波ちゃん?」
「何ですか?」

朝陽のお母さんは、周囲をチラチラ見ながらこう言う。
「これ、モニタリングの撮影かい?」
「モニタ……?」

また、知らない単語。

私は、そんなにもわかりやすい表情をしたのだろうか。
朝陽のお母さんはすぐに
「ドッキリとか……そういうテレビの番組」
と訂正してくれた。
「あっ、ああ……ドッキリですね」
それなら分かる。
でも、いきなりテレビの撮影かと聞いてくる理由は分からない。

と言うより、この人のことが、やっぱりよく分からない。

「だって、あんなイケメンさんが、うちの子と仲良しだなんて……天と地がひっくり返ったってないでしょ」

なるほど。そう言うことか。
先ほど、一緒にここに来た男性の事を意味しているのだろう。
一路朔夜という名前で活躍するという、人気声優。
声優の情報なら、男女関わらず声を聞いただけて当てるくらいの自信がある私が、全く知らない人。
そして、私が知らない私のことを知っている……と言う人。

「知らない所で、仲良くなったのかもしれませんよ」
自分の口から出てくる言葉が、自分に刺さる。

「ほら、うち色々な形でテレビに紹介されるようになったでしょう?あの子があんなイケメンさんと仲良くなるより、ドッキリに使われる方が、まだ確率が高いと思うのよね〜」

自分の息子のことながら、ひどい言い草だ。
この人の事を知らない人が、この発言を聞けば思うかもしれない。

でも、私は知っている。
この人は、決して息子の事を謙遜という日本語を盾にして、下げたりはしないことを。
Side凪波

私の母親は、私の行動が少しでも自分の理想と違っていれば、すぐ、自分が信じる正しい道へ導こうとする。

一番古い記憶は、ご飯の食べ方で怒られた時。食べる順番も事細かに決められていた。

母が作った世界で、母が作ったルールに従ってさえいれば、母の心は凪ぎ、家は平和を保たれる。

だけど、そのルールを少しでも破ると、一気に荒波が襲いかかる。
そうするたび、私の体にはあざが1つ、2つと増えていく。

皮膚の上には残っていないとしても、私はそのあざの数も大きさも、場所もありありと思い出せる。

女の子はこうあるべきだ、と着る洋服も与えられた。
女の子はこういうものを読むべきだ、と本も自由に選ばせてはくれなかった。
女の子として産んであげたのだから、幸せな結婚をして親を喜ばせろと言われ続けた。

母は私の支配者。
私は母の操り人形。
母の機嫌を損ねてしまえば、すぐに糸を切られて動けなくされる。

それが、私の肉体的な日常。
Side凪波

あれは、小学校3年の頃。
学校からの帰り道、朝陽の家に寄った日があった。
売れないりんごを、いくつか朝陽の家からもらってくるように言われたからだった。

その日は、算数のテストが返ってきた。
私は誰にも点数を言わなかったけれど、男子達はお互い大声で自分達の点数を暴露し合って、誰が1番バカかを競っていた。
その結果、朝陽が選ばれていた。1問しか問題を解くことができなかったから。
朝陽は、ヘラヘラゲラゲラと笑ってるだけ。

信じられなかった。
もし私がそんな点数を取ったら、母はどんな攻撃をしてくるか想像できなかった。

でもその日、朝陽は普通にテストを朝陽のお母さんにケロッとした様子で渡していた。

我が目を疑う、という経験をしたのは、人生であの時が初めてだったと思う。

怒鳴られない?
追いかけられない?
叩かれない?

朝陽のお母さんが、そのテストを受け取った後に右手を上げた時、不安で心臓のバクバクが止まらなかった。
パチーンと、皮膚が弾けるような音が聞こえるのではないかと思い、耳を塞ごうとした。

でも、そうは、ならなかった。

「よーくこの問題が解けるようになったなぁ」
朝陽のお母さんは、朝陽の頭をわしゃわしゃと、犬を可愛がるような感じで撫でながら言った。
「だろー!俺にかかれば、こんな問題屁でもないぜ」

