桜の下で会いましょう

依楼葉は、真っ直ぐに桃花を見た。

「我はね、桃花。流行り病をしてから、睦事ができなくなってしまったよ。」

桃花は、唖然としている。

「生死を彷徨ってから、そう言う事が、虚しく感じるんだ。」

「そんな……」

桃花はよろめいて、手を床についてしまった。

「もちろん、桃花は私の妻だから、誠意を尽くすし、これからも共に人生を生きたいと思っている。だけどこの状態で、他の女の元へ、通う事など、できると思う?」

桃花は、うんともすんとも言わない。

「できる訳が、ないでしょう?」

ダメ押しとばかりに、依楼葉は否定した。


「いえ……もしかしたら、私に仰って下さったように、誠意を尽くせば……」

尚も他の女の可能性を否定しない桃花に、依楼葉は目を閉じずにいられなかった。


こうなれば、最終手段なのだろうか。

依楼葉は目を瞑りながら、桃花を抱き寄せた。

「せ、背の君様……」
突然の事に、桃花は顔を赤くする。

その様子を見ると、女の依楼葉でも、可愛らしいと思ってしまう。

殿方が好きになる女と言うのは、こういう可愛らしい人なのだと、依楼葉は思った。


だが桃花は、別な”モノ”を感じ取ったようだ。

「背の君様……」

「ん?」

「何だか、胸がおありの様。」

依楼葉は、突然両手を上にあげた。

「肩も華奢になられたようですし、胸もあんなに肉付きがよかったと言うのに、今はまるで……」

「いや、その……」

「まるで、女のよう……」


ああ!父上様、ごめんない。

桃花に、我が依楼葉であると、知られてしまったかも!


