「ひぃいいい!い、依楼葉!そなた、何をする気なのだ!」
「依楼葉!危ないから、刀を放しなさい!」
すると依楼葉は、突然長い髪を、肩まで切り始めた。
「はぁぁぁぁ……」
女の命を切り始めた依楼葉に、母は気が遠くなる。
ある程度、髪を切った依楼葉は、上着を脱ぎ去り、袴になった。
「おい、おまえ。依楼葉の姿を見ろ。」
「ええ……」
目を開けた母の瞳に、一人の青年が飛び込んできた。
「さ、咲哉?」
さすがは双子。
髪を切った依楼葉は、咲哉の生き写しだった。
「父上様、母上様。我は今日から、咲哉になります。」
「い、依楼葉!?」
そして依楼葉は早速、胡坐をかいて見せた。
「私は咲哉から、左大臣家を頼むと言われました。」
「咲哉から?」
父と母は、顔を見合わせた。
「我に、婿をとっている暇はないのでしょう?しかも、咲哉がいないくなれば、西の方も右大臣家も、危なくなる。」
依楼葉は、力強い目で父と母を、見つめた。
「この依楼葉が!左大臣家を守ります!」
そこには、微塵の迷いもない、一人の若者が座っていた。
「それは、願ってもいない事でしょうけど、依楼葉……あなたの人生は、それでいいのですか?」
母は、依楼葉の身を案じた。
「この家が潰れれば、我が身も危なくなります。左大臣家を守る事は、我が身も守る事だと、我は思います。」
その言葉を聞いて、父は息を飲んだ。
「もしかしたら、いけるかもしれぬぞ。」
「あなた?」
父は、依楼葉の後ろに回ると、肩まである髪を、紐で簡単に結い上げた。
そして、自分の上着を依楼葉に着せ、冠も依楼葉の頭に乗せた。
その姿は、どこからどう見ても、咲哉にしか見えなかった。
「依楼葉は偶然にも、武術もできるし、漢詩も好きだ。文武両道だった咲哉の代わりが、できるかもしれない。」
「あなた……」
父は決心したかのように、立ち上がった。
「依楼葉よ。父も、腹をくくったぞ。」
「父上様……」
父は、依楼葉の肩をグッと、掴んだ。
「依楼葉。左大臣家の為に、咲哉になってくれ。中納言に必要な知識は、父が授ける。いいな。」
「はい!」
勢いよく返事をした依楼葉は、横たわっている咲哉を眺めた。
初瀬川 ふる川の辺へに 二もとある杉
年を経て またも相見む 二もとある杉
(初瀬川と布留川の合流するあたりの川辺に、昔から二本立っている杉。私たちも、年を経てのち、再び逢おう、二本立っている杉のように。)
「咲哉、見ててくれ。我は必ず、お主になってみせる。我も死してお主に再び会う時には、よくやったと誉めて貰うようにな。」
依楼葉は、冷たくなった咲哉の手に、自分の手を重ね合わせた。
次の日。
咲哉は、峠を越えたと皆に、伝えられた。
当の本人は、密かに埋葬され、藤原咲哉という名も、伏せられた。
「咲哉。いつかこの墓標に、お主の名を刻むからな。」
咲哉に扮した依楼葉は、まだ名も刻まれていない墓石に、手を合わせた。
そして早速、父・藤原照明に、中納言の職を教え込まれると、やはり元が賢いせいか、ものの数日でその職務を覚えきった。
「依楼……いや、咲哉。今日から、中納言として出仕するが、心つもりはよいか?」
「はい、父上。」
元より中納言の職は、三大臣を補佐する役職。
左大臣が本当の父であるのだから、これ程心強いものはなかった。
だが難題は意外にも、家の中にあった。
「背の君様。ご回復、何よりもお喜び申し上げます。」
峠を越えたと聞いた妻・桃花がいち早く夫を、見舞ったのだ。
「ああ、有難う。」
その声を聞いた桃花が、目をぱちくりさせる。
「背の君様。なんだか、お声が高くなったような……」
二人の間に、父が分け入った。
「峠は越したと言っても、まだ病床の身。声もいつもと違うのは、当たり前の事じゃ。」
「そうそう。まだ、本調子ではない故のう。」
母である東の方も、間に入る。
事情を知っている佐島は、その様子を見て、ハラハラドキドキだ。
「そう……ですよね。」
ほっとする父・母と依楼葉。
「ところで、依楼葉様の姿が、見えませんが……」
三人は、またビクビクと、体を震わせる。
「実は……」