……何故か余裕な表情の朝陽は、そのまま自分の部屋へと言ってしまう。
呆然としていると、朝陽のお母さんはくるりと私を見た。

「凪波ちゃんは?」
「……え?」
「テスト、どうだったん?」
「ええと……」

正直な点数を伝える。
黙ったり、嘘をつくための心のゆとりが持てなかったから。
すると

「凪波ちゃんは、朝陽と違って勉強ちゃんとできるから、偉いわー」
「でも……朝陽のこと褒めてた……」
「ああ、あいつはいいの」
「え?」

朝陽のお母さんは、ガッハッハッと心の底から楽しそうに笑いながら

「だってあいつ、テストの前日まーったく点数なんか取れる状態じゃなかったのよ」
「どういうこと?」
「問題集、試しにやってみたら見事に0点だったのよ。でも、あいつ頑張って1問だけ解けるようになったんよ」
「1問……」
「そ。で、今回ちゃんと1問取ってきたからなぁ」
「だから、褒めたの?」
「んーまあ本当は点数をたくさん取れた方がいいのかもしれんが、できなかったことをできるようにするっていう気持ちも、大事だからねぇ」

そのタイミングで、朝陽が私を呼びに来た。
ゲームの相手をしろ、とのことだった。
そのゲームも、朝陽の家でしか遊べないものだったから、すぐについていった。
けれど、本当はもう少し朝陽のお母さんと話をしたかった。




その日から朝陽の家に行くことが苦手になった。
私は、少しずつ、朝陽のお母さんと話したくなくなっていった。

どうして、あなたが私のお母さんじゃないの?
と、いつも帰る時に悲しくなるから。
朝陽を見るたびに、羨ましくて仕方がなくなるから。
Side凪波

「それにしても、やっぱり娘って良いわね」
「そうですか……?」
「そうよ〜。朝陽なんて、一度だって一緒に台所に立ってくれたことなんてなかったのよ」

そう言いながら、朝陽のお母さんは、クルクルと薄切りにしたりんごを丸めていく。
朝陽のお母さんの手の中で、それらがどんどん花開いていき、皿の上はいつしか綺麗な花畑になっていく。
その皿を見ながら、朝陽のお母さんの表情も、どんどん華やいでいく。
私は、その一連の流れに見惚れていた。

「これね、実鳥ちゃんに作り方を教えてもらったの」
「実鳥が?」

実鳥がここで働いている、ということは教えてもらった。
だけど。

「そうなの。今、インスタっていうやつ?おばさんよくわからないんだけど、そういうアプリっちゅうやつで、流行ってるから、うちでも作ってみるといいんじゃないかーって」
「そうなんですか……」
「おばさん、なかなかうまくできなかったんだけど、昨日と今日で、いーっぱい練習したんよ」
「そう……なんですか……」
「ほんと、実鳥ちゃんが来てくれてから、うちもだいぶ変わったんよ。昔はこんな風に、テレビとかに取り上げられるなんて、思いもせんかったしなぁ……。実鳥ちゃん様様よー」

私は、ただにこりと笑ってみせることしかできない。
朝陽のお母さんは、鼻歌を歌いながら、パイを焼く準備に取り掛かる。
一人で手際よく。
近くにいる私の手を、借りようとはしない。

昔、私はこの人が作る手作りお菓子が好きだった。
だから、この人の娘になりたいと、何度も願った。
この人の息子から結婚しようと言われた時、私は諦めたはずの希望が叶うかもしれない、と思った。
ここは、私のことを私として必要としてくれるかもしれない、と思った。

でもそれは、ドラマの終わりのように、あっという間に断ち切られた。

今この家には実鳥がいる。
実鳥の方が、この人には必要とされている。
結局私は、ここでも不安定な存在なのだ。
Side凪波

実鳥とは、高校1年の頃からの付き合い。
仲良くなったきっかけは、本屋。

自分で本を買うということは無かったので、滅多に行くことはなかった。
その日通りがかったのは、本当に偶然。

ある本の表紙が、とても綺麗だと思ったので手に取ってみる。
男性2人が描かれていて、色使いも鮮やか。
でも心惹かれたのは、男性の表情。
自分が持たされている本では決して見ないような、色っぽさがあった。

見ているだけで、ドキドキする。
もっとも、透明な袋に包まれているせいで、中身の確認はできなかった。

どんな文章が書かれているのだろう。
知りたい。

だけどこの時、私はお小遣い制ではなかった。
たった500円の本ですら、自由に買うことができない。

諦めないといけない。
でも、気になる。

周囲を見渡してみる。
店員は、別の人のレジ対応に追われている。

私の中に、悪い考えがよぎる。
袋を少し破いて、中を覗いてみよう。
ほんの少しだけ、開けるだけ。
ちゃんと綺麗に開けば、閉じ直すことができる。

ほんの少しだけ……。
私は爪で袋を破こうとした。


「あー!!」
背後から、店中に通る大きな声が聞こえる。
私は驚いて、手から本を落としてしまう。

まずい。
私の今の行動、見られた?

