残酷な世界の果てで、君と明日も恋をする

 お姉ちゃんがお母さんと一緒に、家を出ていく。
 わたしはその場に立ちつくし、考える。

 もしかしてお姉ちゃんは、わたしから逃げたかったのかもしれない。
 いや、わたしというか、幸野から逃げたかったんだ。
 でもわたしがいまも、幸野のことを気にしてるって知っているから……だからお姉ちゃんはこの家を出ていったんじゃないかって、わたしは思っている。

 ちいさく息を吐き、誰もいないキッチンに入る。
 するとテーブルの上に、お姉ちゃんがバイトしていたケーキ屋さんの箱が置いてあった。
 箱にはお姉ちゃんの字で書かれた、メモが貼られてある。

『大好きな莉緒と、お父さんへ』

 箱のなかをのぞいてみたら、いつか店長が試作したイチゴののったケーキが商品となって、箱の中にふたつ並んでいた。
 わたしの目から、また涙があふれる。

 わたしは床に膝をつくと、子どもみたいに声を上げて、わんわん泣いてしまった。
 そして泣きながら思った。
 もうこんなふうに、誰にも泣いてほしくないって。
「莉緒……早いな。もう起きてたのか?」
「あ、おはよう。お父さん」

 翌朝、わたしはまだ暗いうちに起きて、お弁当を作った。
 お姉ちゃんを送っていったお母さんは、おばあちゃんちに泊まっているからいない。
 起きてきたお父さんは、わたしの作ったものを見て、不思議そうな顔で聞く。

「学校の弁当か? やけに量が多くないか?」
「いいの。これで」

 ついでにお父さんの朝食も用意してあげて、いつもより早く家を出る。

「いってきます。お父さん」
「ああ、気をつけてな」

 わたしは駅のほうへは行かず、まだ小学生の登校していない通学路を歩き、学校のフェンスに沿って進む。

 久々にやってきた団地のあった場所は、建物がすっかり取り壊され、更地になっていた。
 立ち入り禁止のロープのそばには、看板が立っていて、ここにマンションが建設されると書かれてある。

 わたしはその場に立ちつくし、朝の陽ざしに照らされている地面を見ながら、寒かった季節を思い出す。
 毎朝、つめたい風の吹くなか、古い団地の階段に、幸野はぼんやりと座っていた。
 だけどあいつは言っていた。
 ここにいても、お兄さんには会えないって。
 わたしはお弁当の入ったバッグをぎゅっと抱えこむ。

 幸野はずっと、お兄さんを探してる。
 いまもずっと、探してる。
 でもね幸野、お兄さんには、もう会えないんだよ。

 この世界は変わらない。
 だからわたしたちは、お兄さんのいないこの世界で、生きなくちゃいけない。
 いつまでもあの日に立ち止まったままじゃ、だめなんだよ。

 わたしは顔を上にあげる。
 真っ青な空が頭の上に広がっている。
 そして昨日、お姉ちゃんに言われた言葉を思い出す。

『莉緒は莉緒の好きなように生きてね』

 うん、お姉ちゃん。そうさせてもらうよ。
 どうあがいても、もがいても、この世界で生きるしかないんだったら、わたしはここで幸せになりたい。

 きっと、幸せになってもいいはずだ。
 わたしも、あいつも。
 朝のにぎやかな廊下を駆け抜ける。

「あ、おはよう、莉緒」
「どうしたの? そんなに急いで……」
「お、おはようっ! またあとで!」

 ぽかんとしている女の子たちを追い抜いて、わたしはとなりのクラスに飛びこんだ。

「幸野っ!」

 大きな声でその名前を呼び、幸野の席の前に立つ。
 ぼんやり外をながめていた幸野は、わたしに気づき、驚いた顔をする。

「お願い。一緒に来て」
「え?」

 わたしは幸野の腕をつかむ。
 幸野がびくっと肩を震わせ、すぐにそれを振り払う。

「なに言ってんだよ。もうすぐ授業はじまるぞ? 自分の教室に帰れ」

 幸野がわたしから目をそらす。
 わたしは幸野の机の前で、その姿を見下ろす。

 楽しそうに笑いあっている、生徒たちの声。
 窓から差し込む、明るくてあたたかな日差し。
 にぎやかな教室のなか、この席だけが止まっている。
 幸野だけが、いつまでもずっと、止まったままなんだ。

