篁がやって来て話してくれた。
帝が譲位するという。今回の事件が体調不良に追い討ちをかけたらしい。
「大陸に行ってみたいと仰っていたのですが無理そうですね」
「そうだなぁ。難儀なことだ」
翠子はくすっと笑った。
これ以上はない慶事であるのに、深いため息をつく者は唯泉くらいだろう。
「おめでたいことですのに」
「ふん。なにがおめでたいものか。宮中という檻の囚われ者だ。ま、あいつのことだから手は打つだろうが。そういえば抜け出して東市に行ったそうではないか」
「はい。焼き餅を食べました。色々買って頂いて。そうそう唯泉さま、手袋の魔除けありがとうございます」
翠子は胸元に忍ばせている櫛と輝く石にそっと手を当てた。
楽しかった思い出。心は彼とともに、海を渡り遠く西の国を旅する。
唯泉とはまた会おうと約束して別れた。
「さあ、荷物は木箱に詰めました。明日出かける前にもう一度忘れ物の確認をしましょう」
「そうね」
着の身着のまま連れてこられたのに、帰りは結構な荷物がある。十二単や冊子に遊び道具、ひいては邸で留守番をしている者たちへの手土産まで、全て報奨として頂いた。
「こんなに頂いていいのかしら」
「いいんですよ。姫さまは宮中をきれいにして差し上げたんですもの」
「朱依ったら恐れ多いわ」
そんなことないですと胸を張った朱依だけれど、離れるとなるとやはり寂しさもあるのだろう。
「この局も、庭の景色は良かったからちょっと残念ですねぇ」としみじみと呟いた。
夕暮れ時になって煌仁が現れた。
「帝がくれぐれもよろしくと、ありがとうと、仰っていた」
「いいえ。また――」
一瞬言い淀んだが、翠子はにっこりと目を細めた。
「また何かあればお呼びください」
煌仁はうれしそうに頬を上げる。
「ありがとう。東市にも、また共に行こうな」
まだそれを言ってくれるのかと、胸が熱くなる。
でもそれはもう無理じゃないですかと心で笑い、笑顔のまま翠子は答えた。
「ええ。楽しみにしていますね」
今は考えられなくても、もしかしたらずっと先、そんな日が本当に来るかもしれない。
「すまぬ。明日は見送れぬが、くれぐれも気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
袖を濡らす涙は何の涙なのか。
次の日、篁に付き添われながら、翠子と朱依とまゆ玉は宮中を後にした。
屋敷では使用人たちが明るく迎えてくれた。
ひと月ほど留守にしていたせいで、外で翠子を待つ人々もいなかった。
ほっとしながら久しぶりの我が家に入る。
「ほう、趣がある邸であるなぁ」
篁がしげしげと首を回して見回している。
「ちょっと、失礼じゃないの」
朱依が怒るのを笑いながら翠子は思う。同じ邸であるのに煌仁が迎えに来たあの時とは違って見える。
こんなに明るかったのかと、簀子に立った。
奥に籠もってばかりいないで、これからは時々外にも出よう。東市に行ったあの時のように女房のふりをすればいい。唯泉のいる嵯峨野にも行ってみたい。女官たちが話していた熊野詣にも鞍馬にも行ってみよう。
それからしばらくはのんびりと過ごした。
物から声を聞く仕事は唯泉の提案を受けて方法を変えた。