それから、なぜか遥奏の歌唱指導が始まった。
 最初は、「上手上手!」と言って適当に褒めてくれたのだけど、だんだんのめり込んできたのか、僕の歌を細かく注意し始めた。

「もっと元気よく!」
 適当に声量を上げてみる。
「いいね!」 
 続きを歌う。
「あ、そこ二番は下がるの!」
 適当に音程を下げてみる。
「うーんとね、半音高いかも!」

 無邪気な声が、次々と僕の耳に入る。
 すると、だんだん、胸の中に黒っぽい感情が溜まってきた。

 生き生きと僕にダメ出しをする遥奏。
 その笑顔は、歌を歌うことは全人類にとって楽しいことだと、疑うことなく信じているように見えた。
 でも、残念ながらそれは違う。
 遥奏のように歌唱力のある人は、いつ何時でも歌うことを楽しいと感じるのかもしれない。
 けど、僕のようなセンスのない人間は、歌うことで必ずしも気分が良くなるとは限らない。

「出だしの発音はっきり!」
「……あのさ」
 我慢の限界に達した僕は、歌うのをやめて立ち上がった。
「ちょっとわがまますぎるよ!」
 遥奏が、口を開けて僕を見ている。
 給食のスープをこぼしてしまった時のような、「しまった」という表情。
「ご、ごめん」
 俯いて、消え入るように言う遥奏。

 地面を彷徨うその瞳を見て、僕は今しがた自分の口から飛び出した声の大きさに気づいた。
「いや……ごめん、そんなに強く言うつもりはなかったんだけど」

 別に、拒絶したかったわけじゃない。
 ただ、少しは、僕の気持ちも考えてほしかった。

 数秒間、どちらも何も言わなかった。
 二人の間を、一月の風が無言で通り抜ける。

 言い過ぎたかな。
 僕が場を取り繕う言葉を探していると、
「……あはは」
 遥奏が下を向いたまま、小さな声で笑い始めた。

「ごめんごめん、調子乗りすぎたね、私!」
 ばつが悪そうに苦笑いして、顔の前で手を合わせる遥奏。
「少しの間だけでも秀翔と一緒に歌えて、楽しかったよ! ほんとにありがとう」
 気のせいか、最後の九文字は、中身がぎっしり詰まったお菓子袋のようで。
 鼓膜に、たしかな質量が残った。

 僕が何も言わないでいると、遥奏はポケットからスマホを取り出して「おっと」と口を丸くした。
「こんな時間か! 私今日は早めに帰らないといけないから! じゃあね、秀翔!」

 いつものように大きく手を振る遥奏。
 僕もいつも通り、社交辞令的に手を振り返した。
 どうせ丸一日立たないうちにまた顔を合わせるんだろうな、なんてことを思いながら。

 ——ところが、次の日、遥奏は河川敷に来なかった。