祓姫こと、柊木式部の娘、翠子は長い睫毛を揺らしため息をつく。
やはり、と思う。
煌仁を目にした時から予想はしていた。
切れ長の瞳、高い鼻梁に形のよい唇。彼はついぞ見かけない美しい公達であった。
それはいいとしても、彼のような人はこの場にふさわしくない。ここに来る者は、どこか不安げだったり悲しみに沈んでいるものである。彼のようにまっすぐな目をした人が来る場所ではない。
来るべき時が来たのかもしれないと思う。
そんなつもりはないのに、お祓さまと神のように崇める人がいる。その都度朱依が神ではないとたしなめたけれど、翠子は感じていた。
いつか咎められるだろう。もしかしたら物の怪として成敗されてしまうかもしれないと。
翠子は「私は殺されるのですか?」と聞いた。
「まさか。手を貸してほしいだけだ」と煌仁は答えた。
ずいぶん強引な言い方だと思う。勅命というのはそういうものなのだろうか。
何しろ翠子の世間は狭い。屋敷の外を知らないので、そう言われればただ受け取るしかない。
にゃあ、と膝の上の猫が鳴く。
一緒に行きましょうと囁いて、翠子は猫を抱き上げた。
牛車に揺られながら、朱依は励ますように翠子の手を握る。
「暗くて何も見えないのが残念だわ」
物見窓から外を見つめたけれど、翠子の瞳に映るのは闇だけだ。汚れを知らぬ澄んだ瞳が寂しそうに潤む。
「このあたりは築地塀が続くだけですから」
「そうなのね」
翠子の膝の上には相変わらず白猫がいる。左右の瞳の色が違う白い雌猫を、翠子と朱依は〝まゆ玉〟と呼んでいる。
猫を抱いたままでも煌仁に止められなかった。猫一匹なにができるわけでもないと思ったのかもしれない。
「朱依。いざとなったらあなただけでも助かって」
「何をおっしゃいます。頼まれ事があって行くだけではありませんか。万が一の時は必ずお助けしますから」
朱依は翠子の三つ年上の十九歳。まだ幼さが残る主人を心より愛し、命をかけて守るつもりでいる。物見窓を覗き込みあたりを見まわした。
「大丈夫でございますよ、本当に宮中に向かっているようですから」
翠子は首を傾げる。
こんな夜更けに宮中に?
宮中に罪人を連れ込むというのもおかしな話である。やはりただの頼まれ事なのだろうか。
「勅命だなんて。あの煌仁とかいう男、随分大袈裟な物言いでしたね」
「そもそもあのお方はどういう方なのでしょう?」
ふたりは顔を見合わせて、うーん? と悩んだ。
彼から怪しい気配は感じられず、おとなしく付いてきてしまったけれど、何者なのかは聞いていなかった。
牛車は時々止まり、その度に男たちの話し声が聞こえ先へ進む。
やがて完全に止まり、簾が巻き上げられた。
かがり火が浮き上がらせるのは荘厳な建物。柱も太く重厚な造りの殿舎である。宿直の武人なのか弓を担ぎ松明を手に庭を歩く男も見えた。
なるほど宮中に着いたらしい。
「さあ、どうぞこちらに」
促されるまま翠子と朱依は牛車から下りた。
いつの間にか雨は止んでいたようで、空には星が輝いている。
それからの翠子は緊張を強いられた。
煌仁に連れられ、あろうことか帝からもよろしく頼むとのお言葉をかけられたのである。
途中で別れた朱依と合流したときには、ほっとしたあまり涙が零れた。
「姫さま大丈夫ですか? いったい、何を頼まれたのです?」
「まだ三歳の皇子さまが、原因不明のご病気でお倒れになっているそうなの。物の怪の仕業らしいのですって」
「物の怪?」
「そうらしいわ。だから申し訳ないけれどって一度はお断りしたの。でも断りきれなくて……」
煌仁に鋭く睨まれたのだ。
