一方その頃、仕事を終えた斎は内裏の南あたりを歩いていた。

「お~い、そこな蔵人少将(くろうどのしょうしょう)どの」

 蔵人少将、とは斎の官職名だ。呼ばれて振り返れば、向こうの渡殿から丸々とした男が手招きしている。黒い直衣姿の左大臣だった。

「左のおとどさま? 何か御用でしょうか」

 近くまで走り寄って礼をすると、左大臣は引き眉を持ち上げて笑顔を見せる。

「うむ。他ならぬおぬしにしか頼めぬことがあってのう」
「この斎に……でございますか!」

 何やら自尊心をくすぐる言葉に斎の顔が輝く。左大臣は意味ありげに手持ちの檜扇を開くと、小声でささやきかけた。

「ほれ近う……もう少し近う寄ってたも」

 斎がやや頭を下げた姿勢で前へ出たなら、さらに招き寄せる。やむを得ず顔を上げ面を近付けると、左大臣は扇で口元を隠しながら耳打ちした。

「実はな……。我が家の末姫が、近々帝に入内するのじゃ」

 斎の顔が一瞬こわばった。左大臣はまだ検討段階のことを、さも決定事項であるかのように――それも重要な秘密であるかのように斎に告げる。

「さよう、でございますか。それはその……。めでたきことにございますれば」

 斎はさーっと頭の血が引いて、脈拍が早くなるのを感じた。だが自分でもなぜこんなに胸がざわついているのかがわからない。それでもなんとか、祝いの言葉を喉から絞り出す。

「ところがのう、帝がどうにもはっきりしなくてな。入内の日取りがなかなか決まらんで困っておるのだよ。……おぬし、ちぃとばかし帝を焚きつけてはもらえんか? 早く返事をしてくれと」

「おぬしなら帝に物申せよう?」とまくしたてられて、不敬な要求に斎はムッとした。
 実は、帝に取り次いでほしいと斎に寄ってくる者は多くいる。斎は帝と近しい上、蔵人として直に謁見する機会が多いと思われているからだ。しかし彼女がこういった話を引き受けたことは一度だってない。都合の良い伝書鳩になる気はさらさらなかった。
 斎は冷静になろうと深く息を吐いた。そして何度目になるかわからない断り文句を舌の上に乗せる。

「主上の御心は、主上ご自身のものでございます。それを臣下が動かそうなどと、恐れ多きことにございます」

 だが、左大臣は引き下がらない。

「そこをなんとか」
「できませぬ」
「西国の珍しい菓子はいらんか?」
「いりませぬ」
「ええい、たかがおなごごときが偉そうな口をきくな!」
「へっ!?」

 突然怒鳴りつけられて、しかも女だと指摘されたので斎は狼狽した。

「い、いえ、何をおっしゃいます、いいい斎は、立派なおのこですからして……」
「ふん、どちらでもよいわ」

 あわてふためく斎を前に、左大臣はバチン! と威圧するように大きな音を立てて扇を閉じた。

「――蔵人少将よ。おぬし、今、帝にとって一番の重要事は何か知っておるか?」
「…………」

 動揺からすぐに答えられず黙ってしまう。すると左大臣の声が急に低くなった。