依楼葉は、覚悟を決めた。

「ふふふっ!」

だが意外にも、桃花は笑って見せた。

「えっ……」

「そんな訳、ありませんね。女が、中納言の役職等、できる訳がありませんものね。」

それを聞いて、依楼葉は心からほっとした。
「さあ、もう今日は休みましょう。」

「そうだね。」

すっかり心を許した依楼葉は、桃花の隣で寝てしまう。


草木も眠る丑三つ時。

寝入ってしまった依楼葉の胸元を、桃花はそっと捲った。

「やはり……」

いくら流行り病で、体を鍛えていないからと言っても、この胸のふくよかさは、女しかいない。

しかも夫・藤原咲哉には、依楼葉という世にも珍しい、双子の妹がいる。

しかもこの妹。

漢詩が好きで、武芸にも通じているという部分まで、夫に似ているのだ。


だが桃花は、そんな依楼葉が労しくて仕方がない。

男の成りをして、中納言の職を全うしようとする依楼葉。

初めての恋に、思い悩む依楼葉。

病気のせいで、抱けなくなったけれど、桃花には誠意を尽くすと言ってくれた依楼葉。

どれも桃花にとっては、見ていて痛々しい。


だが、この荒波を依楼葉一人で乗り越えるのは、至難の業だ。

「私が、あなたをお支えします。ねえ……我が背の君様……」

桃花は、依楼葉の胸にすがるのであった。
双子の兄・藤原咲哉に扮する依楼葉の仕事は、中納言と言う、大臣の言葉を他の者に伝達する役目だ。

簡単なようだが、摂関家(摂政・関白)の子息しか、成る事はできない、大切なお役目だ。

父・藤原照明は、関白左大臣と言う、帝に代わって政治を行う偉い地位についていた。

本来であれば、参議に15年以上参加しなければ、中納言の位に就けないのだが、摂関の意向があれば、15年未満でも中納言の位に、就くことはできる。

藤原照明は、自分が関白になった途端、息子の藤原咲哉を、わずか20代前半で、中納言の位に引き上げてしまったのだ。

だからこそ依楼葉は、全く参議に参加していない身で、咲哉の代わりに中納言の仕事を、勤めなければならなかった。

だがそこは、仕える上司が父。

少しずつ仕事を教えて貰いながら、なんとか日々の職務をこなす毎日。

加えて他の大臣達も、参議の経験が浅い事も承知の上なのだから、失敗しそうになれば、それとなく助けたりしていた。
そんな中、中納言の仕事を初めて1か月した頃。

父から、こんな話をされた。

「春の中納言。実は今から、帝のお側に侍る事になった。」

「そうなのですか。父上様は、関白も歴任されてますから、大変ですね。」

時の帝は五条帝と言って、父・藤原照明の人柄を買って、ぜひ関白にと申された。

関白は本来、帝(天皇)に代わって、政治を行う役職なのだが、五条帝は、既に成人している。

時を伺っては、五条帝と藤原照明とで、政治の事を話し合っていたのだ。


「今までは、そなたの身が重かろうと、他の中納言に側について貰っていたのだが、どうだろう。この度はそなたが、父の側につかぬか?」

依楼葉の肩に、重い重責が圧し掛かる。

「……私に、勤まりましょうか。」

「まだ重き荷と思うのなら、今回も他の中納言に頼んでみる。」

依楼葉は、じっと考えた。


いくら病み上がりとは言え、断り続けたら咲哉の評判が、落ちるのではないか。
「承知致しました。精一杯、お勤めを果たします。」

そう答えた依楼葉に、父は微笑みかけた。

「大丈夫じゃ。そなたは、思いのほか賢い。我らも何かあれば、助けに入る。これも経験と思うて、思い切って飛び込んでみることじゃ。」

「はい。」

依楼葉の頷きに、父・藤原照明も頷く。


こうして、翌日。

中納言・藤原咲哉に扮した依楼葉は、初めて帝の前に、侍る事になった。

いつもと同じ、黒い衣装を身に着けても、緊張の度合いは、計り知れない。

遂に依楼葉は、帝がおわす清涼殿に、足を踏み入れた。


最初は父である、関白左大臣・藤原照明の後ろに、座っていた。

「帝におわせられましては、お健やかなるご様子、お喜び申しあげます。」

すると帝の側に侍る者が、それを帝に伝える。

その者を介して、また帝の言葉が伝わってくる。

その役目を、依楼葉も担うのだ。


「関白殿。帝は、そなたもお健やかである様子、加えてご子息の回復を、お喜びである。」
「この上なき、お言葉でございます。」

依楼葉も、父と共に頭を下げる。

自分の回復まで気遣ってくれるなんて、お上はとても優しいお方なのだろう。

依楼葉は、そう思った。


すると父は、依楼葉に目配せした。

自分の斜め前に、座れという合図だ。

この場所で、父の申した事を、簾の中にいる尚侍や、蔵人に告げる。

そして依楼葉が、席を移動しようとした時だ。

蔵人が、依楼葉を止めた。

「関白殿。帝は、直にお話になりたいと、申されております。」

「えっ!!」

関白は、帝を補佐する役目なので、直に話をする事は、決しておかしい事ではなかったが、蔵人や中納言のいる中で、直に話をするとは、稀な機会だった。

父が簾の向こう側を見ると、帝は真っすぐ自分を見ている。

「承知致しました。」

父・藤原照明は一礼をすると、依楼葉に御簾納の側にいるようにと、伝えて、その中に入って行った。
御簾納側には、蔵人と中納言である依楼葉が、控えた。

この時の蔵人は、右近衛大将を兼任していた、頭中将・橘厚弘で、太政大臣・橘文弘の子息であった。

緊張していた依楼葉に、橘厚弘が微笑む。

せっかく微笑みかけてくれたのに、無下にもできず、依楼葉も微笑み返した。

「お初にお目にかかります、中納言、藤原咲哉と申します。」

依楼葉は、先に挨拶をした。

「ええ、噂はかねがね聞いております。春の中納言殿。」

初めて会ったと言うのに、相手はニコニコしている。

「頭中将殿は、」

話しかけると橘厚弘は、手を前にして、依楼葉の話を止めた。

「頭中将と呼ばれるのは、どうも好きではありません。私の事は、右大将とお呼び下さい。」

「は、はい。」

頭中将は、帝に仕える蔵人の中でも、家柄がよく学識のある者がなった。

武官と呼ばれる今で言う、武士の中でも、最高の位が近衛大将で、左右に一人ずついた。
橘厚弘のように、大臣の子息は、蔵人と大将を歴任する事が多かった。

勿論、大将は蔵人よりも位が高く、中納言と同じ従三位。

それでも帝の前では、武力よりも知識人を表す頭中将と呼ぶのが、いいのではないかと、依楼葉は思ったのだが、本人は違ったようだ。

「まあ、同じ止ん事無き方(身分の高い方)にお仕えする者同士、仲良くしましょう。」

そう言って、気さくに微笑んでくれた橘厚弘。

橘厚弘と言えば、父は橘文弘で、時の帝のはとこだと言うのに、全くすかした感じもない。

依楼葉は一目で、橘厚弘を気に入った。


「では、お上。早速、政の件でございますが、」

「ああ。」

依楼葉は、帝の声を聞いて、目を大きく見開いた。

どこかで、聞いた事のある声だ。

「この度の飢饉の事、宮中にある米を、一部開放した方が、よいと思われます。」

「私も、そう思っていたところだ。」

その柔らかく、力強い声。