「いいえ。私が初めて物の声を聞いたのは、亡くなった母の衣を手に取った時でした。『大丈夫、大丈夫』って、衣が訴えたんです。とても優しくて、だから寂しくはありませんでした」
「母の声でか?」
「はい。煌仁さまの母君の声も、とてもとても優しい声でした」
幼子を残した母の声は、いつだって優しくて切ない。そして悲しい。
「そうか」と頷いた煌仁は、懐かしむように束の間遠くを見る。
「さあ食べよう。ほら、この焼き餅は美味しいぞ、ほら、口を開けて」
「え?」
「手袋が汚れてしまうから、口を」
恐る恐る口を開けると煌仁はにっこり微笑みながら、翠子の小さな口に餅を入れる。焼いた餅は醤が塗ってあるようだ。香ばしくて、少し苦くて、噛むほどに旨味が広がる。
「とてもおいしいです」
「だろう? こっちの餅は甘いぞ? さあ」
また口を開ける。
次に差し出された餅は艶めいていて、口の中に広がる甘葛はうっとりするほど甘く疲れが消し去ってゆく。
「どうだ?」
「こんなにおいしい餅は初めてです」
「そうか、それは良かった。喉も渇いただろう」
今度は麦茶が入った器を差し出す。それくらい自分でできるのに、せっせと世話を焼く煌仁がなんだかおかしくて頬がほころぶ。
東宮にこんなふうにして頂いていいのだろうか?
殿下ではなく煌仁と呼んでほしいと言われても、最初は戸惑った。
煌仁さまと言うとうれしそうに微笑んでくれるので、そうさせてもらっているが、彼が心を開いてくれているのは翠子にもわかる。なんとはなしにうれしかった。
笑顔の裏で、臆病な心が影を潜めはじめる。
豊かな包容力と深い優しさに溢れる煌仁の微笑みを前に、翠子の心の厚い壁がぽろぽろと剥がれていくようだった。
「煌仁さまは、東宮の地位をお譲りになったら、それからどうするのですか?」
「まず宮中を出て、大陸に行ってみたいな」
「え? 大陸って、唐へですか?」
「ああ。唐の国には、あらゆる国から人々が集まってくるそうだ。肌の色や目の色も違うらしいぞ」
「すごい、すごいです煌仁さま」
彼と話していると、翠子の小さな世界が無限に広がっていく。まるで自分まで外国の人々の中に入っていくような気さえした。
「母の声でか?」
「はい。煌仁さまの母君の声も、とてもとても優しい声でした」
幼子を残した母の声は、いつだって優しくて切ない。そして悲しい。
「そうか」と頷いた煌仁は、懐かしむように束の間遠くを見る。
「さあ食べよう。ほら、この焼き餅は美味しいぞ、ほら、口を開けて」
「え?」
「手袋が汚れてしまうから、口を」
恐る恐る口を開けると煌仁はにっこり微笑みながら、翠子の小さな口に餅を入れる。焼いた餅は醤が塗ってあるようだ。香ばしくて、少し苦くて、噛むほどに旨味が広がる。
「とてもおいしいです」
「だろう? こっちの餅は甘いぞ? さあ」
また口を開ける。
次に差し出された餅は艶めいていて、口の中に広がる甘葛はうっとりするほど甘く疲れが消し去ってゆく。
「どうだ?」
「こんなにおいしい餅は初めてです」
「そうか、それは良かった。喉も渇いただろう」
今度は麦茶が入った器を差し出す。それくらい自分でできるのに、せっせと世話を焼く煌仁がなんだかおかしくて頬がほころぶ。
東宮にこんなふうにして頂いていいのだろうか?
殿下ではなく煌仁と呼んでほしいと言われても、最初は戸惑った。
煌仁さまと言うとうれしそうに微笑んでくれるので、そうさせてもらっているが、彼が心を開いてくれているのは翠子にもわかる。なんとはなしにうれしかった。
笑顔の裏で、臆病な心が影を潜めはじめる。
豊かな包容力と深い優しさに溢れる煌仁の微笑みを前に、翠子の心の厚い壁がぽろぽろと剥がれていくようだった。
「煌仁さまは、東宮の地位をお譲りになったら、それからどうするのですか?」
「まず宮中を出て、大陸に行ってみたいな」
「え? 大陸って、唐へですか?」
「ああ。唐の国には、あらゆる国から人々が集まってくるそうだ。肌の色や目の色も違うらしいぞ」
「すごい、すごいです煌仁さま」
彼と話していると、翠子の小さな世界が無限に広がっていく。まるで自分まで外国の人々の中に入っていくような気さえした。