「もう一度、海に行きたいの」

 わたしは幸野に向かって、言葉を吐いた。

「海?」

 顔をしかめた幸野の前で、わたしは強くうなずく。

「もう一度、あの日をやり直したいの」

 わたしはふたたび、幸野の手を取った。

「意味……わかんねぇ……」
「わかんなくてもいいよ。とにかく一緒に来て」

 幸野のバッグを肩にかけ、その手を引っ張り立ち上がらせる。
 近くの席にいた生徒たちが、わたしたちのことを不思議そうに見ている。
 そんななか、わたしは幸野を連れて教室を出る。

「ほんと……意味わかんねぇよ、あんた……」

 幸野はもう一度ぼそっと言ったけど、わたしの手を振り払おうとはしなかった。
 電車に乗って、海のある駅を目指した。
 車内は今日もすいていて、わたしたちは並んで席に座る。
 まだ寒かった日、幸野に連れられて、こうやって電車に乗ったのを思い出す。

 あの日、眠ってしまった幸野がわたしにもたれかかってきて……わたしと触れ合った体が、すごくあたたかかったっけ。
 わたしはちらりと、となりに座る幸野を見る。
 幸野はわたしと目を合わせないように、黙って窓の外を見つめていた。

 終点で電車を降りると、ひとの流れに沿って、改札を抜けた。
 空はよく晴れていて、春のやわらかい風が、制服のスカートの裾を揺らす。

 すこし歩くと、目の前に海が見えてくる。
 同時に、あの日ふたりで入ったレストランも見えて、胸がちくんっと痛む。
 わたしは黙ったままの幸野の腕をつかむと、国道のわきの階段を降り、砂浜に向かった。
「わぁ……」

 目の前に広がった青い海を見て、思わず声がもれる。
 幸野はそんなわたしのとなりでため息をつき、やっと言葉を吐いた。

「で、どうしたいんだよ?」
「え?」
「あの日をやり直して、おれに仕返しでもするつもりか?」

 となりを見ると、幸野がふてくされた表情で、くしゃくしゃと黒い髪を掻いた。
 わたしはその顔を見つめながら、首を横に振る。

「ちがうよ。やり直したいのは、その日じゃない」

 幸野が不思議そうにわたしを見下ろす。

「わたしがやり直したいのは、四年生の遠足だよ」
「四年生の……?」

 わたしは幸野の前でうなずいた。
 そして通学バッグのなかに手を入れる。

「ほら、見て。わたし、お弁当作ってきたの。レジャーシートもあるよ?」

 バッグのなかから、お弁当を取り出すと、幸野は顔をしかめた。

「なんのつもり?」

 わたしは手をおろし、静かにつぶやく。

「今日、お兄さんの亡くなった日だよね」

 幸野がひゅっと息をのむ。
 四年生だったわたしたちが遠足に行って……家に帰った幸野が見たのは、もう亡くなってしまったお兄さんだった。

「あんたはまだ……あの日で止まったままなんだよね?」

 幸野はお姉ちゃんに言っていた。
 あの日のことは、昔のことなんかじゃない。
 ついさっきの出来事みたいだって。

「でもそれじゃ、だめなんだよ。このままじゃ、あんたに楽しいことがきっとこない」

 わたしは手を伸ばし、幸野の制服をぎゅっとつかむ。

「だってあんたが言ったんだよ。これからわたしにもあんたにも、楽しいことがきっと起きるって」

 幸野がわたしの手を振り払おうとする。
 でもわたしはその手を上からつかんだ。
「それにわたしも、あんたがいないと楽しくない。楽しいことなんかなんにも起きない。でもあんたがいれば……これから楽しいことが、きっとある。きっと、たくさんある」

