あの後ずぶ濡れのまま家に帰ったが、風邪を引くなどというありふれた展開はなく、雨は俺の健康に対して何ら影響を与えなかった。

 それでも雨が嫌いなことに変わりはなく、昨夜から降り続く雨を教室の窓から忌まわしく眺める。

 雨の日に学校を休むことはやめた。

 雨の日に俺が登校したら少し騒ぎになるだろうかと思ったが、思いのほか教
室の雰囲気は変わりなくいつもの日常が流れている。

 透明人間を演じてきたのだから当然の扱いか。居ても居なくても変わりない。

 窓に吹き付ける雨は未練がましく、ゆっくりと波線を描きながら落ちていく。

 そう言えばあの女もこの学校に居るのか。

 名前も名乗らず消えた女を俺は忘れることが出来なかった。あの目が今も脳裏に張り付いている。

「おーい。無視すんなよ」

 ふいに顔の前に手を出されて我に返る。

「悪いぼーっとしてた」
「体調でも悪いのか?」

 俺は無言で首を横に振る。
 本当にもう何ともないのだから心配されても困る。

「何か俺に用か?」
「用というか、何というか」

 言いづらそうな表情を浮かべて言葉を濁す。

「はっきり言えよ」
「どうして学校に来てんの?」

 この会話だけを切り取ったら仙都はかなり酷いことを言っているように聞こえるだろうが、普段の俺は雨の日に登校していなかったのだから当然だろう。

「あ、いや別に、来たら悪いとかじゃなくてさ」

 慌てる仙都に落ち着くように手を前に出す。

「意外と平気だったんだよ。知らないうちに治ってた」

 仙都は瞼をしばたたせて困惑の表情を浮かべる。

「一念発起したとか、吹っ切れたとかそんなことはないってことだよ。何も変わってない」

 そこまで言えば仙都もわかってくれるはずだ。

「なんだ。女でも出来たのかと思ったのによ」

 真意は伝わったようで、欧米の人のリアクションを真似しながら冗談を言って話題を打ち切る。

「そうだ。女といえばなんだけどさ。この学校で黒髪が綺麗で目が死んでる生徒っていない?」
「何それ?」

 自分で言っていても何を言っているのかわからなかった。
 たったそれだけの特徴でわかるはずがない。

「ごめん。忘れてくれ」
「無理だな」

 仙都は机に体重を預けて詰め寄ってくる。

「聡が女の事を聞くなんてただ事ではない。これは面白そうな匂いがするぜ」
「面白がるな。忘れろ」
「嫌だね。何があった。吐いて楽になっちまいな」

 刑事ドラマのセリフを真似をする仙都は机の筆箱を俺に向けてくる。マイクのつもりだろうか。
 刑事なの記者なのか突っ込もうとすると関山先生が意気揚々と教室へ入ってくる。

「今日からこのクラスに仲間が一人増える」

 突然の転校生に教室が異様な騒めきに包まれる。

「転校生って可愛いのかな?」

 クラスの誰かがそんな言葉を発すると、そこら中がざわめき立つ。

「転校生が女子って決めつけるなよ。男だったら可哀想だろう」

 仙都も例に漏れず、先ほどの話を忘れて興奮していた。

「入ってくれ」

 関山先生が入り口に向けて声かけるとゆったりとした足取りでその転校生は教室へと入ってくる。
 
 夜に染まったような黒髪、月の光を吸い込んだような白い肌、すらりと伸びた手足、そのどれもが既視感で埋め尽くされている。

「糸杉梓(いとすぎあずさ)です。中途半端な時期での転校ですが、これからよろしくお願いします」

 細波のように何かを洗い流すような声にも聞き覚えがあった。しかし、一部だけ違うところがある。

「超可愛い」

 仙都の呟きを合図にしてクラスにいた生徒が糸杉に詰め寄っていく。

 糸杉梓と名乗った女は日向のような笑みを浮かべて、次々に浴びせられる質問に答えていく。その瞳は戸惑いを見せ、如何にも転校生といった表情である。

 クラスの男子共は既に魅了されていた。

 関わりたくないと思っていた。二度と会いたくないと思っていた。それなのにまた出会ってしまい、クラスメイトとして関わりを持ってしまっている。

 何か見えざる手が俺を罠に嵌めようとしているとしか思えない。

「そんなに睨み付けるな。これから仲良くやっていく仲間だぞ」

 クラスメイトに囲まれる糸杉を恨めしく睨んでいると、関山先生が隣で呆れた様子で佇んでいた。

「向こうはそんなこと思ってないですよ」
「ん? 知り合いなのか?」
「別に」
「ま、そんな事よりも。音霧は放課後に指導室な」

 こちらが断りの台詞を言う前に関山先生は転校生に群がる生徒たちを鎮圧しに行く。
 どうにかして回避する方法を考えなくては。