「仕方がないから、できることだけはしてみますと答えたわ」
「あの男ですね。無理なものは無理なのに」
朱依は眉間に皺を寄せる。
「さあ姫さま、とにかく今日は休みましょう」
「ええ、そうね」
この問題が解決しない限り、どうやら邸に帰してもらえないらしい。
ふたりは肩を寄せ合うように与えられた局で横になった。
緊張以上に疲れていたのだろう。間もなく翠子は深い眠りについた。
あくる朝、朝餉が済んだ頃、煌仁が現れた。
いかにも強そうな武官をひとり伴っている。
「この者は検非違使の長官、井原 篁。今回の事件の調査をしている。姫の警備も頼んだので、忌憚なく頼ってほしい」
挨拶もそこそこに煌仁は言った。
「未の刻に白の陰陽師が来る」
返事をしない翠子と朱依に何を思ったか、煌仁の後ろに控えていた篁が野太い声で咳ばらいをした。
朱依が篁をぎろりと睨むと、篁は睨み返す。それに構わず朱依が口を開いた。
「何度も言いますが、姫は物の怪を祓うことはできません」
「わかっておる。何かひとつでもわかれば、それでよいのだ」
「何もわからなかったら?」
「それでもよい。もちろんその場合も礼はする。十二単を持ってきた。宮中にいる間はこれを着ていたほうが見立たぬ故」
困ったことはないかとか、あれこれ世話を焼き煌仁は帰っていった。
「昨夜とは随分態度が違いますね」
翠子は苦笑する。
「昨日は私を疑っていたのでしょう。あの扇は私を試すものだったのね」
朱依は顔をしかめるけれど、仕方がないと思う。
ただ、こうなるとわかっていれば正直に答えなかったのにと、残念には思った。皇子の生死に関わるようで何やら気が重い。
時刻になると、ふらりと白の陰陽師が現れた。
ほぉ、と翠子は見惚れる。
噂通り彼は、銀色の総髪を肩の後ろに流している。特別に許されているのか白の直衣姿で、中に着ている朱の単衣が映えて見目麗しい。
「祓姫に会えるとは。宮中でも退屈はせずに済みそうだ」
彼は唯泉と名乗った。
「そなたは話を聞いてどう思われた?」
「私には何もできないだろうと思います」
薄く笑った唯泉は畳んである衣を差し出した。これが誰のものとは言わないが、衣は小さいので皇子のものだろう。
物の怪が何か残しているのか、翠子は少し緊張した面持ちで衣に触れた。
しかし、衣を手に取った時には表情のこわばりは解け、怪訝そうに首を傾げる。
「おかしいと思わぬか?」と唯泉が言った。
「あの……。物の怪は本当に憑いていたのですか?」
「ああ、それは間違いない。その時に着ていた衣だ」
皇子を襲うからには衣にも怨念を残しそうなものである。なのにまったくそんな様子がない。
戸惑いながら、翠子はそっと衣を床に置いた。
まゆ玉が近づいて衣の匂いを嗅ぎ、翠子の膝に乗った。
唯泉はその様子をじっと見ている。
「猫にも不思議な力があるのか?」
「不思議かどうかはわかりませぬが、危険を教えてくれます」
まゆ玉は鳴き声すらあげなかった。
「私が感じたのは愛情だけでした。どちらかといえば強すぎるくらいの」
唯泉は満足げに頷く。
「物の怪は女だ。いたにはいたが、あの物の怪が何かをしたとか思えぬ」
唯泉はこれまでの経緯を語った。
彼が呼ばれたのは三月ほど前の水無月。長雨の頃だったという。
弘徽殿と麗景殿。それぞれの皇子がおふたりとも病に倒れた。ある夜、看病する麗景殿の女房が皇子を覗きこむ物の怪を見たという。
唯泉が呼ばれたときも物の怪は確かにいて、唯泉は物の怪を追い払った。持ってきた衣はそのとき皇子が身につけていたものだという。