 幸野の手をぎゅっと握りしめて言う。

「だからわたしと一緒にいてよ。わたしのそばに……いてほしい」

 幸野がわたしの前でくちびるを噛んだ。
 そして静かにつぶやく。

「なんで……おれなんだよ」

 その声はかすれていた。

「おれなんかやめろよ。ほかに男はたくさんいるだろ? 羽鳥くんみたいないいひとにも、告られたんだろ? なに考えてんだよ。あんたはほんとうにバカだ」
「うん」

 わたしはうなずく。

「わたしは……ほんとうにバカだね」

 どうしようもない想いが、涙と一緒にあふれる。
 幸野の前で笑ったはずなのに、わたしはいつのまにか、泣いていた。

 わたしの頭のなかに、たくさんのひとの顔が浮かぶ。
 お姉ちゃんの顔。あかりの顔。お母さんとお父さんの顔。見たことのない幸野のお兄さんやお母さんの顔。
 そのひとたちの声や想いがぐちゃぐちゃに混じりあって、わたしのなかに波のように押し寄せる。

 わたしは間違っているかもしれない。
 正解なんてわからない。
 でもやっぱりわたしは……幸野じゃなくちゃ、だめなんだ。

 幸野はそんなわたしをじっと見ていた。
 ただ黙ってじっと見て、やがてその手をそっと伸ばす。
「だったら……」

 幸野の手が、わたしの背中に触れる。
 そしてそのままぐっと、自分の胸に抱き寄せた。

「だったらあんたも、いなくなるなよ」

 わたしの涙で濡れた顔が、幸野の制服に押しつけられる。

「おれもあんたに……そばにいてほしいから」

 幸野の手に、力がこもった。
 苦しくて、でも離れたくなくて、わたしはその体にすがりつく。

「うん……わたしはいるよ」

 くぐもったわたしの声は、幸野の耳に届くだろうか。

「ずっと、幸野のそばにいるよ」

 だから帰ろう。遠足から帰ろう。
 もう怖くないから。大丈夫だから。
 つらかったら、わたしが支えるから。

「このどうしようもない世界のなかで、一緒に生きよう」

 生きていればきっと、こんなわたしたちにも幸せが来る。
 わたしたちはまた明日、一緒に笑いあえる。

 手を伸ばし、幸野の体を抱きしめた。
 ぎゅっと強く、抱きしめた。

 幸野はわたしの胸のなかで、声を立てずに泣いていた。
「えっと……こっちがおにぎりで、こっちがサンドイッチ。おにぎりの中身は鮭とおかかと梅干し。サンドイッチはハムと卵とツナだから」

 わたしたちはお互いの目が真っ赤になるまで泣いて、ぎこちなく体を離して、なんとなく気まずいまま、レジャーシートの上にお弁当を広げた。

 わたしの説明を聞いている幸野は、さっきからずっと唖然とした顔をしている。
 え、やっぱりおかしかったかな。
 引いてる? わたしのこと。

「あのさぁ……」
「な、なに?」

 レジャーシートの上で正座をして幸野を見る。

「これぜんぶ、ひとりで作ったの?」
「うん、そうだよ」
「ふたり分だよな?」
「うん」
「ちょっと……多すぎないか?」
「え、だって……幸野がおにぎりとサンドイッチ、どっちが好きかわからなかったし。中身もなにがいいのかわからないから……」

 つまりわたしは、幸野のことをなんにも知らないんだ。
 顔を上げると、幸野がじっとわたしを見ていた。
 わたしはあわてて口を開く。

「こ、幸野は、おにぎりとサンドイッチ、どっちが好き?」
「どっちも」
「え……」
「池澤さんが作ってくれたものなら、どっちも」

 今度はわたしがぽかんっと口を開けたら、幸野がおかしそうに笑った。
 そして鮭のおにぎりとハムのサンドイッチを両手に持つと、「いただきます!」と言って、勢いよく食べはじめる。

「うん、うまい。おにぎりもサンドイッチも」

 その様子を見ていたら、なんだか体の力がふわっと抜けた。

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