恐る恐る振り返る。
そこにいたのは

「その本!いいよね!」

同じ制服を着ている女子。
すでに大量の本を本を抱えている女子。
この時は、1回か2回くらいしか会話をしたことがない女子。

まずい。
知ってる人だ。
私は急いで本を拾って、適当な場所に置いてその場を立ち去ろうとする。
でも……。

「え?」
その女子が、私の手首を強く掴む。
まずい。
私、チクられる?
言い訳が思いつかない。
頭が真っ白になる。
逃げなきゃ。
でも足が動かない。
どうしよう。
そう思っていると。

「ねえ」
女子が話しかけてきた。
「……あの……私……」
とりあえず、何か言わなきゃ……。
そう思って出た言葉が
「ひょ、表紙!」
声が裏返る。
「表紙!すごく綺麗で、見てて……」

苦しい言い訳だ。
あきらかに、表紙ではなく、袋の境目を見ていたのだから。
相手の反応が怖い。

でも女子は
「わ、か、る〜!」
と、私の手をがしっと握ってくる。
「え?」
「わかる!これ!超エモい!」
「え……も?」
「あなたもこっち側の人間なのねー!!」
「こ、こっち側?」

女子は興奮気味に私の手をぶんぶん振る。
目が異常に輝いているその女子こそ、私のこれからの人生を変える存在、実鳥だった。
Side凪波

帰り道、私は公園のベンチに座らせられて、実鳥が買った本を見せられていた。
BL本とか、ファンタジーとか、ちょっと過激な漫画。
外にいるにも関わらず、私は実鳥が見せてくれた新しい世界に夢中になっていた。

きっかけは本当の偶然。
でもそれからは、まるでこの時の出会いが必然だったように、実鳥とは仲良くなった。
実鳥の家にも、よく行くようになった。
最初は学校が終わったらファーストフード店に行こうと誘われることが多かった。
でも私は100円の飲み物すら自由に買えない状態だったので、断っていると

「じゃあ、今度から私の家で遊ぼうよ」

と誘ってくれた。
母親には
「一緒に宿題する友達がいる」
とだけ言うと、特に何も言われなかった。
実鳥の部屋の棚に並べられたドラマCDやDVDは、私をワクワクさせる。

「ねえ」
私は聞く。
パッケージに毎回同じような名前が出てくることが多かったから、その名前の理由が知りたかった。

「ああ、それ、声優さんだよ」
「声優?」
「凪波はさ、俳優さんが出てるドラマは見るんでしょ?」
「あー……お母さんに付き合わされて……だけどね」
「それの声だけバージョンだって考えるのが1番楽かも〜」

そう言うと、あるドラマCDを2つ聞かせてくれた。
それは、同じ女性声優が出ているものとのこと。

「この人、役柄によって全然声違うんだよね」
と実鳥の解説を聞きながら、私は聞き入ってしまう。
「すごい……」
思わず声が漏れる。

片方ではとっても綺麗なお姫様を演じている。
もう一方では、頼り甲斐がある少年になりきっている。

「声優さんってほんとすごいんだよ!声だけでここまで役を表現できるなんて……!」

それから実鳥が色々声優について教えてくれた。
おすすめの声優はこの人だよ、と色々なドラマCDをそれからも聞かせてくれた。
CDならば、イヤホンをすれば聞けるだろう、と実鳥が毎日何かしらを貸してくれた。

私は嫌なことがあった時は、部屋に籠り、実鳥が貸してくれたCDを聞いて心を落ち着かせるようになった。
最初はそれだけだったけれど、2ヶ月、3ヶ月と繰り返す内に、声という要素だけで、全く違う人生を生きられるという仕事に、私は憧れるようになった。

私の夢は、まるで宝の箱のような実鳥の部屋から生まれた。
私も声優になれば、自由に色々な世界に生きられる。
男性にだってなることができる。
私はその瞬間だけ、私として生きていかなくても許される。

私は、声優になりたい。
そう心が決まった瞬間、私の目の前にキラキラする道が広がった。