「池澤さん」

 わたしの前で幸野が言う。
 つめたい空気に、白い息を吐きながら。

「つらいこととか、家族に話してる?」
「え」
「池澤さんって、なんでもひとりで抱え込んじゃうだろ? 苦しかったら誰かに話しなよ。お姉ちゃんとかさ」
「お姉ちゃん?」

 幸野の口元がわずかにゆるむ。

「わたしにお姉ちゃんがいることも……知ってるの?」
「知ってるよ。小学生のときに見たから」

 見たって……わたしが四年生のころ、お姉ちゃんはもう中学生で。
 外で一緒にいることなんて、ほとんどなかったのに。

「昨日も一緒に帰っただろ?」

 昨日……歩道橋で幸野と別れたあとだ。

「見てたの?」
「見えたんだよ。道路の反対側から」

 一歩足を踏みだした幸野が、わたしの肩をぽんっと叩く。
 そして追い抜きざまに、わたしの耳元でささやいた。

「元気そうだったね。池澤莉乃さん」

 お姉ちゃんの名前まで?
 わたしがあわてて振り返ると、幸野はもう階段を降りようとしていた。

「ちょっと待って!」

 わたしは叫んだ。幸野の背中に向かって。

「あんた……誰なの?」

 ゆっくりと振り返った幸野が、わたしに笑いかける。

「誰って……幸野悟だよ。ちゃんとこの名前、覚えて?」

 幸野は、ははっと乾いた声で笑って、大きく手を振る。

「じゃ、また明日! 池澤莉緒さん!」

 階段を駆け下りると、幸野はわたしの家とは反対の方角へ走っていった。