東の方が、ある事を思いつく。
「嫁入りの前に、私の実家にて、作法見習いをする事になったのです。」
それを聞いた桃花は、顔がぱぁっと明るくなる。
「まあ。もしかして、嫁入り先が、決まったのですか?」
「ええっと……まだ、なの、です、が……」
苦しい言い訳に、依楼葉と東の方が、目を合わせる。
「それでも、行儀見習いとは良い事です。私もここに来る前に、母の実家にて、行儀見習いをしていました。」
「そうでしょう、そうでしょう。」
思い付きで言ったはずなのに、桃花と重なる部分があって、心なしか助かったと思う東の方。
「ああ。ようございましたなぁ、背の君様。」
「えっ?」
突然の事に、桃花と依楼葉は、顔を合わせる。
「……背の君様。早く、依楼葉様の婚姻が、決まればいいのにと、申していたでは、ありませんか。」
「ああ、そうだった。」
無理やり、話を合わせる依楼葉。
「このままで行けば、うまい具合に、婚姻先も決まりますね。」
桃花は、首を横に傾けながら、話をする。
自分の時には、愛想のない無表情で、最低限の事しか話さないと言うのに、相手が夫だと思うと、こうも可愛らしく話すのか。
依楼葉は、女は怖いと思った。
「では早速、今日の午後から、宮中に出仕しようかのう。」
「はい、父上。」
やっと桃花から解放されると思うと、依楼葉はほっとする。
「もう……具合はよろしいのですか?」
「ああ。そう、だな……」
依楼葉は、横を向く。
「先ほどは、まだ病床の身故と……」
するとまた、父と母が、依楼葉と桃花の間に、分け入る。
「あまり、間を置くとだな。変な噂も立つのだ。」
「そうなのです。こういう時には、一旦顔を出すのが、大切なのですよ。」
慌てふためく二人に、桃花はへえ~と、納得の様子。
「では、背の君様。お気をつけて、いってらしゃいませ。」
「ああ、有難う。も、桃花。」
そして桃花は、自分の住む西の対に、戻って行った。
桃花の姿が見えなくなると、一気に息を吐く三人。
「なんとか、乗り越えましたね。」
「ああ。」
ほんの一時なのに、やけに疲れた依楼葉。
いくら、桃花を守る為であっても、これから本当に、桃花と一緒にやっていけるのか。
不安な依楼葉であった。
そして、陽も高くなった頃。
依楼葉は、父に連れられて、宮中に参内した。
「おお、春の中納言殿。すっかり、お元気になられて。」
そう話しかけてきたのは、桃花の父・右大臣の藤原武徳だ。
ちなみに藤原武徳は、父・藤原照明の従兄弟にあたる。
「これはこれは、叔父上様。」
依楼葉は、頭を下げる。
「何が、叔父上様だ。いつものように、お父上様と呼んでくれ。」
「えっ?」
ハッとして依楼葉は、桃花の父だと言う事を、思い出す。
「そうでした。我らの関柄は、義親子。」
「何を今思い出したかのように。大丈夫か?婿殿。」
武徳が、依楼葉の肩を掴む。
「むむむ。婿殿、病み上がりのせいか、体も細くなり申したな。」
依楼葉と一緒に、父・照明も慌てる。
「そうなのです。ずっと、寝たきりでして……」
父が、言い訳をしてくれる。
「無理もございません。流行り病と聞いた。回復できたのも、奇跡のようなもの。ご自愛くださいませ。」
そして、何とか。
この危機を脱出した親子。
「そう言えば……」
「な、何ですか!?父上。」
一難去って、また一難?
依楼葉は、嫌な予感がした。
その時だ。
「ああ!春の君様!」
「お久しぶりに見たわ!」
「きゃああ!こちらを向いて!」
宮中にいる女房達が、依楼葉に向かって叫ぶ。
「ひぃいいいい。」
依楼葉は、また別な場所に移動する。
そうすると、簾の中から女房の声がした。
「ああ、春の君様。何とも艶めかしい。」
「病気をされてお痩せになられたか、一段とお美しくなられた。」
「見るだけでも、目が癒される。」
依楼葉は、口をあんぐり開けた。
「言い忘れたが、依楼葉。」
父は、依楼葉の耳元で囁いた。
「咲哉は、宮中でも一番の色男でな。」
「い、色男!?」
依楼葉は、自分の知らない咲哉の一面を垣間見た。
「妻の桃花に一途な反面、女房達の目線を楽しんでは、上手く受け流していた。」