「間もなくどちらの皇子も元気にはなったが、私が来たときには既にほとんど回復されていたのだ」
「物の怪に関係なく回復されたと?」
唯泉は「恐らく」と頷く。
「それから三月の間は何もなかったが、また皇子が倒れた。今回は麗景殿の皇子だけで、物の怪は出てこない。まだ宮中のどこかに隠れているであろうし、次に現れれば祓うが……」
唯泉には迷いがあるようだ。
「ところでそなたは祓姫と呼ばれているようだが、物の怪を祓えるのか?」
「いいえ、まったく。祓えませんし何もできません。皆さん誤解をされているのです。ここに連れて来られても困るのです」
ふてくされた物言いに唯泉は笑う。
「でも聞こえるのだろう? 物の〝声〟が」
「ええ、まあ。でも強い感情だけです。すべての物から聞き取れるわけではありませんし」
「それでもすごい力ではないか」
すごいといえばすごいのだろうが。
苦笑いを浮かべながら翠子は、ふと思い出して聞いてみた。
「あの……。煌仁さまというあの方は、どのようなお立場の方なのですか?」
「知らぬのか? 彼は東宮だよ」
「え? とうぐう?」
「帝がまだ東宮でいらっしゃったころの皇子なので、弟たちとは歳が離れている。母君は彼が幼い頃に亡くなられてしまってな」
≪ 東宮 ≫
煌仁は西の空が赤く染まった頃に現れた。
今日も篁を伴っている。
「唯泉と話をして何かわかったか?」
「物の怪の仕業ではなさそうだと思いました」
「なぜそう思った?」
「感じたのは、強い愛情だけでしたので」
「愛情も度を過ぎれば」
「愛が憎しみに変われば、それは憎しみです」
煌仁の言葉を遮ったにべもない言い方である。
「なるほど」
これ以上報告するものはない。それきり翠子は口を閉ざした。
煌仁が東宮だとわかった今は、なるべく距離をおきたいと思った。どう接したらいいのかもわからないし、心を開いていい相手ではない。
「そなたは何が好きか? 今度持ってこよう。衣か? 唐果物か? それとも紙が良いか?」
「何もいりません。一日も早く帰していただければそれで」
深く頭を垂れてから立ち上がった翠子は、奥へ行く。
とても疲れていた。
まだ二日しか経っていないのに、三日くらい寝ていないような疲れようだ。まるで老婆にでもなったような気がする。
「姫さま」
朱依が心配そうに寄り添う。
「温かい麦茶でも持って来てもらいましょう」
「ありがとう」
そのうち慣れるだろうが、ここは何を触っても翠子に訴えてくる。几帳に触れれば女の悲しみが。柱に手をかければ男の憎悪が。少しも気が休まらない。
慣れようとしてあえて触れた自分の責任もあるが、これほどまでとは。
翠子は自分が屋敷を出なくなった理由を思い出した。
外を見たいと思ってきのこ狩りに出かけ、途中山寺に立ち寄って休憩をした。あの頃はまだ幼かったから避ける知恵もなくて、亡くなった人の怨念まで触れてしまったのである。
あれきり外に出られなくなった。
やっぱり自分は邸の奥にいるしかないのかと、悲しくなる。
一方、廂に取り残された煌仁と篁は顔を見合わせていた。
「なんですか、あの態度は」
篁はぼやく。
煌仁は薄く笑うだけで、そのまま立ち上がった。
「無理に連れてきたのだ。仕方あるまい」
「ですが、殿下があれほど心を砕いて優しく聞いているのに、愛嬌のかけらもないじゃないですか」
鼻息も荒く憤慨するが、篁も彼女の美しさは認めたらしい。
「せっかくの美貌も、あれでは台無しですな」とため息をつく。顔は見ていないが、癖もなくまっすぐで豊かな黒髪の艶めく様には目を奪われたようである。
