「――そういえば、あっちのテーブルの上、カップ置きっぱなしでした。洗って片付けてこないと。ちょっと行ってきます」

「じゃあ、わたしもお手伝いするわ。たまにはね」

「よろしいんですか? ありがとうございます」

 彼はすっかり空になっていた三人分のカップや湯呑みをトレーに回収し、わたしがドアを開けて、二人で給湯室へ向かった。

 初めて足を踏み入れる給湯室は、彼のもう一つの〝城〟のような場所。もちろん、秘書室に在籍している他の社員も利用するのだけれど、その一画に揃えられている彼愛用のコーヒー道具一式には、誰ひとり手を触れないのが暗黙のルールになっているようだった。
 それはなぜかというと、村上さんも山崎さんも、コーヒーはインスタントしか飲まないから、なのだとか。

「わぁ……、本格的ね。これでいつも淹れてくれてるのね。ホントにバリスタみたい」

 わたしが彼の愛用品に感動していると、彼は眉を軽くひそめた。

「どしたの?」

「……やめて下さい。兄に言われたことを思い出してしまうんで」

「あぁ~……、さっきの話ね」

 お兄さまに「兄弟で喫茶店をやろうぜ」と言われたことが、本人には不本意だったようだけれど。わたしには、彼が白シャツ・黒パンツに長いバリスタエプロンをして、喫茶店の厨房に立っている姿が簡単に思い浮かんだ。

「そんなにイヤなの? 似合いそうだけど」

「イヤというか……。バリスタには興味あるんですけど、兄と一緒に店やるのだけは御免被りたいんです。野郎同士で仲良し兄弟って、なんか気持ち悪くないですか? ムサいというか」

 どうやら彼は、〝ブラコン〟だと周りから冷やかされるのがイヤなようだった。わたしには兄弟・姉妹がいないため、その感覚がよく分からなかった。

「どうなのかなぁ……。わたしはひとりっ子だから、兄弟の関係がどうとか分かんないけど。仲がいいのはいいことだとは思うな」

「……まぁいいですけど」

 彼はムスッとしたまま、水を張った洗い桶にカップと湯呑みを浸け、洗剤を泡立てたスポンジで洗い始めた。
 わたしは彼がすすいだ食器をクロスで拭いて、食器棚にしまうのを手伝おうと、水切りカゴの前で待っていたのだけれど。

 ――不意にわたしのジャケットの右ポケットで、スマホが震えた。

「……ちょっとゴメンね、電話みたい。――ん? この番号って」

 どこかで見覚えのある番号、と思ったら、その日に教わったばかりの悠さんの携帯番号だった。

「――もしもし、悠さんですよね? 先ほどはどうも。――あの、どうなさったんですか?」