「篁、姫の前で殿下はやめろ。ますます心を閉ざされてしまう」
「はあ。しかし――」
それではあの女がますます図に乗りますぞ、とは言えず篁は口ごもった。
「清らかな瞳をしていたのだ」
「え? 祓姫がですか?」
「ああ。ついぞこれまで見たこともないほど、美しい目をしていた。私は姫に希望を託すと決めたのだ」
そうとまで言われれば受け入れるしかないが、篁とて闇雲に信じるわけにはいかない。
「物の怪の仕業でないと、唯泉と同じ意見でしたね。唯泉から聞いたのでしょうか」
「それはないだろう。唯泉はそれほど親切な男ではない」
声をかけたのは唯泉や祓姫だけではない。宮中の一大事とあって国中から様々な者が集められた。中には易者や占い師もいて、話を聞く度に唯泉を同席させた。
彼らは様々なことを言う。紅い衣を着せるとよい、西に向かって米粒を撒くとよいなどわけのわからない話もあった。
唯泉は何を聞いても目をつぶって全く関心を見せなかったが、ある占い師の『祓姫なら何かわかるかもしれませぬ』という発言だけには反応したのである。
今日も唯泉は自分から祓姫に会いたいと言ってきた。話し込んでいったからには彼女を気に入ったのだろう。
「それより篁、今の話をどう思う?」
「はあ……。やはり物の怪は関係ないのでしょうか。唯泉は『毒じゃないのか』などと恐ろしいことを言いますが、毒見係も、同じものを召し上がった皇女さま方もなんともないのです。やはり物の怪以外にありませんよ」
顔をしかめた篁は身振り手振りで力説する。
「いるんじゃないですか? 別の物の怪が。唯泉だって物の怪の全てが見えるわけじゃないですって」
煌仁は篁をぎろりと一瞥する。
「唯泉の耳に入ったらどうする。他の陰陽師には祓えなかったのだぞ」
「はあ、それはそうですけど」
今、宮中は混乱の最中にある。祓姫の力がいかほどのものかはわからないが、陰陽師だろうが占い師だろうが、機嫌をとってでも手を貸してもらうしかない。それは篁にもわかっている。わかってはいるが。
「とにかくひとつずつ見ていくしかあるまい。明日にでも麗景殿に行くと姫に伝えておけ」
「一緒に行かれるのですか?」
「行くしかないだろう?」
いきなりわけのわからぬ女が出てきて、はいそうですかと女御が受け入れると思うのか。
視線に込めた説教を、渋々ながら篁は受け取った。
「はぁ」
だったらさっき言えばよかったではないか。とは言えない。篁は肩を落として戻っていく。
篁は祓姫も朱依という女も、どうも苦手だと思った。美しくはあっても不気味だし態度は尊大だ。かわいげなど一切ない。仮にも東宮に対してあの態度はなんだ。
忌々しさに顔をしかめながら妻戸の前に立つ。
(なんだ、もう閉めたのか)
まだ明るいというのに扉は閉じている。軽く叩き「話がある」と声を掛けると、「なんだ」と朱依の声がした。
なんだとはなんだ。
ぷちっとこめかみの血の道が切れそうになったが、ひと呼吸おいて「明日一緒に麗景殿に行ってもらう」と告げた。
「時刻は?」
うっかりして時刻は聞いていない。
「何時であろうとよかろう。どうせお主らに他の用事はないのだ」
「ふん。未の刻ならよいが、それ以外はだめだ」
「おい!」
朱依の衣擦れの音が遠くなっていく。
(――くそっ。あの女)
やり場のない怒りに思い切り妻戸を蹴り上げようとしたが、扉では音が響き過ぎる。振り返りざまに柱を蹴りつけたが、あまりの痛さに片足を抱えてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
≪ 麗景殿 ≫